連載◎短編小説
【風は吹いているか 第4話】
『ハッピースポット』 千野龍也
向かって右側の自動ドアから石塚陽子は店内に入った。
すぐ正面に下りエスカレーターがある。
街の普通の本屋のごく普通のエスカレーターだ。
それは二階に上がるのではなく、地下に下がる。
美しいと思う。
このエスカレーターだけで、国立に越してきた価値はある。
自分は運がいい。
下りきった突き当たりを左に折れ、絵本の棚を右手になるようにして、また左に折れる。
正面のカウンターに突き当たり、こんどは右に折れ、角まで来る。
[自然科学]
[心理]
[宗教]
棚を示す札を確認し、端から一冊一冊の本のタイトルを黙読してゆく。
自分にとって大切な何かの何をも取りこぼさないようにゆっくりと。
「わっ、すごい!私、この棚を全部大人買いしたい!」
どれくらい経っただろう。心理の棚の途中まで来た時に、左の後ろから声がした。
振り返ると全集の棚の前に制服を着た二人の高校生がいる。
「あっ、伊勢物語!」
高校生のひとりがおもむろにスマートフォンを取り出すとカシャリと大きな音をたて本の背表紙の写真を撮った。
その音は、カシャリと片仮名で吹き出しになるほど単純な乾いた音だった。
「お父さんにこの写真を見せるの。買ってくれるかな」
「いいね、その作戦。私は他に探したいものがあるから1階にいるね」
友だちはその全集の棚には興味がないようだった。
「うん。もう少しチェックしたら私もすぐに上がるね」
友だちの階段を上がる足音が消えるのを待ち、石塚陽子はその子に声をかけた。
「あなたはこういうのが好きなのかしら」
「あっ、はい」
高校生は戸惑いながら返事をする。
テレビドラマに出てきそうな真面目を絵に描いたよう、長い髪をひとつにまとめ、銀縁の眼鏡をかけている。
しかし、その黒い瞳ははっきりとこちらを見つめていた。
「変わっていると言われます」
「ううん、まったく。素敵なことだと思うよ」
「ありがとうございます。おそらく理解はできていませんが。でも、、」
「でも?」
「落ち着くんです」
「そう。なぜかしら?」
「わからないけど、、。こういう世界もあるって知ってれば、なんとか学校に行けるんです」
「そう」
「あっ、友だちが上にいるんで、、。失礼します」
余計なことを話してしまったと恥じらいながら浅くお辞儀をし、その子は階段を上がっていった。
(さて、どうしたものか)
その子との会話が今日の成果物となり、タイトルの黙読を続けることに意味を無くしてしまった。
(今日はもうやめよう。このまえここで買ったまま読んでいない本も二冊ある)
歩きはじめた。
右手に岩波書房とみすず書房。
書店員がダンボール箱から新刊書を出し、この本はどの棚に仕分けすれば適切かを相談している。
地下1階のもうひとつのカウンターに突き当る。
そこに居る書店員に瞳だけでお辞儀をする。
今の会話を聞かれていたかもしれない。
左に折れて階段を登る。
地上に出て、突き当たりがまたカウンターだ。
そこでは地元の人らしきおばあさんと書店員が会話をしている。
この街の昔話らしい。
正面玄関の今度は右側のドアから出るか、すぐ左手にある裏口から出るか一瞬迷う。
裏口から出よう。
先ほどの高校生との会話を自分の中に溜めておきたかった。
外に出ると秋色の陽の光が眩しかった。
今日は久しぶりの青空だ。
(あの子は幸せになるといい)
石塚陽子は大股に風を切るようにして歩きはじめた。
書いている人:千野龍也
数十年の長い間において、私にとってのまさしく国立ハッピースポットを書かせて頂きました。
もちろん今も。そしてこれからも。
エスカレーターは動いています。
≪バックナンバー≫
【連載】短編連作小説「風は吹いているか」千野龍也
◎第1話 『30分で決められる』
http://ameblo.jp/kunitachihappyspot/entry-12180640222.html
◎第2話 『わたしと遊びなさい』
http://ameblo.jp/kunitachihappyspot/entry-12187524335.html
◎第3話 『9月になれば』
http://ameblo.jp/kunitachihappyspot/entry-12200072505.html
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