イスラム国(イスラム)は、新興宗教ではない。 | 気になる映画とドラマノート

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田原総一朗は「イスラム国」の目的がわからない、と言った。

 目的ははっきりしている。全世界の中産階級から富裕層までのイスラム教徒に対して、おまえらの信仰はにせものだ。偽物だということは、死後に訪れる終末の日には、地獄ゆきだ。それが理解できたら、われわれと共闘するなり、来て、一緒に国つくりに参加しろ、とこういうことなのである。

 非イスラム世界との戦いは彼らの目的の本質ではない。


 アメリカでは、キリスト教の保守団体が、頑強に妊娠中絶に反対しているし、猿と人類は進化上の関連性はないと言いはっている。また、仮に、暴力を振るわれても、絶対に警察に行かず、右を打たれたら、左を差し出し、左を打たれたら右を差し出すいじめられっ子が、敬虔なクリスチャンだとして、それが新興宗教だろうか。それこそ、聖書の教え通りなのだが、市民倫理からすれば奇異になる。

 儒教の韓国で、男女7歳にして席を同じゆうせず、と頑強に主張する教師の団体があらわれたら、それは新興宗教だろうか。

 イタリアでは、カトリック教徒同士の離婚は、浮気、不和、DV、何があっても、離婚できない。これなど、イスラム教ばかりを人権抑圧の宗教だとは言えないところだ。

 もうひとつ例をあげよう。キリストのカトリック教会が免罪符を売ったことがある。
 これは、本来、神が人間の罪を赦すはずなのに、教会が神に変わって、罪を赦す行為だった。
だが、このカトリックを新興宗教とは言わない。

 イスラム国も、新興宗教とは言えない。要するに、男女7歳にして席を同じゆうせず、と教えがあるのだから、そのとおりにしよう、とコーランその他の教えを厳格化した結果があのような有り様なのである。

 処刑にしても、キリスト教は魔女狩り、火炙り、十字軍によって暴力行為をやっていたのだから、本質的には、キリスト教つきつめた場合にでてきた暴力とイスラム教をつきつめた場合に出てきた暴力も本質的には、同じだ。儒教もまともみ書いてあるとおり、実行すれば、道徳的などころか、ものすごい人権抑圧がはじまるだろう。宗教には根本に欠陥があるのだ。

イランのホメイニ師も、キリスト教のアウグスチヌスも、ロシアのレーニン、キューバのゲバラも、遠い未来ではなく、生きている間の現世にアッラーの国、神の国、共産主義の国を現前させようとした。

 実は、イスラム教も、キリスト教も、共産主義も、創始者のつもりでは、近い将来に起こることではないと説明されているが、イスラム教も、キリスト教も、共産主義も、預言者、創始者の言い分を曲解して、神の国を現前させたがる。

 キリストもムハンマドも、死ぬまでは、信仰を維持せよ、いつの日か、(たぶんもうすぐ)時がくれば、復活して裁きの時が来るから、と言っているが、また、マルクスは、資本主義が発達したら、と言ったが、アウグスチヌスは、教会がそのまま神の国だ、と言った。だから免罪符も出した。現在もイスラム原理主義をそのまま国家の原理にしたがるホメイニ師はじめ、イランにも、エジプトにも、そういう宗派は絶えない。創価学会だって、本音は創価学会を日本の国教にしたいのが、出発点だったというのは本当の話だ。

 レーニンも、毛沢東、金日成、ポルポトも、マルクスが資本主義を通過したあとでなければ、社会主義はできない、と言ったのに、屁理屈つけて無理やり社会主義にしたから、似ても似つかない変な国になった。

 儒教国家の支那や朝鮮が、罪人の五体をバラバラに引き裂いたのは、彼らの伝統宗教の死生観では、死後に墓の下で、子孫に祀られて、食べ物を供えられると墓の下の死者が食べ物を食べることができるし、寂しくないという考え方にもとづいて、祀ることができないように、五体はバラバラにしてあちこちに別々にしてしまい、祀る子孫もないように、子孫は皆殺しにする。ただ、残虐だというより、死生観の教義上、理由あっての行為である。

