風の伝えるままに

読んだ本、見たニュースなどを、いろんなものにたとえながら。あるいは雑学ネタなど想うがままに。


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 『史記』の読み方は人それぞれです。世に出てから二千年以上もの年月が経ち、人それぞれに解釈されていきました。
 歴史書として不十分であるという意見もあれば、歴史の始点から描き始めた初の歴史書であるという快挙を称える声もあり、小説のような脚色があるという批判もあれば、信憑性の不確かな情報が多いという批難もあります。司馬遷の選り好みもあり、丁寧に美しく書かれた巻もあれば、情報に乏しく読み応えの感じられない巻もあります。
 学者であれば、最初の「五帝本紀」から「殷本紀」、「周本紀」と徐々に解釈を進めていくのが正しい在り方でしょう。
 しかし、趣味の一環として、あるいは歴史を参考としたい読み物として扱うのなら、必ずしも一から順番に始める必要はなかろうと思います。
 特に人物伝を読みたい、あるいはそれだけで十分だという人には「書」は勧められません。礼楽や天文など、内容が専門的だからです。もちろん、不要というわけではありません。太白とは何か、辰星とは何か、知らなくても読み進めることは出来ますが、知っていればそれを言葉にした人物の意図をより深く知ることが出来ます。前提として天文の知識が無いと内容の用語も複雑で理解が困難になるため、それらの用語の知識を積む機会の薄い現代人には難関であり、最初に触れるのは避けた方が賢明です。
 人物伝にも良し悪しがあります。また人によって、好みも異なります。
 無謀な挑戦にも怯まないような人物を好む人もいれば、常に慎重に事を進める人物を好む人もいます。周囲への気遣いよりも自分の才能を信じる人物を好む人もいれば、結果よりも周囲への気遣いを大事にする人物を好む人もいます。
 前振りはこの程度にしておいて、古来から人気のある巻や、個人的な独断と偏見でお勧めしたい巻を少々、紹介します。まだ『史記』を読んだことのない人。あるいは『史記』でもごく一部しか知らなくて、次はどこを読もうか考えている人。あるいは邦訳でしか知らないけど、原文で触れてみたいと思うような人たちの、手助けになれば幸いです。
 
 具体的な調査をしたわけではありませんが、確実に五指に入るであろう人気の巻として、「項羽本紀」があります。
 日本で中国古典といえば『三国志』(演義)が第一でしょうが、その次といえばこの辺りでしょうか。時期としては、秦の始皇帝が六国を滅ぼし、天下を統一したところからです。しかし、秦帝国は厳罰主義の法治国家ゆえに人心が懐かず、二世皇帝と側近の宦官が暗愚であるため、ますます人心が乖離し、ついに各地で反乱が頻発することになります。
 項羽は名は籍で、羽はあざなです。しかし古来からあざなの「項羽」で呼ばれることのほうが多いです。
 日本でも『項羽と劉邦』、あるいはそれに近い題で数々の小説や漫画が出ています。また、史記や中国史について語るエッセイや随筆などでも多く取り上げられています。
 この時代の、何より分かりやすいのが、秦が悪の帝国で、民衆はそれに怒っているということです。実際、反乱はいずれも民衆の支持を得て巨大化し、群雄割拠の様相を呈していきます。そして、項羽が天下の第一人者となると、打って変わって彼が敵役となることです。
 詳しくはその内容、及び邦訳・創作された小説や漫画などにゆだねますが、なによりこの巻は美文であるという評価があります。
 文章が流麗で読みやすく、彼を取り巻く状況がとても把握しやすいのです。特に「鴻門の会」はまさしく一大小説でも読んでいるかのような臨場感に溢れています。
 この「項羽本紀」と、漢を創建する劉邦の「高祖本紀」とを合わせれば、秦の滅亡から漢の建国までの時期に何が起きたのか、大まかにつかめます。
 
