陽の地、陰の地、すべての地 | 鸞鳳の道標

鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。

 日本の中国地方は、山陽地方と山陰地方に分かれています。
 昨今、山陰地方の「陰」という文字が暗い印象を抱かせるということで、一部では改称を要請する運動も起きているようです。
 瀬戸内海側を山陽と呼び、日本海側を山陰と呼ぶ理由は中国での呼び方に由来しています。

 たとえば、中国の王朝でも多く首都となった「洛陽」は、洛水という川の北に位置します。
 前漢を起こしたのは劉邦ですが、それを軍事面で支えた韓信(かん・しん)の出身地は「淮陰」といい、これは淮水という川の南に位置します。
 川の北に位置する地域が「陽」で、南に位置する地域に「陰」という文字が割り当てられているのです。
 これにはもうひとつ法則があって、山の南に位置する地域に「陰」が、北に位置する地域に「陽」の文字が当てられます。
 なぜこうなるかは、太陽が南天に上るからと考えましょう。
 北を上とした地図で見た場合、南から太陽の光が来ます。
 川の水面で太陽光は反射します。反射することで明るくなると感じるのは北側です。太陽を背にする南側に立っていては、水面に影を落としてしまいます。
 山の場合で考えた方がより理解しやすいかも知れません。聳え立つ山に南から太陽光が当たると、南側は明るくなります。北側には太陽光が届かないので暗いままです。

 「陽」は、川の北側、山の南側。
 「陰」は、川の南側、山の北側。

 中国地方の中国山地を境として、その南側は太陽光で明るくなので「山陽」。北側は暗いままなので「山陰」というわけです。暗いままというのは印象がよろしくなく、改称したくなる気持ちは分からないでもない。
 元々の中国でいえば、「濮陽」は濮水の北、「歷陽」は歷水の北、「済陰」は済水の南、「汾陰」は汾水の南と、この法則によって名付けられています。
 余談ですが、かつての中国では川の名前には「水」が用いられています。いまでは、穎水が穎河、汾水が汾河と改められたようにこの法則は通用しませんが、かつて「河」といえば「河水」のことでした。これだけではどこのことか分からないと思われるかも知れませんが、これは現在の黄河のことです。『春秋』などの古典ではこの表記となっています。
 余談のついでに、「川」というのは中国語では、日本と同じく水の流れる「川」という意味の他に、「平地」という意味もあります。中国語で「平川」と書かれていれば、それは平地のことです。また、現在ではたんに「川」とあれば四川省のことです。「川椒」といえば四川省で採れる胡椒のことで、「川馬」といえば四川省で産まれたの馬のことです。日本と同じ文字でも、意味も用途もまるで異なるので要注意です。

 さて、この陰陽の地名の法則はすべてに当てはまるとは言いきれません。中には、その名を冠した山も川も付近に見当たらない場合があります、改名されたために現在では分からなくなってしまったのか、あるいは別の理由があるのか、不明な場合もあります。
 その中でも秀逸なのが一例。
 戦国・秦の首都は咸陽ですが、咸の名を冠した山や川があるためではありません。
 咸陽の南には渭水が流れていたので、これに基づいて命名するなら「渭陽」となるはずです。
 しかし、北に九嵕(きゅうそう)山が聳えているので、これに基づくならば「九嵕陽」あるいは「嵕陽」という名前にも成り得たのです。
 実はこのように、山と川という条件が揃っているのは珍しいこと。
 そのため、「みな」や「ことごとく」を意味する「咸」の字を用い、『咸陽』となったというわけ。
 ひとつだけ自己の想像を入れるなら、「みな」を意味するなら「全」や「都」でもいいはず。 「咸」という文字は、甲骨文では、神への祈りを捧げる祝詞を入れた箱を鉞で守る形であり、鉞で箱の周りを「すべて」守ることから、転じて「すべて」の意味となったのです。秦は平地の多い東方の他国とは異なり、山で周りを囲まれた地であることも含め、「囲まれる」意味と「守る」も込められた「咸」の文字を用いたのだと思われます。
 意味のある地名は、推察するのも楽しい。