風の伝えるままに

読んだ本、見たニュースなどを、いろんなものにたとえながら。あるいは雑学ネタなど想うがままに。


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 いろはにほへと ちりぬるを
 わかよたれそ つねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆめみし ゑひもせす

 色はにほへど 散りぬるを
 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず

 いろは四十七文字をすべて一度ずつ使い、重複させることなく、七五調の歌に仕上げたものです。
 四十七文字を書き、覚えるうえで役立つため、初等教育での手本としても使われています。
 成立については一切不明で、内容についても実は定説がありません。
 空海によるものとする説もありますが、まず間違いなく、空海の作ではありません。

 「ゑ」と「ゐ」はわ行の文字ですが、現在ではあ行の「い」と「え」で表記されています。この二文字は元々は意味も発音もあ行のものとは全く異なる文字なのですが、現代日本ではすでに使われなくなった発音法によって発せられていたらしく、現代人では正確には発音できないため、文科省ではあ行の文字を正式に採用しています。
 や行の「い」や、わ行の「う」に該当する文字も存在していたのですが、こちらは用途も発音もそれぞれがあ行の「い」やあ行の「う」と全く同じであり、表示上は存在していても実用化されずに消滅しています。
 現代ではや行の四文字目にあ行の「え」が入っている箇所には、実は「𛀁 」という文字が該当していたのですが、仮名の誕生当初は別扱いにされていたものが次第に混同され、十世紀には区別がつかなくなっていたようです。
 これを踏まえて、いろは歌をもう一度眺めてみましょう。
 「ゐ」は第三句の二文字目、「ゑ」は第四句の八文字目にありますね。しかし、「𛀁 」はありません。
 「𛀁 」が区別されなくなったのは十世紀と書きました。空海はいつの人でしょう。生まれは宝亀  五(七七四)年、入定は承和二(八三五)年。すなわち、八世紀の人です。実際、空海が書いた文章の中に「𛀁 」の文字があるので、もし空海がこの歌を創ったのであれば、この文字を外すはずがありません。逆に、あ行の「え」がこの歌に存在しておらず、あ行「え」とわ行「ゑ」の混同が見受けられます。出来上がりとしては不完全です。さらにいえば、この歌は七五調のいわゆる「今様」であり、その当時であればそれ以前によく使われていた五七調で詠まれるはずなのです。
 空海作とされたのは、四十七文字を巧みに使って歌に仕上げていることと、一見すると「散りぬる」や「常ならむ」、「浅き夢」など無常観を誘う言葉が使われており、真言宗の学僧の間でこの歌が持てはやされたこともあり、開祖たる空海のものであろうということになったのです。

 歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は、赤穂事件を題材とした作品です。
 元禄14年3月14日(新暦:1701年4月21日) 、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に殿中で刃傷に及んだことから切腹を申し付けられ、播磨赤穂藩は改易。その2年後の元禄15年12月15日(新暦:1703年1月31日)に、筆頭家老の大石内蔵助義雄以下四十七名の播磨赤穂藩の浪士たちが吉良邸を襲って仇討ちを行った事件です。
 この題名の由来は、浪士たちの数が四十七人で、それがいろは四十七文字の仮名手本と同じであることと、主君への忠義のために身をやつしてもその意志を貫いたことを武士道の手本とせよという意味を込め、「仮名手本」となったのでしょう。また、この当時は政治批判を行うような作品、いわば「お上を批判する」ような作品が発禁処分となることが多く行われています。赤穂事件も、浪士たちの忠節を称えながらも、浅野と吉良に対する処分の格差が問題であると、お上を批判しているとも受け取られかねません。そこでこの作品では浅野を塩冶判官高定、吉良を高師直とし、鎌倉時代初頭に起こった事件を題材にした空想上の作品という名目にしています。大石も大星由良助義金という名で登場します。でもそれだけでは作者(群)も面白くないと考えたのか、これは赤穂事件を題材にしたものであると暗に知らしめる行いをしています。ひとつが、大星の妻を「お石」としたこと。もうひとつが題名に「蔵」と入れたこと。これにより、観客は「大星は、大『石』内『蔵』助のことだな」と、ささやき合うという仕掛け。

