イ・ジュンギ、シン・ミナのアラン使道伝 | 気になる映画とドラマノート

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  わたしたちが(なぜ「わたしたちが」というかというと、日本には非常に多くの韓国に関する言説が存在するから)韓国について言及する時、韓国、朝鮮の習俗の独自性を指摘しているつもりで、実は中国由来の儒教文化のことを言っている場合も、かなりあるのだと思う。

このアラン使道伝を見ると、韓国にまだキリスト教が普及していなかった頃の朝鮮の宗教習俗のエトスの一端がわかる。

それは、日本人とは違っていて、中国朝鮮がほぼ一体のエトスになっている側面が伺われる。

たとえば、日本人は、「天帝」という概念がない。

孫悟空・・・西遊記をモチーフにしたドラマや映画は、日本にも数多くあるが、「天帝」はほとんど描かれない。

原作(日本訳)には天帝が出て来る。

アジア世界の「皇帝」は、天帝の承認によって権威づけられていて、その「皇帝」から冊封を受けているからこそ、朝鮮王は王としてのプレスティジが保証されているという習俗になっていたようだ。

日本の場合は「天孫降臨」であるから、中国、朝鮮の場合、皇帝と天帝が独立しているという意味で異なる。日本の場合、先祖が神であるのに比べて、中国、朝鮮の場合、天帝や閻魔大王は、人間の先祖ではなく、異界の住神たちだ。これはギリシア神話のゼウスに近いのかもしれない。

中国でも、朝鮮には、政敵、謀反人は「九族皆殺し」にすべきという習俗がある。これは、「残酷だとか執念深い」ということとはまったく関係ない。

中国、朝鮮の古俗では、子孫が祭ると、死者の霊がその時だけ復活し、祀る子孫がいなければ、当然死者は復活しないと考えられているからだ。

韓国でいまでも、過去の反政府運動の闘士を族譜に書きたがらないのは、祖先と子孫の祀る、祀られる
関係の重要性と王権の子孫にまで向ける敵視の宗教的根拠からも、忌避さているのだと思われる。

農民一揆の首謀者として政府に捕縛された先祖は、韓国では多くの場合、族譜に書かれない。

日本の仏教では、南無阿弥陀仏、または南無妙法蓮華経と一心に唱えれば、その個人が浄土にいける。親は親、子は子なのだ。ところが、儒教では、死後の自分の安心を保証するのは、子孫の祭礼行為だということになる。

興味深いのは、日本のお盆が中国の習俗とだぶっていることだ。日蓮宗や浄土真宗の信徒が、お盆をするのか。「木片を火で焚いたり」と言ったような事をするのか、その辺がわたしにはよくわからない。

天帝と閻魔大王

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