曽野綾子のわからなさ  | 気になる映画とドラマノート

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月刊誌 「新潮45」2014年連載 曽野綾子「人間関係愚痴話」冒頭に曽野綾子は次のように書いている。

「東京オリンピックが開かれるというので、高齢者の中には、奮起して、それまではなんとしても生きていようと決意した人も結構いるという。本当は高齢者にそんなに長生きされても困るのだが。」と

 曽野綾子自身は、オリンピックがくれば、90近くになるそうである。言っている意味がどうにもわからない。

 曽野綾子は、続けてこう書いている。「(彼女自身が)90歳近い年齢になり、生きていても、オリンピックの意味さえわからなくなっている可能性がある」という。

 わたしは、なにも高齢者でなくても、「オレオレ詐欺」にお犯罪者、家庭のDV加害者、職場のパワハラ加害者などのように、若くても、傍からしてすれば、いなくなってほしい人間は、たくさんいると思う。曽野綾子の言うような、高齢者が高齢だというだけで、
「本当は高齢者にそんなに長生きされても困るのだが。」という感覚はまったくわからないし、奇妙な感覚、ばかばかしさを覚える。

 だいいち、人間、なにも認知症にならなくたって、足腰を痛めて、寝たきりになったりするし、高齢者が、オリンピックの年を迎えるまでには、交通事故に遭うかもしれないし、ガン、心臓病、脳疾患にかかって、この世にいないかもしれない。困るもへちもないではないか、それが、現実だとしても、わざわざ、どうせ、認知症になるから、生きていてもらっても、困ると言いたげな曽野綾子の言い草がわからない。
 無事、何事もなく、オリンピックを楽しむ人もいるだろうし、それでいいではないか。

 曽野綾子は、そもそも、オリンピックが嫌いだという。

 その理由がおもしろい。

 スポーツの世界で、日本一、世界一になる事自体の意味がわからない、という。
 そして、それに比べて、文学は、一番もビリもなく、「無限に多様な世界がるだけ」で、「あらゆる作品は、かならずどこかで誰かの心を動かしている」というから、呆れる。

 まず、スポーツの世界に日本一世界一が、あるのは、当然である。
 スポーツのルールには、遊び心として、勝ち負けが設定されているのであり、後は、市区町村大会、郡大会、県大会、全国大会、そして、その先には、アジア大会があり、世界大会がある。それだけのことで、勝てば、うれしく、負ければ悔しいだけのことだ。これが、曽野綾子にはわからない。

 曽野綾子は、文学についても、すごい思い違いをしている。

「あらゆる作品は、かならずどこかで誰かの心を動かしている」だから、等価で、一番もビリもない、なんてことはない。そんなのは、子供でもわから。

 古典は時代を超えて、ベストセラーは、現代人に受けたということである。かならず、どこかで誰かに受けている、なんてことを否定するのは「無いものを証明」するようなもので、しかし、たいていのは人は、たぶん、これは、むちゃくちゃだな、たぶん誰にとっても、読むに耐えないはず、という小説、歌、歌唱があることは、想像できるはずだ。中学生(そのまたマヌケな部類)が小説を書きました、と言って、主張しても、たしかに小説は小説なのである。曽野綾子は、誰かしらは、感動するはず、と強弁する。

 曽野綾子は、さらにオリンピックが嫌いな理由を述べて、こういう。
 「やはり出るからには、金メダルを取らねば」と、周りが、本人が言うのが、気に入らない・・・と。

 曽野綾子は事実誤認をして、無理にオリンピックに論難を加える。現実には、「金メダルをとれそうな位置にいる選手の場合」にのみ、こういう言い方をさあれるので、むしろ、きわめて例外だ。

 メダルそのものでも、「メダルの取れそうな場合」であって、選手も、世間も、さほど、メダル至上主義ではないのが、現実だ。

 曽野綾子は、実に珍妙とも思える考えを展開し始める。 陸上競技のマラソン、短距離走、スキーのジャヤンプ、重量挙げ、これらが、存在すること自体が不愉快なのだという。

 その理由がじつにおもしろく、呆れる。
 「人間は、オートバイとか、スケートを発明して、早く走れるようになった」
 (なんで、早く走れる必要があるのか、というのだ。)
 と本気で書いている。