 「晋世紀」で登場する晋の文公こと重耳は、貴種流離譚のひとつとして語られます。
 父親が若い女性を寵愛し、彼女が産んだ子を跡継ぎにしたくて、太子を廃そうとします。重耳は次男ですがこの余波を受け、身の安全を図って国外へ逃亡し、十九年もの漂泊を余儀なくされてしまうのです。
 重耳について書かれた話は、漫画なら横山光輝『史記』で十分ですが、小説として読みたいなら宮城谷昌光『重耳』をお勧めします。話の流れが分かりやすく、小説ゆえの創作部分は多分にありますが、重耳の置かれる状況や心境がとてもよく分かります。
 
 物語的要素が豊富であるという点では「伍子胥(ご・ししょ)列伝」もとても人気があります。現代中国でも伍子胥は人気が高く、2005年の香港の電視劇『争覇』(中国本土での題名は『争覇傳奇』)では樊志起が伍子胥役を演じています。
 伍子胥の名は員で、子胥はあざなです。しかし古来からあざなの「伍子胥」で呼ばれることのほうが多いです。
 春秋末期の楚の人で、父と兄が無実の罪の陥れられ、国外へ逃亡。新興国の呉へ身を寄せ、新たに立った王の元で辣腕を振るい、ついに強大国である母国の楚を攻めて、すでに亡くなっていた王の墓を暴いてその死骸に鞭を打って復讐を成し遂げます(「死者に鞭打つ」の語源)。復讐劇であり、そこへ至る過程にも様々な困難があり、それを乗り越えていく様はまさに英雄(ヒーロー)です。ちなみに同じく呉で、主に戦術指南をしたのが孫子こと孫武です。
 しかし前半期までの苦難とは裏腹に、次に立った王は暗愚というほどでもないのですが視野が狭く、自尊心が過剰な人物で、疎まれることになります。判官贔屓という言葉は、源判官義経に由来する言葉ですが、伍子胥の場合もそれに当たり、前半期の活躍とは裏腹に冷遇されて悲惨な最期を迎える様に哀れみを誘われずにはいられないという読者もとても多いのです。
 
 美文で分かりやすく、臨場感に溢れる展開で書かれているといえば、「魏公子列伝」を挙げることも出来ます。
 「戦国四君」の一人に挙げられる信陵君こと魏無忌(ぎ・むき)の一代記で、兄である安釐王から疎まれながらも、三千人もの食客を抱える人望の高さと、大国となっていた秦から畏れられ、その大軍を跳ね除けるほどの軍事の才能を見せつけた人物です。彼が王から尊重され、高い地位にあれば、魏はさらに存続しただろうと言う人もいます。魏が滅ぶのは次々代の魏王假の時で、信陵君が没してからわずか19年後のことです。
 信陵君は相手が優れた人物であると分かれば、門番だろうが博徒だろうがまるでお構いなしで、自らの足で彼らを訪れては常に敬意を示し、それゆえに彼らは信陵君を身を挺して助けることになります。多くの危機にあってもうまく対処できるのは、彼自身の能力の高さだけではなく、謙虚な態度があってこそで、若いころの劉邦は彼に憧れ、皇帝になってからは祀りを絶やさないようにしたほどです。
 他の四君のうち、孟嘗君は評価が一流と三流とで真っ二つに分かれる人物で、春申君は前半期が好評なのに最期が悪かった人物。平原君は最も評価が低く、評価すらしたくないという人もいるほどなのですが、彼らについては後に扱うことにします。
 
 「留侯世家」は、劉邦を知略の面で援けて漢帝国の礎を築いた張良(ちょう・りょう。あざなは子房)も、また非常に人気が高く、後世まで知恵者の代表として扱われています。明を建てた朱元璋(しゅ・げんしょう)を知略面で助けた劉基(りゅう・き。あざなは伯温)もまた、張良に例えられています。
 六国のひとつ、韓で生まれ、祖父と父は宰相を務めていたという名門の出ですが、決して軟弱なお坊ちゃまではなく、むしろ行動力、判断力、決断力に富み、策を講じれば外れることはなく、義侠心にも溢れ、劉邦からの信頼も厚く、それでいて無欲で、出処進退の見事さは賞嘆ものです。
 
