日蓮 開目抄 | 気になる映画とドラマノート

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日蓮の「開目抄」

 シャカはインドのカピラ、ウルーカ、ルシャバという三人の哲学者の流れを汲む外道の弟子だった。

 12年修行して、自分自身で、菩提樹の下で悟った。

 一切、「苦」であり、一切「空」であると。

 絶対的存在はなく、絶対的神も存在しない、と。

 日蓮がなぜ、南無妙法蓮華経と唱えるかというと、法華経全8巻が、はじめて、独自の教えを説いた経説だと思っているからだ。
 法華経の別名サダルマ・プンダリーカ・スートラ
 末法の愚かな庶民を救済する方法は、この南無妙法蓮華経と唱えればよい、と日蓮はケッタイな思いつきにいたる。
 日蓮の言うことが本当なら、病気で苦しむ場合、戦場で飢えた場合、南無妙法蓮華経と唱えれば、助かるか、あるいは、死んだあとに、救われると信じて死ぬことになり、天皇陛下万歳といわずに、南無妙法蓮華経と唱えた日蓮宗徒もいたことだろう。クリスチャンが、オーマイガッとか、ジーザス・クライストと発話するように。

 シャカは、日蓮の見るところ、なんと40数年間、経として、教えを書き、72歳の時に、それまでの教えを否定したのだという。なんとも奇妙な考えで、シャカは、もし、72歳まで生きていなければ、間違った教えが残ったことになる。

 舎利佛シャリホツというのが、シャカ72歳の時の一番弟子で、彼は、シャカがいままでのは、みんなチガットッタワイというので、仰天して、諸天や竜神、大菩薩たちをガンジス川から集めたという。諸天も竜神も、大菩薩もいるわけがない。ところが、日蓮は、これを事実として、言い切っている。

 しかも、諸国の王が万億人、菩薩が8万人集ったというが、地球に、万億人も、王がいるわけがない。さながら、日本のアニメの「ハンターハンター」や
「ドラゴンボール」の闘技場のように、菩薩やら、諸国の王がわんさか集った、という。

 現在のラージギルの東北にある山が、シャカの説法した地と言われる。
 つまり、創価学会が「お山」「お山」と言うのは、そもそも、シャカが山で説法したので、日本の「山」をシャカの説法の地に見立てているのだろう。

 日本人には、遠方過ぎて、インドの山に行くことが諦められており、それを無意識のうちに押し隠しての「お山」である。

 いったい、この部分を、宮沢賢治は、比喩として受け取ったのか、本当の事として受け取ったのか、どうなのだろう、と疑問に思う。

 仏教徒は常にこの種のあり得なさそうな記述をまじめに受け取るか、何かのたとえとして受け止めるのか、迷わないのであろうか。

 龍樹の「大智度論」は、鳩摩羅什クマラジューによって、訳されて、100巻となったが、いったい、これ自体、ちゃんと読み通した人物は実在するのだろうか。また、鳩摩羅什の訳した100巻本は、実は略さなければ、1000巻になるはずのものだった、という。

 仏教というのは、あまりにも膨大な集積のため、仏教一宗で、何千巻という書物が残ったので、仏教思想を真剣に把握しようとするには、生涯を仏教思想の勉学に費やすか、つまみ食いするか、真言を唱えて、全部読んだとみなすことになった。

 現実には、龍樹は、生涯を「「大智度論」」執筆に費やしたに相違なく、鳩摩羅什も、生涯を「大智度論」の漢訳に費やしたのではあるまいか。

 真言宗の真言とは、一言唱えれば、「法華経」を全部読み上げたと同じこと、という言葉だという。

 龍樹は、南インドにある「鉄の塔」の中で、金剛サッタから、真言の秘教を伝えられる。
 鉄塔などあるわけがない。

 では、72歳の時、いまこそ、真実の教えを言おうとシャカが言って、皆がえっ?いまなの、?と驚いて、万億人が集って、聞いた、その内容とはなにか。

 「衆生はたくさんいる。これをみんなまとめて、みんな救う」と。

 そして、これを聞いた弟子たちは、「これほど深くて素晴らしい教えはない」と言ったことになっている。

  最澄は、「すべての者がブッダとなる」という教えを弟子たちは、その時、初めて聞いた、と解釈している、と日蓮は言う。

 梵天、帝釈、日天、月天を四天王という。
 太陽と月は、二天として、わかるが、梵天と帝釈天は何であるか、不明。

 しかも、太陽も、月も、仏教では、シャカの弟子扱いになっている。

 それとも、太陽、月とは、人物に付けられた名前のことなのだろうか?そうかもしれない。例えば、日下とか、月島という人物の姓のように。
 読み進めると、そうではなく、日蓮は、これを自然の「太陽」「月」のことだと解釈していることは、間違いない。では、梵、とか、帝釈とは何なのか。やはり不明なのである。ひょっとすると、大地とか、風のことを言っているのかもしれない。

 日蓮は以下に述べる説明のあとに、久遠の昔からの悟達者だと言うことを明らかにした法華経であればこそ、梵天、帝釈、日天、月天も、シャカの弟子だと言いたいらしい。

 おそらく、原始仏典の著作者のつもりでは、梵天、帝釈、日天、月天は、古代インド諸哲学の聖人のことだったが、日蓮は、本当の大自然を司る太陽、月、大地、などの菩薩の事と解釈している。


