中殿の兄ウォンヒョンはキョンビンを守ろうと構えている殿下に、「いったん側室や大妃、朝廷がキョンビンを告発した以上、もし、キョンビンを生かせば、キョンビンは側室や大妃、朝廷をほうっては置かないでしょう。だから、泣いて馬しょくを切るつもりでキョンビンを切るしかないのです」と。
これでキョンビン、福城君ポクソンクンは一気に破滅するのかと思ったら、まだ一波乱ありそうで、チャン大人が朝廷のワイロの帳簿を持っていて、その帳簿を使って、(キョンビンを告発する朝廷を失脚するか脅すかして)告発を取り下げようという動きが出てきた。
ところで作者は、イム・ベクリョンについてさりげなく、意外に重要な場面を描いている。
イムベクリョンは勉強に専念するために人里離れた場所に隠棲して勉強に打ち込むのだが、そこを通りかかった僧侶が「勉強に専念するためと称して隠棲する、なんと愚かなことか、志が強ければ都会の巷に住んでどんなに誘惑があっても、ものともせぬはずではないか?」と怒鳴る。これはキリスト教の新約聖書で、イエスが、「いかにもわたしは悲しいといいいたげな顔で祈るな」と言ったことに通じる、
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ベクリョンの偽善性、にせもの性(少なくとも今は)をいったのだろう。
この「女人天下」を文定王后の歴史的事実をもって、見たがらないという意見を読んだことがある。しかし、要は、この作品では、作者が文定とキョンビンをどう描いたか次第なので、明らかにキョンビンと福城君をこ面憎く描いているからこそ、この作品は一貫して文定王后に同情とリスペクトの念を起こすように感受される仕組みになっている。
たとえばチャン・ヒビンなら、中殿は明らかに好人物だからこそ、ヒビンの意地悪さが際立つ。だからチャンヒビンは意地悪女の物語だといえるが、この女人天下の場合史上の「悪女」はナンジョンといわれながらも、嫌なキャラはその当の悪女ではなく、キョンビンのほうだから、話が別になってくる。
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