風の伝えるままに

読んだ本、見たニュースなどを、いろんなものにたとえながら。あるいは雑学ネタなど想うがままに。


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 司馬遷(しば・せん)はあざなを子長といい、左馮翊夏陽県龍門の人です。
 生年は二つの説があります。
 漢の景帝の治世、紀元前一四五年。あるいは武帝の治世、建元六(紀元前一三五)年とされています。
 十歳の時には古文を諳んじることが出来たといい、二十歳の頃には長安に移り住んでいるようです。この頃の履歴はあまりはっきりとはしておらず、自伝である『太史令自序』を元に多くの学者が詳細を模索していますが、生年の説が定まらないように、幼少期についての説はどれも定説にまで至っていないのが現状です。
 二十歳の頃、突然、各地の旅行に赴いています。長江、淮水の一帯から中原を歩き回り、各地の風俗の考察や伝承の蒐集などを行っています。二十二歳の頃、郎中に就くと、武帝の巡遊に従い、奉使として巴、蜀、略邛、莋、昆明などの地へ赴いています。また、軍隊を監督する、日本でいう「戦目付」である監軍のような仕事も行っていたようです。

 元封元(紀元前一一〇)年、父・司馬談(しば・だん)が亡くなります。
 司馬談は太史令でした。これは三公九卿のひとつである太常の属官で、国の歴史を著述する記録官です。禄は六百石。しかし、彼にとって屈辱的な出来事がありました。それは封禅の儀において、呼ばれなかったということです。太史令であれば当然、儀式の手順について下問を受けたときに答える役目があり、またこの功績を後世に伝えるために儀式の様子を記録する必要があるため、随行するのが当然であるはずなのに、何故か司馬談は呼ばれなかったのです。
 これは太史令の地位が下がっていたことも一因でした。本来、歴史を記述するためには、故事を学び、天文を計り、暦を作るなど様々な仕事があったのですが、この頃にはただ暦を作ることだけで手一杯で、過去から現在の歴史を綴ったり、数多くの儀式・典礼について調査して諮問に応えられるように学識を積むことを怠っていたのです。封禅の儀に呼ばれなかったのもおそらく、現在の太史令に諮問したところでどうせ答えられないだろうと思われたからでしょう。
 司馬談は死に際して、司馬遷に訴えかけています。周代からの太史令でありながら、時代とともに廃れ、自分は封禅に呼ばれなかったとし、
「私は死ぬが、お前は必ず太史になる。論述・著作を忘れてはならないぞ」
 と、そして、
「孔子は『詩』や『書』を論じ、『春秋』を作った。今の学者はみな、これに則っている。獲麟(『春秋』での最後の記述)から四百年余りが経っているが、諸侯が相争い、歴史記述は放置されている。今、漢が興り、海内は統一された。明主や賢君、忠臣、義のために死んだ士など、太史として論述すべき内容は山ほどある。天下にこれらが伝わらないことを、私はとても恐れている。お前はこのことを忘れるな」
 元封三(紀元前一〇七)年、父の遺言通り、司馬遷は太史令の位を継ぎます。三年も間が空いているのは、服喪期間だからです。儒学の教えでは、親を亡くしたときは三年(実際には「三年目に入るまで」で、二年と一か月)服喪し、その間は外出もせず、当然ながら職務からも離れるからです。
 そしてこの時から、歴史書である『史記』の編纂に執りかかります。

 太初元(紀元前一〇四)年、司馬遷は壺遂(こ・すい)、唐都(とう・と)、 落下閎(らくか・こう。あざなは長公)らとともに、太初暦を作ります。それまでは秦が作った顓頊暦に従い、十月を年の初めとしていたのを、夏王朝が使っていたという夏暦に従って立春正月を初めとしています。また一年と一か月の長さを計算し直し、太陽年の長さを三百六十五日と四分の一という単純なものから、もっと細かく算出された八十一分法という方法が用いられています。
 こうして着々と、後世に残る事業を進めていた司馬遷の、すべてを台無しにするような出来事が起こります。
 天漢二(紀元前九九)年。匈奴攻めの別動隊を率いていた李陵が匈奴の本隊と遭遇し、奮戦虚しく降伏した事件です。
 これに怒った武帝に対し、群臣が残らず武帝の意見に賛同するなか、李陵を弁護した司馬遷が死刑を言い渡されます。宮刑を受けることで、死刑を免れます。これについては、司馬遷は父の遺言を遂行して『史記』を完成させることが第一と考え、一時の恥辱を偲んだためであると解釈されています。
 司馬遷が釈放されたのは、太始元(紀元前九六)年のことです。実に四年間も獄に繋がれていたことになります。
 そして中書令に任じられます。
 これは内廷、すなわち後宮など皇帝の身辺に仕えて取り次ぎを行う役目で、皇帝の私生活の面でも側近として仕えるという重要な役割ですが、それだけに任されていたのは宦官のみでした。国政に参加するようになるのは隋・唐朝以降で、その頃になると宰相格ともいえる重大な地位となるのですが、この頃はまだそれほどではありません。それでも禄は一千石で太史令の六百石よりも高く、表向きは出世ですが、宦官なのでこの地位が妥当であろうと見做されたとも言えます。
 これ以降、武帝の全国巡察に付き従いながらも、『史記』を著し続けます。完成したのは征和三(紀元前九十)年頃とされています。
 これは十二本紀、十表、八書、三十世家、七十列伝からなる百三十篇、文字数は五十二万六千五百文字であると、司馬遷自身が記しています。また、名山にこれを隠し、副本を都に置いたともしています。
 これ以降の司馬遷の事績は不明です。没年も明らかにされていません。1916年に清末民初の学者である王国維(おう・こくい。あざなは静安または伯隅)は、司馬遷の生没年の考証を行ったときに、「武帝のすぐ前後の辺りであろう。それより大きく遅れることはない」としており、現在でもその辺りが妥当であろうと判断されています。