 余談ですが、先のいろは歌を七文字目で区切るようにすると、
 いろはにほへと
 ちりぬるをわか
 よたれそつねな
 らむうゐのおく
 やまけふこえて
 あさきゆめみし
 ゑひもせす
 となり、これの末尾を追うと「とかなくてしす」。「咎無くて死す」であり、無実の罪で死んだことを知らしめるものを題名に込めたする説もありますが、これはいただけません。浅野は殿中での抜刀、および刃傷なので切腹を申し付けられるのも当然のこと。また大石たちも勝手に仇討ちを行ったので有罪です。時代劇で仇討ちの話が多く、「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉もあるので当然に認められた権利と思われがちですが、実は勝手に行ってはいけないものだったのです。江戸時代において仇討ちを行うには、基本的に親族の場合に限られ(一部例外あり)、武士であれば主君からの免状を必要とし、国を越えたければ奉行所への届け出が必要だったのです。武士階級以外の者で、無許可で仇討ちを果たして絶賛されたという例もありますが、これはごく稀なこと。「入り鉄砲に出女」と呼ばれる、厳しい関所を無許可で通れるはずもないでしょう。
 大石たちの行為は誰の許可も得ず、そもそも許可を得たくとも改易により浪士になったのですからその方法も存在せず、一方的な忠義心だけで勝手に行ったものです。それに、仇討ちとは基本的に、親などが殺された場合に子供がその仕返しとして行うもので、主君のためであればその遺児を担ぎ出さなければなりません。浅野には跡継ぎがいなかったので、改易時に跡継ぎとして推した弟の長廣(これは却下されます)を担ぐべきなのに、それは避けています。むしろ浅野家に迷惑が及ばないよう気を遣っているほど。当時や後世においても、これをただの復讐と位置付ける意見があるのは、そのためです。少なくとも浪士たちは抑えきれない義侠心からの行動であり、本来なら斬首刑に処せられてもおかしくないところを、武士の面目を保つ切腹に処せられたのですから、無念ではなくむしろ達成感に包まれて果てていったと思われます。無念と断ずるのかかえって、彼らに失礼でしょう。

 いろは歌を創ったのは果たして誰なのでしょうか。
 植物学者の牧野富太郎は、二千五百種類以上もの命名を行い、六百種類以上の新種を発見していることから「日本植物学の父」と呼ばれた人物です。ある作家が書いた「名もなき花」という言葉を目にした彼は「知らないだけで花にはみな名前がある。『名も知らぬ花』というべきだ」というような趣旨のことを述べたといいます。
 昭和天皇の侍従長だった入江相政は、天皇が御在所に戻られた際、戦後間も無く人数が確保できなかったために広芝(庭)の掃除が間に合わず、「真に恐れ入りますが、雑草が生い茂っておりまして随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致しますから」と謝罪したところ、天皇は「何を言っているんですか。雑草という草はないんですよ。どの草にも名前はあるんです。どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」と応えたという。(『宮中侍従物語』。著:入江相政。ティビーエス・ブリタニカ
 牧野は小学校を二年で中退した雑草であり、名も知らぬ花であったのが、二十代中盤で才能を開花させたことで後世に名だたる学界の権威になるとは、当時は誰が思ったことでしょう。
 いろは歌も、これは天才である空海にしかできないことで凡人では不可能だというのは後世の一方的な評定で、名も知らぬ花とて芳香を放つこともあるのです。
 いろは歌を創ったのは誰なのか。
 誰だって良いではありませんか。
 それを美しいと感じるならば。
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≪本文≫
秋風起兮白雲飛
草木黄落兮雁南歸
蘭有秀兮菊有芳
懷佳人兮不能忘
泛樓船兮濟汾河
橫中流兮揚素波
簫鼓鳴兮發棹歌
歡樂極兮哀情多
少壯幾時兮奈老何

≪読み下し文≫
秋風起りて 白雲飛び
草木黄落して 雁南に帰る
蘭に秀有り 菊に芳有り
佳人を懐うて 忘るる能はず
楼船を浮べて 汾河を濟り
中流に横たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴りて 棹歌を発す
歓楽極りて 哀情多し
少壮幾時ぞ 老いを奈何せん

≪大意≫
秋風が起こって、白雲は飛び交い、
草木は黄色く染まって、雁は南へと帰る。
蘭は秀美、菊は芳香、
佳人を思い起こして、忘れることなど出来ない。
楼船を浮かべて汾河を渡り、
中流で横たわって白い波を上げる。
簫や鼓が鳴り響き、哀悼の歌が流れる。
歓楽は極まり、それなのに哀情は増すばかり。
若い時はいつまで続くのか。老いていくのをどうしたらよいのか。


