皆川公美子です。
今日はちょっとヲタクなアプローチ
「美術の社会性」①~その原初には「感じる」というモードがある
美術は「人の意識のエネルギーを物質的なかたちにしたもの」であると定義しています。
作家が自分のなかから出てくる精神性・感情・心のあり方や恣意的な実験の意図、そういものを紙や、石や、金属や、布のうえに形にしたもの。
エネルギーというのは、「仕事をする能力」です。
(*wiki
仕事をすることのできる能力のこと。
物体や系が持っている仕事をする能力の総称。)
例えば机のうえのコップを横に押せばコップは移動します、それはコップに人間の力が加わって、そのエネルギーがコップに作用し位置の移動が起こったということです。
美術においても同じことが起こっていると考えます。
精神活動は意識のエネルギーです。
それが、肉体という入れ物のなかで動きまわっている。
それを他人が触れることのできるものとして、かたちにしたもの、それを美術と定義するならば、そのエネルギーは人間の精神に影響を及ぼします。
私が美術に対してとるスタンスは、「まずこの作家のエネルギーを物質をとおして受け取る」という1対1の対峙を味わうということです。
それは自分のなかで何が起こっているのか、ということを観察するということに他なりません。
まず私に何が起こっているのか。
食べ物を食べたり、
アロマのいい香りをかいだり、
お気に入りの音楽を聴いたり、、、
いわゆる五感をつかって何かを味わうとき、
そこにあるのは「感じる」という感覚です。
これは「思考を使って考えている」というのと異なります。
「これはビタミンが多く含まれているから体にいいに違いない」
というのは論理思考。
「あ~おいしくて体がワクワクするみたい」
という「感じるモード」とは決定的に違います。
考えていることと感じること。
考えていること、というのは肉体をとおらず頭で考えていることです。
感じている、というのは必ず肉体の感性を伴います。
美術における、自己への影響、自己への作家の仕事、を考えるとき、
「その絵が社会的にどうであるか、どのような評価をくだすべきか」という位置付けを考えることよりも前に、
私はこの「肉体を通して感じるという選択をする」ことが重要であると考えています。
なぜならば、個人的快・不快を感じることが、
本当の意味での行動につながるからです。
個人が快・不快を感じて、「あ~楽しい」「あ~気持ちがいい」「あ~うれしい」という基本的感情が起きるとき、本当の意味で絵に向かう気持ちのベクトルが起こる。
今現在、そのような感情のプロセスを経ずに、
美術という仕事をしているプロフェッショナルも、
最初の行動はこの「感動を味わう」「作家のメンタリティーを味わう」
ところから出発しているだろうことは想像に難くありません。
美術の社会性を考えるとき、私はプロフェッショナルやその周囲の玄人集団のみならず、
いわゆる普通の人にいたるまで、
多くの人が「絵画を購入する」「絵画を美術館に観に行く」「絵画を見て楽しむ」という風通しがよい、健康な社会的な空気、
ができることが必須だと考えます。
その鍵となるのは
「人が絵に対して感じるモードを取り戻す」
ということではないかと思えるのです。