 他には「管鮑の交わり」で知られる管仲(かん・ちゅう)及び鮑叔(ほう・しゅく)や、「刎頸の交わり」の廉頗(れん・ぱ)と藺相如(りん・しょうじょ)などもよく題材に取り上げられます。
 殷周革命もドラマチックで、『封神演義』の舞台ともなっているのですが、実は「殷本紀」には難点があるのでお勧めは出来ません。
 
 意外な部分を挙げるとすれば、街中の任侠を扱った「遊侠列伝」、王者におどけながら忠告をする「滑稽列伝」、商人を扱った「貨殖列伝」などは、稀有のものでしょう。
 偉人伝といえば、政治や軍事で活躍した人、名医や名裁判官などで人々を救済した人、地位はなくとも素晴らしい思想で善人を教導した人などが挙げられがちですが、上記の者たちはこれらに当てはまりません。むしろ、避けられがちとも言えるのですが、司馬遷はこれら民衆の近くにあって広範とは言えないものの社会に影響を与えた人物、大局を動かしたとは言い難い人物などにも焦点を当てています。高位高官や善人だけが社会を動かしたわけではないという、考えてみれば当たり前のことに着目させ、民衆やその生活のことなどを広く、深く見るべきだと示唆したのでしょうか。
 
 次回から、時に細かく、時に大雑把に、『史記』の様々な面を採り上げていきます。
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 『史記』「斉太公世家」では、太公望とその後継者たちを紹介した後、「泰山から瑯邪へ行った」とし「民衆は闊達で、知恵を多いに秘めている。これは天性であろう」と。そして、「洋々として、大国の気風がある」などと述べています。
 また、張良について書かれた「留侯世家」において、「私はその人はきっといかつい大男であろうと思っていたのだが、人物画を見たところ、まるで婦女のような容貌であった」と述べています。あるいは、「孟嘗君列伝」では「私はかつて薛を通り過ぎたが、俗として荒々しい若者が多かった。鄒や魯においてはなおさらであった。なぜかと聞いてみたところ、『孟嘗君が天下の任俠を招致し、姦しい者たちを六万余件も薛に入れたからだ』という。孟嘗君が客人を喜んで受け入れたという伝承は、嘘ではなかった」としています。
 これらは本来、史書として含むべき内容でしょうか。
 これは『史記』の特徴のひとつです。
 司馬遷は二十代前半(もしくは十代後半)と思われることに大々的な旅行に出て、そこで様々な伝承を拾い出し、それを『史記』に反映させています。その情報には文献にもあるような、ある程度は信憑性が高いと思われるものもある一方で、民間の長老が口伝で伝えただけのようなものもあったでしょう。
 特に後者の、自分で見聞きしてきた感想が、各伝の最後に「太史公曰」として評論として述べられていたり、「太史公自序」において自分の生涯について、そして『史記』の制作過程について、そして全百三十巻について改めて評価を述べていくなかでも、紹介されています。
 歴史書でありながら、実は旅行記と見聞録の要素も含まれているのです。
 そして、八巻の「書」が含まれていることも見落としてはなりません。これらは天文や経済、生活などに関わる専門書です。『史記』では、本紀・世家・列伝などの人物伝が主であるために視界から外れてしまいがちですが、それだけではなく、生活環境を取り巻く情報も含めた百科事典とみなすべきです。
 実際、この書物の本来の名称は『太史公書』です。太史公である司馬遷が書いたものという意味でしかありません。「史記」というのは本来、歴史記述書という意味の普通名詞です。この『太史公書』が『史記』と呼ばれるようになった時期は不明ですが、「史記」と題する書物は本来、無数に存在するのです。しかし後世、司馬遷に敬意を表し、単に「史記」といえば司馬遷の『史記』を指すようになったのです。
 
