でんでん安倍総理と「法の支配」 | 気力・体力・原子力 そして 政治経済

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 (旧有閑爺いのブログ)

 
 でんでん安倍総理は色々なスローガンやフレーズを使い、そして使い捨てにします。
 以前盛んに使っていたのが「日本を取り戻す」、「瑞穂の国の資本主義」、「戦後レジームからの脱却」です。最近は手垢にまみれたし、「でんでん」もとい「全然」効果がないと感じたのか、この3つのフレーズは使っていません。もう使い捨てたのでしょう。

 代わりに最近多用しているフレーズが「法の支配」です。
 
 このフレーズも突っ込みどころ満載です。もともとはアメリカが好んで使うフレーズですが、なぜこれを使うかです。アメリカは基本的に「力が支配する国」ですので、「法の支配」が彼らが考える理想であり、そうあって欲しいと願うからそう口にするのです。
 また、アメリカは「人権」をしばしば口にします。しかし、アメリカは人種差別大国です。差別をなくすことが出来ないがゆえに「人権」を口にするのです。
 今「人権」が尊重されていないから、そして出来るなら「人権」を尊重したいから、「人権、人権」と騒ぐのです。
 同じように、「力の支配」を排除できないがゆえに「法の支配」と叫ぶのです。
 
 翻って、日本はどうなのかです。日本には古くから「律令」として「法」が制定されており、鎌倉幕府が定めた貞永式目は、以降の日本社会の方向性を定めたとまで言えるもので、法は日本の隅々までいきわたっていたのです。貞永式目による裁判(当時の言葉で公事ごと)は数多く行わて、その裁判記録は膨大な量が残されております。その記録のほとんどは「依って件(くだん)の如し」という結語を持つことでよく知られています。
 因みに「依って件(くだん)の如し」とは「すでに判例がある、だからこの件はその判例通りとする」という意味です。ということは法の適用は日常茶飯のことであったということです。また、江戸時代の「手習い」つまり文字の学習と作文の教材は、庶民階級では消息文すなわち手紙でしたが、武士階級では貞永式目とその判決文でした。このように力が支配する国アメリカと日本は根本的に違い、古い昔から法治国家でした。
 
 以上のことを下敷きに、本題に戻ります。
 
 「法の支配」という言葉は日本人からすると大変に傲慢不遜な言葉であります。この言葉の根本には、人間は支配の対象であるとの思いがあるのであり、「上から目線」を超える強圧を加えることを是とする考えが大本にあるのです。
 日本では、「人の世は作ったのは人である」という考えが根本にあります。夏目漱石も小説「草枕」でそのことを次のように記しています。
 『人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世がすみにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ』
 そのうえで、住みにくいなら住みよくしなければならないと説いているのです。つまり人の世を住みよくするシステムやルールがあることを暗に示唆しているわけで、それが日本の法であり、決して人を支配するための道具ではないのです。
 日本では、人が住みよく暮らしていくためのシステムとルールが法であるわけです。
 
 一方、西洋はキリスト教社会ですので、人間は神様が作ったものです。ですので人間は神の支配のもとにあるわけです。そして政治の目標は神の義(おそらく絶対的正義)の地上における実現になるのです。つまり人の世は神様のものなのです。
 従って法は、神の義の地上における実現のため、人間を支配するための神の道具であるのです。すべては神の名において行われるわけで、「法の支配」こそが絶対正義の実現の唯一の方法なのです。
 
 翻って、でんでん安倍総理は「法の支配」という西洋の思想を何の咀嚼もせずベラベラとまくし立てるしか芸のない「日本人に非ざる日本人」つまり「グローバル人」なので、我々日本人が住む日本を住みよいものにしようなどとは毛筋ほども思っていないのでしょう。
 こうした安倍総理の頭脳構造の異常さは以前に「安倍晋三の頭脳は、誰が生んだのか。 」というエントリーで紹介しましたのでよろしければ併せてお読みください。
 http://ameblo.jp/kumuka99/entry-12229138099.html
 
 結局、「日本」を知ることなく育ち、その場その場で聞きかじったフレーズを使い捨てるだけの「たわけ」を総理にまで仕立て上げた我々が、大きな間違いをしたのでしょう。