 これは前漢の武帝・劉徹が四十四歳のとき、汾陰に行幸して后土(土地神)を祀った後、汾河で付き添いの者たちと船遊びをしている最中に詠んだもので、「秋風辞」と呼ばれるものです。
 現代ならば四十四歳であれば仕事などで熟練の域に入り、脂の乗った年代とも言えますが、古代や中世に至る頃ではすでに老年期で、肉体や精神の衰えを感じさせる頃合いと言えるでしょう。
 前漢の武帝は、匈奴に対して屈辱的外交を強いられていた漢王朝のこれまでのやり方に反発を覚え、文帝や景帝による「文景の治」と呼ばれる安泰期に国力の回復が十分に成されたこともあり、積極攻勢に出ていきます。オルドスを回復した時点で、かつて天下を統一した秦の領土を上回ることが出来たのも、彼の治世においてです。
 秋風辞では、歓楽が極まっても楽しくないと、老いるのは嫌だと、まだまだやる気に溢れているかのようです。一方で、佳人を思って忘れられないと、焦っているかのようです。佳人とは、見目麗しい女性という意味ですが、誰のことであるのかまったく分かりません。衛皇后こと衛子夫は生年不明ですがそろそろ四十代に達するかと思われ、夭い女性という感じではありません。ここでは理想上の女性ということでしょう。
 この三年後に、天と地を祀る「封禅」の儀を行い、人生の最高到達点に至るのですが、その後は実によろしくない。
 諫めるものを遠ざけ、媚びへつらう者たち、いわばイエスマンだけで周りを固めて、自分の意見を強引に押し通す。財政面でも文景の治の財産を食いつぶし、民衆の生活を圧迫し、各地で反乱が頻発します。そして、 「巫蠱の獄」により、多くの者が「巫蠱」と呼ばれる呪術を使っているとして逮捕・処罰され、戻太子もまたこの罪をでっちあげられ、それを信じた武帝に殺されそうになった太子は反乱を起こしてしまうのです。
 歴史的に残る事件として最後に、李陵事件があります。これは匈奴征伐に赴いた李陵が奮戦したにも関わらず衆寡敵せず降伏したもので、武帝はこれに激怒します。この時、李陵をかばったのが司馬遷で、ただそれだけのことで、司馬遷は宮刑に処せられて宦官にならざるを得なかったのです。これについては『史記』の成立に関わる話なので、詳しい状況は追って機会を設けるつもりでしますが、ひとつだけ。司馬遷が李陵をかばったのを、知り合いだからとか友人だからとする意見がありますが、問題はそこではないのです。友誼があったという形跡も、特に見当たりません。単純に、健闘した功績を無視して一度の降伏だけで罰せられるのはおかしいと意見を述べたに過ぎません。しかし武帝はもう一人の将である李広利が活躍して欲しかったのにそれがうまくいかないことに苛立って八つ当たりをし、そして群臣たちも誰一人として司馬遷の意見に賛同せず、武帝におもねったのです。勇壮で積極的で現実的で激情的な人物はすでに、偏屈で聞き分けの無い、わがままで老害を撒き散らすだけの、過去の栄光に成り下がってしまっていたのです。
 老いを奈何せん。

 では、次のような詩をどう感じるでしょうか。

≪本文・一部抜粋≫
神龜雖壽 猶有竟時
騰蛇乘霧 終為土灰
老驥伏櫪 志在千里
烈士暮年 壯心不已
盈縮之期 不但在天
養怡之福 可得永年
幸甚至哉 歌以詠志

≪読み下し文≫
神亀は寿なりといえども なお終わるの時有り
騰蛇は霧に乗ぜども 終(つい)に土灰と成る
老驥は櫪(れき)に伏せども 志は千里に在り
烈士暮年に 壮心やまず
盈縮の期は ただに天のみに在らず
養怡の福は 永年を得るべし
幸甚至れるや 歌いて以て志を詠ず

≪大意≫
神亀は長寿だが、それでも終焉の時が来る。
騰蛇(龍)は霧に乗るというが、終わりには土塊と化してしまう。
老いた駿馬は馬小屋に伏しているが、志は千里先にある。
烈士は晩年においても、壮年の心は忘れない。
満ちたり縮んだりする時期は、ただ天に定められたというものではないのだ。
喜びの心を養えば、永い年を得られるのだ。
幸甚の至りではないか。さあ、歌って志を詠じよう。


 これは三国・魏(曹魏)の武帝・曹操が詠んだ『歩出夏門行』(別名・碣石篇)五首の五首目で、「亀寿雖」と題されるものです。第二首の「觀滄海」で「東臨碣石 以觀滄海」と詠まれているので、碣石の地を通りかかった建安十二(二〇七)年の作で、五十三歳の時でしょう。
 彼は後漢末期の混乱期において、各地で朝廷を無視して自立の動きを見せる群雄たちと戦い、当時では最強の軍閥であった袁紹(七年前に病没)の残党との戦いにようやく終わりが見えてくる頃です。まさに晩年で、そろそろ引き際を考える年齢と言えるでしょう。
 ところが詩の中で彼は、老いたといってもそれは外見だけで、志は限りなく大きく、心はまだ壮年だと言っています。それどころか、心を養っていけばまだまだ大丈夫だと、自らを励ましているのです。
 実際、彼はこの後に烏丸との戦いに出向き、それどころか六十六歳で亡くなるまで戦場の最前線に何度も赴いているほどです。晩年は負け戦をしたり、内紛を起こされたりしても、大局に関わるような政治的失策は見受けられず、むしろ支配領域や権勢の拡大に励み、子の曹丕は曹操が亡くなった翌年に皇帝に就任するほど、最後まで積極的に、気を抜かずに生き延びています。