 司馬遷の持つ独特の視線は、人物評価の中にも現れます。
 「宋襄の仁」という言葉があります。簡単に述べると、楚の成王が軍勢を率いて宋に攻め込んで来たとき、泓水(おうすい)を渡っている途中の楚の軍勢を襲うべきだと進言した宋の重臣に対し、宋の襄公は「敵の不利につけこんではいけない。敵の軍勢が準備を整えるまで待とう」と退け、結局、陣形を整えた楚の軍勢に宋は破れ、襄公自身も傷を負うことになります。
 このことから、無用の情けをかけることを「宋襄の仁」と呼ぶようになり、宋の襄公といえば理想主義で現実を弁えない人のように伝えられるようになります。
 しかし、このことを記載した「宋微子世家」の最後に「太史公曰く」として、
 「襄公は泓水で敗れた。しかし、君子と呼ばれる人たちは、これを素晴らしいと言った。中国の礼儀が欠けていくのを悼んで、その態度を褒めているのである。宋襄の礼譲ここに有り」
 と、むしろ絶賛しています。
 他にも時折、司馬遷は彼なりの意見を提示しています。司馬遷は『史記』の執筆において、『尚書』(書経)、『春秋左氏伝』、『戦国策』などを参照したというのが定説です。たしかに、それらの書物から引用されたと思われる情報がそのまま載っていることもあります。
 その一方で、それらにはない情報も扱っています。具体的な感想がない場合でも、それを取り入れた思想は見え隠れしており、決して機械的に情報を載せていったわけではないことが伺いしれます。
 
