1-1-5
こんこん、と控えめなノックの音が聞こえた。
「フィーン、ちょっと入りますよー。」
間延びした声がして、扉が開けられた。
相変わらずボサボサのよれよれの恰好でレイが立っている。
部屋の中に首を突っ込んできょろきょろして、ベッドの脇に座り込んだままのフィンを見つけ、アメジストの目をぱちぱちとさせた。
「おや、フィンどうしたんですか。具合でも悪いんですか?」
面倒臭がりの師匠が3階まで来るのは非常に珍しい。
よほどの用事なのだろうか。
フィンはのろのろと立ち上がって戸口まで歩いた。
「別にどこも悪くありません。何のご用ですか。」
相変わらず無表情の弟子の言葉に、師匠はにこやかに言う。
「本当に?ならいいのですがね・・・ちょっと顔色悪いから心配しちゃいましたよ。
あ、そうそう。」
自己管理の出来ない年中他人に心配かけてるような人間に心配などと言うセリフを口にしてほしくない。
金髪の師匠は、抱えていた2冊の本を差し出した。
フィンは「?」を頭の浮かべながら分厚い本を受け取った。
「ちょっと年齢的に遅いかもしれませんが、能力があれば時期など大した問題ではありません。
そろそろ始めましょうか。」
フィンは両手で重い本を抱えて師匠の顔を見上げた。
「え・・・」
「私もただ叱られるしか能のない人間ではないと言うことを読者の皆さんにも知って頂かなければなりません。
どうやら私はだらしない大人と思われているようですから。」
いや実際そうだろう。紛れもなくそうだろう。
「このままでは師匠の資格を剥奪されそうですからね。」
不思議な紫苑の目を片方瞑ってみせて、レイは笑った。
そう、実は師弟と言う間柄で通しているにもかかわらず、フィンは今まで一度も魔術の手ほどきを受けたことはなかった。
「ただし、私が良いと言うまでそちらの赤い本は決して開かないで下さいね。
茶の方は簡単に言うと植物図鑑です。菜園の管理に役立つでしょうから。」
・・・読んで欲しくないと言うなら何故今渡すのだろうか。
やることなすこといちいち意味不明な人だ。しかし修行を始められるのは有難いので黙っておく。
「分かりました。それで私は他に何をすればいいですか。」
「当面の間は、特に何もして頂かなくて結構ですよ。
あ、そうですねー取り敢えず“視る”目を開き、また養って下さい。そして信じること、これが全てです。」
抽象的な言い方をされても困るのだが。
見る目を開く?養う?一体何のことだ?
「“見る”目ではなく“視る”目です。どうやるか、それを探すのもあなたの仕事です。
既に修行は始まっていますよ、フィン。」
フィンは驚きに目を瞠って師匠の顔を見つめた。
今・・・フィンが考えていたことを・・・
長身の魔術師は穏やかな、そして海の凪のような静けさをアメジストの瞳に宿してフィンを見下ろしていた。
背筋も伸びていて、よれよれの恰好なのに・・・どこか神々しくも見えてしまうのは目の錯覚か。
いや錯覚だろう。
「まあ、焦らず頑張って下さい。あなたならできますよ、きっと。」
人の好い笑顔を浮かべるレイはいつも通りだった。白々しい励ましのセリフまで付け足して。
やはりさっきのは疲れが見せた目の錯覚だったに違いない。
「私はちょっと報告書出しがてら本部に行ってきますから、お留守番よろしくお願いしますね。明日には帰れると思いますから。」
2軒先のご近所に「ちょっと行ってくる」的ノリでさらっと言ってのけて下さったが、本部はここから早馬を出しても5日かかるほど遠い。
だが、そこは腐っても魔術師。
この師匠は日帰りで出張するほどだ。
本人曰く、「あんなところには一秒だって長居したくない」らしい。
基本は引きこもりだ。平和に引きこもるためなら厄介な仕事も速く終えられるほど。
「どうぞゆっくり行って来て下さい。
て言うかその気になればこんなに速く出来るのにどうして前もってやっておかないんですか。」
冷ややかな弟子の言葉に、レイは少し考えてから(真剣な顔で)偉そうに胸を張って言った。
「明日できることは今日やらない。今日は今日しかできないことをする。」
フィンはすっと半眼になると扉をぴしゃっと閉めた。
その戸に寄りかかって溜め息をつく。
あ、下の村のアルノールさんに小麦粉分けて貰いに行かなきゃ。
ペレツさんにはツケ代金の代わりに油を貰おう。
それからふと顔に手を当てた。
鏡台に本を置き、鏡を覗き込む。
顔色、悪いだろうか。
ん、ちょっと疲れているのかも。
肌にハリがない。
風邪を引かないように気をつけなきゃ。
師匠は見ていないようで見ているから油断がならない。
フィンは唸った。
山を下る道をてくてくと歩きながらフィンは難しい顔をしていた。
と言っても普段から冷めた表情なので端から見ればいつも通りである。
実際、フィンの微妙な表情の変化に気付けるのは、親しくしているカワセミ村のヘレンとギルバートの中年夫妻 ― いつも畑や手に入らない食材で世話になっている ― とレイくらいなものだろう。
フィンはあの日以来、ほとんど笑わなくなった。否、笑えなくなった。
心の醜い大人たちの前で歯を食いしばり感情を殺し、冷静さを失わないよう闘っているうちに、人前で感情を表すことがあまりできなくなってしまった。
そして、顔のほとんどは髪に隠れているから余計他人がフィンの顔色を伺うのは難しい。
ポニーでいいから、馬が欲しい。
そうすれば下のカワセミ村まで30分、帰りは40分、場合によっては重い荷物を持ちつつ1時間歩くことはないだろうから。
でも、とフィンは考え直した。
レイはほとんど仕事はしないわ、代金回収に無頓着だわで、甲斐性なしだから財産はあまりないし、村でも馬は貴重だからそう簡単には譲ってはくれない。
フィンは蔓で編んだ籠を持ち直した。
風が吹いてフィンの髪を玩んだ。片手で髪を押さえて、空を見上げた。
―――・・・風の精、か。
昔、自然界には様々な精霊がいると聞いた。
魔術師はそれらの精霊の力を借りたり、御したりする。
力の強い精霊は一般人の目に見えることもあるらしいが、大抵は見えない。
フィンは勿論、見えない。
「視る、目・・・」
精霊を見ることが出来るようになると言うことだろうか。
魔術には大概精霊の力が必要だから、まずフィンがしなければならないことは精霊が見えるようになることだ。
・・・魔術師ははじめから幾らか力を持っていると思っていた。
私はゼロからのスタートだけど・・・大丈夫なのかな・・・
そう言えばレイは年齢的に遅いと言っていた。
今年17になったけど・・・普通は何歳から始めるんだろう。
フィンは風の中に目を凝らして見たが、やはり何も見えなかった。
諦めて歩くことに集中することにする。村まであと少しだ。
そう思って前方に目を向けた時、少し遠くに騎馬がひとつ見えた。こちらに近付いてくる。
フィンは訝しく思いながらも道の脇に退いた。
この先はフィンとレイの住む館しかない。
乗り手は騎士のようだった。
甲冑に身を包み、立派なマントを靡かせてやって来る姿は少し可笑しかった。
平和なこの山あいの村でまるで戦に行くような居出立ちだ。
軍馬に跨がる騎士はフィンの横で突然止まった。