 今の歓楽に耽りつつ、佳人が欲しい、老いたくないと言い、晩年に老醜をさらけ出して失策の限りを尽くした前漢の武帝。
 老いなんて吹き飛ばせ、まだまだ喜びはあるぞと、最後まで駆け回り、息子に天下を与えた魏の武帝。
 辞や詩には、人ぞれぞれの心意気や未来予想図も潜んでいるものです。
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 仕事や学業などをしていて、その成果が現れないというのはよくあることです。
 それが単に努力が足りないというのであれば、より切磋琢磨するか、あるいは手順などのやり方を模索するのも一策ですが、そもそも、成果に繋がらない無駄な行動を繰り返している可能性もあるわけです。
 『韓非子』「外儲説左」にこんな話があります。
 
 韓宣子は言った。
「私の馬は餌をたくさんあげているはずなのに、どうしてこんなに痩せているのだろう。心配でたまらない」
 周市が答えた。
「餌をたくさん食べさせていれば、たとえ太るなと言っても無理なこと。表向きはたくさん与えていることになっていても、実際には少なければ、痩せるなと言っても無理なこと。あなたが実情に疑いを抱かず、ただ座って心配しているだけでは、馬が太ることなどありません」

 ことわざでいえば、「骨折り損のくたびれ儲け」といったところでしょうか。あるいは「鹿を追う者は山を見ず」といったところでしょうか。
 「鹿を追う者は山を見ず」 とは、目先の利益を追う者は、それ以外のことに目を向けようとしないこと。一つのことに夢中になって、他のことを考慮しなくなることをたとえた言葉です。
 出典は『淮南子』「説林訓」。
 逐獣者目不見太山。嗜慾在外、則明所蔽矣
(獣を追う者の目には泰山が映らない。嗜好への欲望が外に溢れ出ていると、聡明さも覆われてしまうのだ)
 太山とは泰山のことで、歴史的には秦の始皇帝や前漢の武帝が「封禅」の儀式を行った場所であり、宗教的には道教が五岳として重んじる五つの山でもっとも尊貴であるとしている霊峰です。それほどの山に入り込んだのに、見上げようともしない。気づこうともしない。
 目の前のことに集中するのは悪いことではないけれど、考えが足りなければ、かえって害になるかも知れない。そんな話が『列子』「説符篇」にあります。

 邯鄲の民は、正月元日に(趙)簡子に鳩を献上していた。簡子は大いに悦び、これに厚く賞した。客人がそのことについて質問した。簡子は言った。
「正月元日に生き物を放ってやることで、恩情を示すのだ」
 客人は言った。
「民はあなたが鳩を放ちたいがために、競って鳩を捕らえようとします。そのために死者まで出るほどです。あなたが鳩を生かしてやりたいと思ったならば、民にこれを捕らえることを禁じればいいのです、捕らえて放つより、捕らえずにおくことのほうが恩情があるでしょう」
 簡子は答えた。
「その通りだ」

 放生は良い行いであるけれど、それがために死者が出ていてはなにもならない。愚かなことだと笑うのは簡単ですが、これが笑い話で収まらない現実があるのです。
 仏教に「放生会」という、捕らわれた生き物を野に返す儀式があるのですが、一部の国ではそこで放つための動物を売る店が出ることがあります。放つために捕える、何の功徳でしょうか。履き違えとは、まさにこのこと。
 ここで取り上げた韓宣子こと韓起、趙簡子こと趙鞅の両名は決して凡庸な人物ではなく、むしろ俊才と言ってよい人たちです。どちらも春秋・晋に仕えていた人物であるのは採択のうえでの偶然ですが、偶然でないのはどちらも、それを諫めて正道へ戻した人たちがいて、その助言を聞き入れたこと。これは彼らだけに限らず、偉人によく現れる傾向です。逆に恵まれた才能を活かして時代の頂点に上り詰めながらも、他人を信用せず、協同せず、諫めを聞かず、栄華を得てもわずかな期間ですべてを失った人物というのも、これも歴史上にいくらでも例があることです。
 歴史に名を遺した人物ですらそうであるなら、それに及ばぬ我ら凡人であれば、他人に意見を求めることに何の恥を感じる必要があるのでしょうか。
 なぜかうまくいかない。そんなときには、こんなことわざを思い出すのも大切かもしれませんよ。

聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥
 
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