 『史記』の内容に信憑性を疑う人たちがいます。
 先ほど述べたように、『史記』では過去の書物に載せられた情報がそのまま載っていることもあれば、どの資料に基づいたか分からないような情報もあります。
 たとえば、秦の始皇帝こと、秦王・嬴政(えい・せい)について、「実は呂不韋(りょ・ふい)の子である」という話を読んだことはありませんか。これは『史記』「呂不韋列伝」に基づくもので、彼の父である子楚(後の荘襄王)が趙に人質として滞留していた頃、商人であった呂不韋の尽力で秦王の後継者に内定するのですが、子楚は呂不韋の舞姫を所望し、これを娶っています。しかしこの舞姫は実は呂不韋の愛人であり、すでに呂不韋の子を身籠っていたのを隠していたというものです。班固の『漢書』はこれを踏襲してか、同じことを書いています。
 しかし、『戦国策』にはこの記述はありません。また郭沫若(かく・まつじゃく)も、「呂不韋列伝」には矛盾した記述が多くて信頼に足りないとし、これを真っ向から否定しています。そもそも、「秦始皇本紀」にはきちんと「始皇帝は荘襄王の子である」と明記されているのです。同じ『史記』の中ですら、矛盾が起こっているのです。まして、根拠不明の内容となると、どこまで信用してよいか、分からなくなります。
 『史記』の内容のうち、『春秋』や『戦国策』など出典が明らかなもの以外は悉く、司馬遷による創作であると決めつけるような極端な懐疑派も現れました。
 これは『史記』の、特に戦記に関する記述が非常に劇的に、すなわちドラマチックに描かれ過ぎていて、歴史書を読んでいるというよりは小説を読んでいるかのような錯覚すら覚えるほどであったことも一因でしょう。司馬遷は過剰表現を好むとか、逸話や予言などをすぐに取り込むとし、真偽の不確かなものも素直に(悪くいえば短絡的に)信じる軽率な人物であったかのような批判もあります。
 たとえば、晋の文公といえば、後継者争いのせいで国外逃亡を余儀なくされ、十九年もの流浪生活という辛酸を嘗めてようやく帰国できた苦難の人です。でもそこに登場する、たとえば文公は帰国すればきっと成功するだろうと小国の大臣が予言するような逸話などは懐疑派に言わせれば、文公を称えるために後の世代が創作した(悪くいえばでっち上げた)話であると言い切るほどです。そしてそんな偽りの話をろくに精査せず平然と書く司馬遷の正気を疑っているほどです。
 ところが、一八九九年、歴史的大発見によってこれらが覆ることになるのです。これについては「本紀」の話で紹介します。
 今では、司馬遷の正気を疑うような懐疑派は鳴りを潜めました。そもそも、奇跡や偶然を真っ向から否定し、歴史に緻密な理論や完全な判断、絶対の理性や予定調和を求めるほうが間違いなのです。
 すべてを信じるのも愚かしいことですが、すべてを疑ってかかるのも、つまらない話です。
 今では、出典が明らかではない話は、きっと何か参考とした文献や口伝などがあり、しかしそれらは散逸して現在では残されていないのであろうという考えの方が主流となっています。
 『史記』の中ですら矛盾した話が起こるのも、参考とした情報が多すぎて精査しきれなかったのであろうと思われます。尤も、明らかに一方的な記述でそのまま信じるのは危険だという情報もあります。
 司馬遷には好き嫌いの感情があり、それが記述にも反映されていることは否定できません。好む人物について表現が豊かになるのは懐疑派が揶揄したくなる気持ちも認めざるを得ないことで、「項羽本紀」や「魏公子列伝」などは実に流麗とした美文で綴られ、名作を読んだかのような満足感に包まれることは、多くの人が実感しています。その一方で、なぜこの人の話がそこへ分類されているのか分からないものもあります。なぜこの人が取り上げられていないのかと思われるものもあります。
 ともあれ、年号や用語の暗記を強制されたり、成功を約束された偉人を称えることに特化したような日本の歴史教育の感性は、持ち込まないほうがいいでしょう。登場する人物の中には、もちろん成功者もいますが、苦難の一生を経ながら世の中から認められなかった人や、一時的に成功しながら悲劇的な最期を迎えたような人物も出てきます。
 そして、必ずしもすべてを読み尽くす必要もありません。興味が沸かない話があれば、その時は読み飛ばしても構いません。
 専門に研究している学者ならともかく、百三十篇、五十二万六千五百文字のすべてを網羅するというのは大変な作業です。『論語』が一万千七百五文字、『孟子』が三万四千六百八十五文字。『春秋左氏伝』でも十九万六千八百四十五文字。思想書に比べて歴史書の方が分量が多くなるのは致し方ないとしても、春秋時代しか扱っていない『春秋左氏伝』に比べて『史記』が歴史の黎明期から漢代まで扱っているとはいえ、膨大な量であることは疑いようがありません。実際、『史記』を愛読しているという作家は多く見受けられますが、「表」と「書」は一度も見ていないとか、項羽と劉邦の場面だけは何度も読んでいるが他の箇所には興味がないというのも珍しくありません。まして、一般的な読者であれば、すべてを読み解く時間などないでしょう。
 「五帝本紀」が最初に出てきますが、おそらく一般的な現代日本人には難しい人名が多く、そこに描かれている理想についても理解が及ばないかも知れません。黄帝は春秋時代や戦国時代までに培われた思想から、その理想像たる人物として語られている面も否めないからです。尭や舜はかつては学校教育で教えられており、逸話も多いのですが、今ではそれを教える人も少なく、一般常識の範疇から外されてしまっています。
 現代日本で古代中国史といえば、項羽と劉邦、三国志が題材としては多く、春秋時代や戦国時代などはややマニアックな層に分類されてしまいそうです。
 『史記』のもう少し詳しい話や、各巻についての紹介以前に、人気のある巻、お勧めの巻などを次回、提示してみましょう。
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 司馬遷(しば・せん)はあざなを子長といい、左馮翊夏陽県龍門の人です。
 生年は二つの説があります。
 漢の景帝の治世、紀元前一四五年。あるいは武帝の治世、建元六(紀元前一三五)年とされています。
 十歳の時には古文を諳んじることが出来たといい、二十歳の頃には長安に移り住んでいるようです。この頃の履歴はあまりはっきりとはしておらず、自伝である『太史令自序』を元に多くの学者が詳細を模索していますが、生年の説が定まらないように、幼少期についての説はどれも定説にまで至っていないのが現状です。
 二十歳の頃、突然、各地の旅行に赴いています。長江、淮水の一帯から中原を歩き回り、各地の風俗の考察や伝承の蒐集などを行っています。二十二歳の頃、郎中に就くと、武帝の巡遊に従い、奉使として巴、蜀、略邛、莋、昆明などの地へ赴いています。また、軍隊を監督する、日本でいう「戦目付」である監軍のような仕事も行っていたようです。