 イスラム国は、「野蛮」だという人がいるが、彼らは、かつてのキリスト教の総本山の教会が免罪符を出したり、魔女狩りをして、火炙りにしたり、異端審問にかけたように、こうした、本来神のなすべき判断と罰を現世の司祭が代行していた。これと同じことを、「(自称)イスラム国」の指導者は行っている。


 だから、イスラム過激派は、少女の学問を否定するのである。儒教礼記んお席を同じくせず、と同様の教義があるからで、それは宗教上の戒律であり、侮辱や差別ともちがう。

 イスラム教もキリスト教もほんとうは「偶像崇拝禁止」なのだが、世俗化して、教義をしっっかりと守ろうとしないキリスト教は、キリストからマリアまで、盛んに絵画にしたり、銅像にしたし、これがまた、字を読み書き出来ず、聖書の中身を実際に読めないから、ほんとうはよくわからない民衆にも、キリストの悲しみ、マリアの慈愛の様子が描かれた絵画や銅像が示す、イメージとして信者を増やすことにもなった。偶像崇拝を禁じたはずのキリスト教世界では、実際には、キリストを映画にさえして、俳優が演じてさえいる。こうなると、本当のところ、キリスト教というのは、心底信じられているのではないことが、察せられる。

 ところが、イスラム教の場合、戒律を厳格に守る人はまだ、かなりいるので、小説の中に、描き込む事は禁忌だし、映画などは持ってのほか。絵にすることも、ハンサムにしょうが、滑稽にしようが、言語道断なのである。それに対して、怒らないなら、とりもなおさず、怒らない信者はアッラーを軽んじている証拠になる。

 しかし、絵画や映画が庶民の教科に役立つのはイスラム教の指導者にもわかっている。
 そこで、何が起きるか。あのイスラム国が動画にして世界に流している捕虜の処遇の様子とは、ムハンマドが預言している終末の、その日に異教徒、および多神教の者はどういうことになるか?とその説明に記された状況に近い状況が示現されるように、意図的に演出されているのである。

 ムハンマドは言う。裁きの時、裁かれる者の心境は、「ああ、みじめなことになった。これはいったい、なんという記録簿だ。何もかも、だらしない所業、戒律通りに礼拝することも怠って、神などないと侮って、その傲慢、怠惰すべて指弾されてしまうとは」とい言う心境になり、かつてのあらゆるたよりになった、妻、子供、親、、部族ももうお前を助けない、頼りにならない。おまを気にしているなら、どんな大金と替えてででも、おまえのことを忘れないはずではないか・・・と、これは実はイスラム教の終末の日に裁かれる者の心境なのだが、イスラム国の者たちは、非イスラム国のジャーナリストを、異教、もしくは多神教の敵とみなして、あの終末の日にムハンドマドが描写しているイスラム教徒以外の者が裁かれて陥る時の心境を再現させて、その気になっているのにほかならない。

 イスラム教においては、人間の魂の落ち着く先は、天国か地獄かのいずれかであり、地獄は、次のように説明されている。容姿不明の天使がずらりと並ぶ中、ジャハンナムの中に入って、住み、そして、焔ほのおを顔にかけられて、焼かれて唇から歯をむき出しにする、と。

 こうして、ムハンマドの裁きの過程に似せることによって、自分らはデタラメにただ、むちゃくちゃに殺す(たとえばアメリカの爆撃)のではなく、宗教教義に則って、裁いているのだ、世界の諸国のイスラム教徒なら、ムハンマドの書いたことを読んでいるから、われわれが、ただデタラメに殺しているのではないことは、わかるよな、と言う主張が込められている。


 これは、「野蛮」というものではなく、朝鮮、支那の古代の刑罰が四肢分断刑、九族皆殺しだったように、古代宗教を復古させようという宗教集団の、宗教上理由ある行動なのである。

 そして、彼らは、世界の中産階級から富裕層までのシスラム教徒に対して、おまえらも、キリスト教と妥協していい加減で、偶像崇拝に寛容な態度を」して、ムハンマドとアッラーをなあいがしろにしていると、コーランの教えにある通り、破教の者として、ジャハンナムの中に永久に入れられて、焼かれて苦しむことになるのだぞ、とこう映像で示しているのである。