惟新伝心~わしのおかげ!?~ | 熊本城おもてなし武将隊武録ー雲外蒼天ー

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皆の衆、かつて徳川家康殿にも怖れられた男…島津義弘である。



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本日は清正殿と共に夕涼みツアーで客人達を案内致した。


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多くの客人に参加いただき嬉しい限り!


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気分をよくした清正殿も、四百年前の逸話を赤裸々に告白!!


…今日のツアー参加の皆には、加藤清正という男がさぞかし腹黒く見えたことであろうな!



かくいうわしも、わしなりの持論を話させてもろうた。



熊本城が築城されたのは関ヶ原の戦いも終わった後、江戸幕府の下に天下泰平の世へと進みだした頃のこと。

戦や争いごとが無くなったにも関わらず、なぜ清正殿はこんなにも堅牢な城、戦をするための城を築城する必要があったのか?



それはきっと、我ら島津家の存在を怖れたためである!!



わしは関ヶ原の戦いを“島津の退き口(のきぐち)”と呼ばれる壮絶な撤退戦の末、見事に薩摩に生きて帰ることができた。

これは前代未聞の奇跡であり、島津義弘の名はあの徳川家康殿でさえも怖れたほどじゃ。



そんな男が、肥後のすぐ隣の薩摩に生きている。



となれば、当時はわしと友好的な関係ではなかった清正殿がわしを警戒するのも無理はなかろう。


我ら島津家への対抗策として、これ程までに巨大な要塞、熊本城を築城した。

こう考えられるのではないか?


もしわしが関ヶ原の戦いで命を落としていたら

もしわしがもっと弱い男であったら


清正殿は熊本城をこんなにも難攻不落な城にはしなかったはずじゃ。



故に、ここでわしは主張する。



熊本城がこれほどまでに立派な観光地となったのは…



このわし島津義弘のおかげじゃーーーーー!!



…と、わしは密かに思っておる!!



わしの持論はともかく、ツアーに参加いただいた皆は楽しんでいただけたであろうか!?

夕涼みツアーはまだ続く。

次はどの武将からどんな話が聞けるか、お楽しみに!!



では本日はこれにて。
皆の衆、明日もよき一日に。


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島津義弘