【4】「犯罪のプロとアマチュアの距離」 プロフェッショナルとしての本格犯罪【連載】 | a.k.a.“工藤明男” プロデュース「不良の花道 ~ワルバナ~」運営事務局

■プロであっても犯罪者は市民にうとまれる存在


 戦争がルール(国際法)に則った正当な犯罪であるのとは違って、一般犯罪に法的な庇護(かばってまもること)はありえない。

 それどころか、プロの傭兵ですら殺人が合法化される戦場とは正反対に、銀行強盗や窃盗犯は初めから終わりまで国家権力が取り締まり、社会的に排斥される刑事犯罪者である。犯罪者を取り締まる社会原理は、警察権力が任務として依って立つ存立基盤(存在し、成り立つための基盤)なのであって、そこにはいささかも妥協の余地もない。

 国家と警察の取り締まりはともかく、市民によろこばれる存在かといえば、こちらもまるでダメなのである。国家予算を根こそぎ投入されて、貸し渋りでふんぞりかえっている金融機関を強盗して庶民に憎まれたりすることは少ないかもしれないが、首尾よい成功を妬まれることは大いにありうるだろう。

 街角に指名手配の顔写真でも貼られて市民生活を脅かす犯罪者だと煽られれば、伝統的にお上になびく癖のあるわが市民は、先を競って警察の手先となるであろうことは、筆者が請け負うところだ。

 そうなってしまえば、手際のよい犯行に庶民が快哉(胸がすくようなこと)を叫ぶどころか、いくらプロフェッショナルの仕事を誇ったとしても、子供にも指弾(非難、排斥されること)される惨めな市民の敵なのである。


■独自の職業意識とプライドが必要となる犯罪のプロ

 したがって、戦争のプロが殺戮と破壊に対して持っている殺される前に敵を殺す論理だとか、仮想敵を殲滅するにじゅうぶんな政治的動機づけ、さらには仕事量に対する報酬の明確さなど、仕事を構成する要素は一般犯罪のプロにとっては、きわめてこころもとないことになるのだ。これでは職業としては、あまりにもリスクが多すぎる。

 本人にとっての仕事に対する意識の持ち方も、ずいぶんと危ういはずだ。

 戦争であれば、計画が実行されてしまえば後には引けないし、雇い主と契約を交わした段階で、どのような形であれ仕事は始まってしまっている。ところが強盗や窃盗などの犯罪には雇い主がいないので、自分の都合でやめてしまうことが可能なのである。

 さりとて、仕事をしなければ食べてはいけない身の上。自由気ままに仕事ができるというのは、拘束のない遊び人のような自由業種というか、気楽なようだが犯罪のプロにとってはきわめて不利な条件といえる。

 そこで、犯罪のプロフェッショナルには、自分の存在をみたすに足る独自の職業意識が人並み以上に必要にされることになるのだ。彼の経験と人生観にもとづいた衿持(プライド)が、この場合には大きな比重を占める。

 その多くは、自分のおかした犯罪への贖罪(罪を償うこと)で心をまぎらわすのではなくて、方法論をめぐる素人の犯罪との峻別(厳しい区別)なのである。意外なことに、犯罪の方法や内容についてではなく、経験を積んだプロフェッショナルとアマチュアの識別こそが、彼ら犯罪者にとっての衿持になるようなのだ。

 それを教えてくれる材料として、劇画『ゴルゴ13』(さいとう・たかを)のシーンを参考にしてみよう。


■爆弾を利用した銀行強盗のプロ、マックス・ボイド

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<リイド社の『ゴルゴ13』SPコミックス コンパクト版・15巻>


『素晴らしきシカゴ』(1972年作品、小学館文庫11巻所収)に登場するマックス・ボイドは、年老いたとはいえホールダップ(手を挙げろ→拳銃強盗)をするために生まれてきたようなプロの強盗である。ハンフリー・ボガードが少し肥って歳をとったような、トレンチコートがよく似合う風貌の男である。

 彼はシカゴの暗黒を知る人々に大物と呼ばれ、ニューヨークで信託銀行を襲い、カンサスシティの銀行を襲撃してFBIに逮捕されたというのだから、筋金入りの犯罪のプロフェッショナルだといえよう。

 8年ぶりにシカゴにやって来たマックスは、かつて好きだった金髪のダンサーが鉄鉱成金の男と結婚したことを知って、衝撃を受ける。仮釈放中のマックスには、彼女を取り戻すための金が必要となったのだ。

 ちょうどシカゴの街は過激派による爆弾騒動のさなかで騒然としていたが、マックスは即座にその爆弾騒ぎが旧友のフレディの仕業であることに気づくのだった。

 爆弾事件で警察を過激派捜査に引きつけておいて銀行に押し入るという手口は、マックスがフレディと組んでニューヨークの銀行を襲ったのと同じだったのだ。

 仮出所の身であるマックスにはフレディと会うつもりはなかったが、フロリダで贅沢な暮らしをしているというダンサーの彼女を奪い返すためには、まとまった金が必要だった。こうして老練なプロの強盗は、ふたたび昔の仕事にもどるのである。