 こんなことを言い出したら、バスケット、サッカーは「まりいれ」「まりけり」であり、子供の遊びをおとながおおまじめにやっていると言っていい。事実そうだが、それをこう否定してどうなる。

 曽野綾子は、昭和初期の土木作業がどんなにつらい力仕事だったか、と例をひいて、重量挙げを否定する。意味がわからない。

 そして、マラソンについては、「不当に長い距離を走ることは、(健康に悪い)健康にいいとは、誰も言わない」と皮肉を言う。

 しかし、わたしは、あらゆるスポーツにいちいち、健康にいいと言い立てるのを、現実に聞いたことはない。マラソンではなくても。

 すると、曽野綾子は、今度は相撲も否定する。その理由は、「残酷なスポーツ」だから。「あんなに、体重のある体を作って、健康にいいことはない」という。

 そして、曽野綾子は、モンゴルに行ってみて、モンゴル勢が強い理由がわかった、と言う。(大自然の中で、暮らして力仕事をしているが、日本人が弱いのは、生活のなかで、力仕事をしないからだ、と)

 どうも、曽野綾子は、オリンピックという一流の域のスポーツを否定したいのか、現代日本人の不健康な生活を批判したいのか、さっぱりわからないのだが、読み進めてみるとだんだん、結局なにがいいたいのかわかってくる。論旨はかなりおかしいのは、たしかなのだが・・・・。

 曽野綾子は言う。「現代人は健康診断を受けていれば、がんも早く見つかって、長生きできると思っている。」と。

 まず、これが、事実誤認である。

健康診断を受けていれば、がんも早く見つかって、長生きできると思っている。などと言う人は、ほとんどいないし、いても少ない。実際には、コレステロール、血圧などでわかる、心疾患、脳疾患の予防が健康診断を受けている理由である。

 そして、長生きしたいということは、人類にとって、実は、「子の立場からすれば、親を悲しませたくない。親の立場からすれば、子のために今死んでいられない。あるいは恋人」という切実さを随伴しているものであり、曽野綾子のイメージでは、人間は、ただ、自分一個が、死にたくないという思いをもつだけの存在だと考えているらしい。

 そして、文章の末段になると、オリンピックは、ソファーに寝そべって、ポテトチップを食べながら、健康によくない、と言う。

 だが、わたしに言わせれば、野球、サッカー、アメフト、あらゆるスポーツは、観客は、じっと座って、ジャンクフードを食べているのである。それでも、曽野綾子の言うような心配はいらない。たいていは、年中、観戦しているのではなく、それぞれ、忙しく働いているのであって、もし、その人が成人病になっても、スポーツ観戦をしたからということは、まず、ありえない。

 最後に曽野綾子が書いていることを読んで、私は心底呆れた。

 結局のところ、オリンピックも、相撲も、「見る事」だから「価値」がない。町んpへたくそなスポーツは、いい。健康にもいい。

 そして、・・・ここが、曽野綾子が言いたいことらしい。

 自分は、執筆活動をするが、これは、一種の肉体労働で、「する事」である点で、町のへたくそなスポーツの「する事」と同じだ。

 わたしは、かつて、知人が「高校野球なんて、なにがいいのか。技術、の劣るスポーツを見て、なにになる。見るなら、プロ野球だろう。」といい、さらに続けて、本を読むだけの人は理解できない。音楽を聴くだけの人もよくない。

 「詩を書いたり、短歌、俳句を書いたり、自分で草野球をしたり、楽器を演奏したり・・・そういうのは、共感する」と。

 聞いて、わたしは、呆れた。なんと、ナルシストなのだろう、と。(彼はチェロのアマチュア演奏家である。)

 しかし、主婦が読むだけ、スポーツを見るだけでなにがわるかろう。ビジネスマンが、読書するだけで、俳句、短歌、などを自分では書かなくて、なにが悪かろう。

 曽野綾子もこの
類の発想で、読者、日本人に「観るだけ」はやめて、自分でなにかをしなさい、と言っている。