第百十七話「罪に濡れるふたり(その26)」




叫び声をあげようとした私の唇は、健吾の手のひらにすっぽりと覆われた。

力ずくで鼻まで押し当てられ、私は息をすることも出来なかった。

一瞬のことで、口を塞がれる前に息を吸い込んでいなかったせいか、息の出来ない私の胸は苦しくて仕方なかった。

あまりの苦しさに、我を忘れた私は、残された力を振り絞って、床に倒された身体をばたつかせる。

脳に酸素が回らなくなってきたのか、だんだんと私の頭の中がぼんやりとしてきた。

ばたつかせている手や足も、思うように動かなくなっていくのが自分でも分かった。


「…正臣」


私は塞がれてしまった唇で、その名前を象(かたど)ろうとしたが、やっぱり唇はピクリとも動かなかった。

私の意識が遠くなった時、私の身体は難なく健吾に組み伏された。

ようやく暗闇に目が慣れてきた頃だったが、もう既に健吾の顔は私の視界にぼんやりとしか映っていなかった。

感覚が薄れていく…

もう、ダメだ…そう思った瞬間、押さえつけていた健吾の手のひらが、不意に離れていった。

それと同時に、私の唇から大量の空気が流れ込んで、眠りかけた身体が大きく反応した。


「菜々子…いったい、何を探しに来たんだよ」


不意に止められた酸素をあらゆる器官が欲しがり、その量の配分をコントロール出来ない私は、全身が揺れるほど激しいむせ込みに襲われた。

毛穴から汗が滲み、目からは涙が溢れて来る…

そんな私の様子などお構いなしに、健吾は私を責めるような口調で問い詰めてきた。


「…健吾さんが…処分する…なんて…言うから…私が正臣にあげた…大切な…もの、取り返しに…来たの」


私は肩で息をしながら、日記のことを悟られないように、思いつくままの嘘を並べ立てた。

私を組み伏して見下ろしている健吾の表情は見えなかったが、私の嘘にそう簡単に納得していないことは、空気で伝わってきた。


「菜々子…俺と兄妹になって、ホッとしてるんだろう?」


「…え?」


「結婚が取りやめになって…俺から逃れられて…ホッとしてるんだろう?」


「…そんなこと…」


暗闇で健吾の表情がハッキリと見えないとは言え、物凄い形相で睨まれていることは確かで…私は健吾の視線を逸らすように顔を横に向ける。

ちょうど私の目線のほんの先に、暗闇の中では見えなかった健吾の手にしていたものが、私の目に映し出された。


「…これ…って…」


私の呟きが健吾の耳に届いて、自分の手から離れてしまった黒いものを再びその手で拾いあげた。


「あぁ…これ、正種伯父さんがいつも持ち歩いてた手帳だろ。…これか?お前が探してたものって…」


健吾の言葉に私の胸がドクンと大きな音をたてた…

健吾が手にした私の目の前にあるのは、私が探していた父の日記帳だった。

私がどうしても守りたいと思っていた、正臣の大切にしていたものだったのだ。

自分の手よりも先に、健吾の手に渡ってしまったことに、私は落胆した。

強ばっていた私の全身の力が抜け落ち、落胆のあまり私は無防備になり過ぎた…


「返してやるよ…その代わり…」


真っ白になった私の頭の中に、健吾の声が響いて通り過ぎていく…

抜け殻のようになった私の身体に、いつの間にか健吾の身体が覆い被さっていた――





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第百十六話 「罪に濡れるふたり(その25)」







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