 元封元(紀元前一一〇)年、父・司馬談(しば・だん)が亡くなります。
 司馬談は太史令でした。これは三公九卿のひとつである太常の属官で、国の歴史を著述する記録官です。禄は六百石。しかし、彼にとって屈辱的な出来事がありました。それは封禅の儀において、呼ばれなかったということです。太史令であれば当然、儀式の手順について下問を受けたときに答える役目があり、またこの功績を後世に伝えるために儀式の様子を記録する必要があるため、随行するのが当然であるはずなのに、何故か司馬談は呼ばれなかったのです。
 これは太史令の地位が下がっていたことも一因でした。本来、歴史を記述するためには、故事を学び、天文を計り、暦を作るなど様々な仕事があったのですが、この頃にはただ暦を作ることだけで手一杯で、過去から現在の歴史を綴ったり、数多くの儀式・典礼について調査して諮問に応えられるように学識を積むことを怠っていたのです。封禅の儀に呼ばれなかったのもおそらく、現在の太史令に諮問したところでどうせ答えられないだろうと思われたからでしょう。
 司馬談は死に際して、司馬遷に訴えかけています。周代からの太史令でありながら、時代とともに廃れ、自分は封禅に呼ばれなかったとし、
「私は死ぬが、お前は必ず太史になる。論述・著作を忘れてはならないぞ」
 と、そして、
「孔子は『詩』や『書』を論じ、『春秋』を作った。今の学者はみな、これに則っている。獲麟(『春秋』での最後の記述)から四百年余りが経っているが、諸侯が相争い、歴史記述は放置されている。今、漢が興り、海内は統一された。明主や賢君、忠臣、義のために死んだ士など、太史として論述すべき内容は山ほどある。天下にこれらが伝わらないことを、私はとても恐れている。お前はこのことを忘れるな」
 元封三(紀元前一〇七)年、父の遺言通り、司馬遷は太史令の位を継ぎます。三年も間が空いているのは、服喪期間だからです。儒学の教えでは、親を亡くしたときは三年(実際には「三年目に入るまで」で、二年と一か月)服喪し、その間は外出もせず、当然ながら職務からも離れるからです。
 そしてこの時から、歴史書である『史記』の編纂に執りかかります。