 大地から湧き出るように出現する多数の菩薩たち。

 これらの菩薩は、文殊菩薩や普賢菩薩などは、及びもつかないほど尊い姿だった、という。

 お公家さまたちの中に山賊がいるような差だった、という。

 いま、シャカは、72歳であるが、そのシャカが死んでから、56億7千万年後に、弥勒菩薩はシャカに、仏教を再興せよ、と命じられている。

 その、弥勒菩薩も、地から沸いてきた菩薩に仰天。

 その湧出した菩薩の中でも、とくに四人の菩薩がすごかったのだそうだ。

 弥勒菩薩はこの湧出四大菩薩を見て、自分は、シャカの子供時代からともに、生きてきたのに、この方たちをはじめて、見た。このかたたちは、いったいどこのブッダに指導されたのだろうか、と思っている。

 つまり、インドのシャカの他に、ブッダは、ほかにもいると考えていることになる。

 弥勒菩薩は、この疑問をシャカ(ブッダのうちの一人)に質問する。

 この湧出した四大菩薩は、いったいどこの国の人ですか?と。

 なんでまた、大地から湧き出て来たんですか?と。

 日蓮によると、この質問の意味を最澄は、次のような奇妙な解釈をしている。
 これは、質問ではなくて、逆説で、弥勒菩薩は、行ったことのない国の菩薩であっても、知り合い同然なのだ、と言っているのだ、と。

 日蓮の解釈も、ものすごく強引なこじつけで、シャカが偉大だから、シャカの法華経闡明のその時に、誰も見たことのないすごい四大菩薩が地から湧いて出たのだという。

 ※おそらく、ほんとうは、この部分を古代に記述した人は、スペクタクルを書きたかっただけだろう。

 弥勒が尋ねたシャカに対する答えは次のようなものだった。
 どこの国のひとで、どこの国のブッダから指導された菩薩ですか、と言うな。
 私だ、私。この私が、彼ら四大菩薩を指導したのだ、と。

 これを聞いた弥勒は、ええ?そうなの?本当かなあ?どうも、なんだか、信じられないくらいだなあ?と思う。

 これについて、日蓮は、聖徳太子を例に出す。用命天皇のお子である聖徳太子は、6歳の時、百済、高麗(たぶん高句麗の間違い)、唐から、使者が来て、会っている。

 その時、6歳の聖徳太子は、唐、百済、高麗(高句麗)の老人たちを「わが弟子」と呼んだ。これと同じだ、と言った。

 これが、事実なら、聖徳太子は子供の時、よほど傲慢だったのだろう。

 日蓮はこれを不思議なことだ、と言っている。これは、日本の皇太子が、外国の大使をあなたは、わたしの弟子だと言うようなもので、不思議な事というよりも、しつけがなっていない態度ということになる。

 ただ、日蓮はこの地涌の四人の菩薩は、ほんとうは、シャカよりも、はるかに年上のはずだ、と言っている。

 日蓮が読んだ「列仙人伝」には、三十歳くらいの女性が、百歳の仙人の頭を棒で殴りつける話があって、実は若そうに見えるその女性は、500歳で、100歳の老人は、若くみえる500歳の仙人に比べれば、未熟者で、叱られたのだという。

 シャカには、ダイバダッタというよこしまな考えの従兄弟いとこがいた。
 ダイバダッタの母は、息子にも殺されそうになったので、シャカに、「私は前世で何をしたからといって、こんなひどい息子を産んだのであらっしゃいましょうや。また、あなたが、ブッダなら、なぜ、ブッダの同時代に産まれた息子がこのように悪人なのでしょうか?」と尋ねた。

 シャカはこれには、答えられなかった。(日蓮はこれについては言いっぱなしで、たぶん、たいした話ではない、と言いたいのだろう。というのも、日蓮に言わせれば、シャカは、久遠の昔から、太陽や月でさえ教主なのだから。

 というのも、日蓮は、こう言っている。
 「娑婆の生成の初めからの存在である日天、月天、多くの星は、すべてシャカの弟子である」と。つまり、日蓮は、鎌倉時代に生まれて、仏教の教義を一気に、まるでエジプトの太陽神ほどに壮大な霊的初源神話を構想してみせたことになる。

 しかし、法華経というのは、これに対する答えも含まれる。
 すなわち、「華厳経」「阿含経」「維摩経」など「法華経」よりも前の経は、皆「菩提樹の下で悟りを開いたとしているが、ほんとうはそうではない。もっと何億年?も前の「久遠の昔」から悟りを開いたのだ、と。そして、すべてのブッダは、シャカの分身である、と。

 諸仏は、シャカと対等だ、というのではなく、諸仏はシャカの分身なのである、と。

 「般若経」「大日経」などのブッダは、シャカの分身である、と。

 つまり、法華経とは、過去にさかのぼって、すべての聖人はもともとシャカの分身だと、とんでもない言い方をしているわけであり、これは、イエスキリストの出現は、前から聖書の預言されていた、と旧約時代からの歴史をイエス以後の宗教者がすべて集約してしまう手際と同じ手法だと言える。

 地から湧いた菩薩がものすごく立派に見えるというのは、さらに古代のインド諸宗派の開祖に、シャカの弟子たちが、叶わないが、しかし、それでも、シャカはすべてを凌駕し、かつて、彼らを教え諭した過去世を持つといいくるめている。

 「華厳経」を説くブッダが絶対の悟りに達したブッダであり、「法華経」を説いた人は、この世の「人」が説いたのである、と空海は、間違えて言っておる。

 真言宗では、法華経は、無明の境地だが、「大日経」を説いたブッダは、無明を超越しているのであり、「法華経」よりも、「大日経」が重要だ、と説く。