■かつての仕事仲間と会うが、かんばしくない状況に…

 銀行強盗を計画しているフレディのほうでも、仮出所してきたマックスが訪ねてくることを期待して、わざわざ酒場のマスターに自分のアジトを教えておいたのだから、旧友の参加は歓迎だった。

 ところがフレディのスタッフには、爆弾運びを手伝う愛人のほかに、若い2人の男がいた。愛人はともかく、男たちの分け前はマックスと同じだという。これが気に入らないのはマックスだけではない。

 若い2人はイタリア系移民であるマックスを侮蔑し、マックスのほうではスタッフに黒人がいることが気に入らない。マイノリティ同士がいがみ合う、ものすごい差別意識の入り組んだシーンだが、経験豊富なプロフェッショナルであるマックス・ボイドにとっては、素人と並べられることが何よりも我慢ならなかった。

 白人の若い男は「俺たちこそ、こんなじいさんと同じなんてごめんだぜフレディ!!」と言い放つ。

 分け前をあらためてマックスの取り分を多くしたフレディに、マックスは「黒いゴリラといっしょに仕事をするのは初めてだが…」と、差別意識たっぷりに返す。そこで若い2人とマックスが喧嘩となって、たちまち老練なプロに軍配が上がる。プロの犯罪者というのは、喧嘩も強くなければならないようである。

 いよいよ銀行を襲う段になっても、いきがる若い男をマックスはたしなめる。
「ラビット(臆病者)ほどやたらと拳銃をふりまわしたがるもんだぜ」

 彼は自信たっぷりにつづける。
「それが電気椅子への旅券だってことを、忘れるな」と。


■アマチュアの介入による犯行失敗への道のり

 はたして、マックスは怪しまれることなく銀行の中に入り、冷静沈着に行内の様子をうかがうが、強盗を射殺したこともあるベテランの警備員に怪しまれた若い男は、いきなり銃を発射してしまうのである。これで流血の押し込み強盗になってしまった。2人の若い男は、傷を負った警備員に殺されてしまう。

 外の車で待っていたフレディに、仕事を終えたマックスは言う。「やっぱりトウシロとは組むんじゃねえ…わけもなくひとり殺りやがった!」「Gメンが首をつっ込んでくるぜ…」と、あくまで冷静である。

 このあと、マックスとフレディは、連続爆弾事件が無政府主義者の仕業と考えた当局(FBIかシカゴ市警か?)の人間に雇われたゴルゴ13に射殺されるのだが、絶対に負けない主人公を相手に「な、何者だ!?」などと言ってもむなしい。

 テーマからは少々それてしまうが、周到と思えた彼らの計画の失敗の原因は、殺人のプロとして絶対の確率で仕事をなし遂げる主人公のゴルゴ13が介入したこともさることながら、逃走車両を追尾されたことである。

 フレディの愛人が乗り換える車でのんびり待っている場所まで、彼らは犯行車で逃走してきたのだから、ベテランにしては不用意としかいえないだろう。

 すべては結果論だが、奪った金をどこかですばやく受け渡すとか、仕事を終えたあとの行動を分散していれば、敵がゴルゴ13でもマックスとフレディのどちらかは生き残れたのではないかと思う。

 ゴルゴ13が乗り出しているという情報を持っていなかったのは、彼らの決定的な失敗である。知っていてもどっちにしてもゴルゴ13は仕事を果たすのだから、結果論だし、まあどうでもいいんだけど…。

bankrobber



■マックス・ボイドから読み解く犯罪者の“職業的プライド”

 プロフェッショナルの犯罪者に固有の職業的衿持は、マックスの言動のすべてにあらわれている。酒場では「ビッグ」として堂々と浮き名をほしいままにしながら、犯罪者としての負い目などは、微塵もない。

 ほかに堅気の仕事ができないのだといえばそれまでだが、眉ひとつ動かさずに仕事をなし遂げ、必要な金はいつでも銀行強盗で調達できると言わんばかりの感覚はさすがである。プロの仕事が忌み嫌う素人と組む危険性も、彼は実際の仕事でしめしてみせるのだから、読んでいる側も納得がいくというものである。

 粋なギャングが昔の仕事に戻れた70年代初頭のシカゴとは、まだそういう街だったのだといえばそのとおりで、マックスら犯罪者がホールダップを生業にできたのは、時代のなせるものだったと言えよう。

『素晴らしきシカゴ』はゴルゴ13シリーズの中でも初期の作品で、これ以降、プロの銀行強盗が本編に登場することは少ない。それにしても『素晴らしきシカゴ』が、古きよき時代のシカゴを追想するほろ苦いストーリーなのだとしたら、銀行強盗という本物のプロにしかできない犯罪は古典的な部類に属すのだろうか。

(5)本格盗賊たちの江戸、に続く

(作家 横山茂彦)