 太初元(紀元前一〇四)年、司馬遷は壺遂(こ・すい)、唐都(とう・と)、 落下閎(らくか・こう。あざなは長公)らとともに、太初暦を作ります。それまでは秦が作った顓頊暦に従い、十月を年の初めとしていたのを、夏王朝が使っていたという夏暦に従って立春正月を初めとしています。また一年と一か月の長さを計算し直し、太陽年の長さを三百六十五日と四分の一という単純なものから、もっと細かく算出された八十一分法という方法が用いられています。
 こうして着々と、後世に残る事業を進めていた司馬遷の、すべてを台無しにするような出来事が起こります。
 天漢二(紀元前九九)年。匈奴攻めの別動隊を率いていた李陵が匈奴の本隊と遭遇し、奮戦虚しく降伏した事件です。
 これに怒った武帝に対し、群臣が残らず武帝の意見に賛同するなか、李陵を弁護した司馬遷が死刑を言い渡されます。宮刑を受けることで、死刑を免れます。これについては、司馬遷は父の遺言を遂行して『史記』を完成させることが第一と考え、一時の恥辱を偲んだためであると解釈されています。
 司馬遷が釈放されたのは、太始元(紀元前九六)年のことです。実に四年間も獄に繋がれていたことになります。
 そして中書令に任じられます。
 これは内廷、すなわち後宮など皇帝の身辺に仕えて取り次ぎを行う役目で、皇帝の私生活の面でも側近として仕えるという重要な役割ですが、それだけに任されていたのは宦官のみでした。国政に参加するようになるのは隋・唐朝以降で、その頃になると宰相格ともいえる重大な地位となるのですが、この頃はまだそれほどではありません。それでも禄は一千石で太史令の六百石よりも高く、表向きは出世ですが、宦官なのでこの地位が妥当であろうと見做されたとも言えます。
 これ以降、武帝の全国巡察に付き従いながらも、『史記』を著し続けます。完成したのは征和三(紀元前九十)年頃とされています。
 これは十二本紀、十表、八書、三十世家、七十列伝からなる百三十篇、文字数は五十二万六千五百文字であると、司馬遷自身が記しています。また、名山にこれを隠し、副本を都に置いたともしています。
 これ以降の司馬遷の事績は不明です。没年も明らかにされていません。1916年に清末民初の学者である王国維(おう・こくい。あざなは静安または伯隅)は、司馬遷の生没年の考証を行ったときに、「武帝のすぐ前後の辺りであろう。それより大きく遅れることはない」としており、現在でもその辺りが妥当であろうと判断されています。

 余談となりますが、司馬遷の先祖と子孫について少しだけ。
 司馬遷の先祖は周の第十一代・宣王の頃に秦に移り住んだとされています。八世の祖は司馬錯(しば・さく)です。この人は武人として大いに活躍するのですが、それよりもある進言により、それまでは辺境の弱小国でしかなかった秦を、中原に手を伸ばせるほどの中堅国家に押し上げた功績があります。それは、南西に広がる蜀の地を手に入れろというものでした。これにより秦は南方の大国である楚を牽制することができ、また、蜀は優秀な農作地帯であるので、いわば巨大な穀物倉庫を手に入れたようなものです。
 その孫(司馬遷の六世の祖)の司馬靳(しば・きん)は、名将・白起(はく・き)の副将として、趙との「長平の戦い」に参加し、趙の降伏兵四十万が生き埋めとなっています。この両者は後に秦が統一国家となるうえで、軍事的に活躍した人物として高く評価されています。
 それ以外の先祖については、ほぼ不明です。
 司馬遷には息子がいなかったらしく(少なくとも証拠はない)、娘が一人いて、名は一説では英といいます。彼女は楊敞(よう・しょう)に嫁いでいます。楊敞は霍光(かく・こう。あざなは子孟)の信頼を受け、大司農、御史大夫、丞相などを歴任し、安平侯、死後に敬侯に封じられています。楊敞の子の長男が楊忠(よう・ちゅう)、次男が楊惲(よう・うん。あざなは子幼)。安平侯を継いだのが楊忠で、楊惲は『史記』を世に広く知らしめる功績を立てています。
 楊忠の子は楊譚(よう・たん)、楊譚の子が楊寶(よう・ほう)。そしてこの楊寶の子が「四知」の故事や「関西の孔子」の異名で知られる楊震(よう・しん。あざなは伯起)です。
 これ以降、楊秉(よう・へい。あざなは叔節)、楊賜(よう・し。あざなは伯獻)、楊彪(よう・ひょう。あざなは文先)の四代にわたって、太尉の職に就いたため(司空や司徒に就いた者もあり)、この一族が「四世太尉」と呼ばれるようになるのです。

 最後に司馬遷の一族に関する伝承を載せておきます。
 これは司馬遷が処罰されたとき、一族が後難を恐れて改姓したというものです。司に一画加えて「同」の姓としたり、馬に二画加えて「馮」の姓としたものです。実際、陕西省渭南市韓城市(渭南市が地級市、その下の行政区分として県級市の韓城市があります)にある芝川鎮西塬上徐村では、この二つの姓の人たちが多く、彼らは姓は違っていても同じ一族の末裔であるとしています。
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