 余談となりますが、司馬遷の先祖と子孫について少しだけ。
 司馬遷の先祖は周の第十一代・宣王の頃に秦に移り住んだとされています。八世の祖は司馬錯(しば・さく)です。この人は武人として大いに活躍するのですが、それよりもある進言により、それまでは辺境の弱小国でしかなかった秦を、中原に手を伸ばせるほどの中堅国家に押し上げた功績があります。それは、南西に広がる蜀の地を手に入れろというものでした。これにより秦は南方の大国である楚を牽制することができ、また、蜀は優秀な農作地帯であるので、いわば巨大な穀物倉庫を手に入れたようなものです。
 その孫(司馬遷の六世の祖)の司馬靳(しば・きん)は、名将・白起(はく・き)の副将として、趙との「長平の戦い」に参加し、趙の降伏兵四十万が生き埋めとなっています。この両者は後に秦が統一国家となるうえで、軍事的に活躍した人物として高く評価されています。
 それ以外の先祖については、ほぼ不明です。
 司馬遷には息子がいなかったらしく(少なくとも証拠はない)、娘が一人いて、名は一説では英といいます。彼女は楊敞(よう・しょう)に嫁いでいます。楊敞は霍光(かく・こう。あざなは子孟)の信頼を受け、大司農、御史大夫、丞相などを歴任し、安平侯、死後に敬侯に封じられています。楊敞の子の長男が楊忠(よう・ちゅう)、次男が楊惲(よう・うん。あざなは子幼)。安平侯を継いだのが楊忠で、楊惲は『史記』を世に広く知らしめる功績を立てています。
 楊忠の子は楊譚(よう・たん)、楊譚の子が楊寶(よう・ほう)。そしてこの楊寶の子が「四知」の故事や「関西の孔子」の異名で知られる楊震(よう・しん。あざなは伯起)です。
 これ以降、楊秉(よう・へい。あざなは叔節)、楊賜(よう・し。あざなは伯獻)、楊彪(よう・ひょう。あざなは文先)の四代にわたって、太尉の職に就いたため(司空や司徒に就いた者もあり)、この一族が「四世太尉」と呼ばれるようになるのです。

 最後に司馬遷の一族に関する伝承を載せておきます。
 これは司馬遷が処罰されたとき、一族が後難を恐れて改姓したというものです。司に一画加えて「同」の姓としたり、馬に二画加えて「馮」の姓としたものです。実際、陕西省渭南市韓城市(渭南市が地級市、その下の行政区分として県級市の韓城市があります)にある芝川鎮西塬上徐村では、この二つの姓の人たちが多く、彼らは姓は違っていても同じ一族の末裔であるとしています。
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 元封元(紀元前一一〇)年、漢の武帝は封禅の儀を行うことで、天下の支配者であることが明確となりました。
 しかし、彼の衰運はまさにここから始まるのです。
 封禅の前年には南越へ、翌々年には朝鮮へ出兵し、ともに成功を収めています。
 南越は秦の末期に趙佗(ちょう・た)が自立し、漢帝国創建以来、臣従しながらも一度も入朝しないという、半独立国でした。衛氏朝鮮は紀元前二世紀初頭に中国人からの亡命者と地元民との連合で建てられた国で、王国として自立していました。これらの外征により、南越には九つの郡を、朝鮮には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡を置き、直轄領とします。
 ただし、朝鮮出兵で活躍したはずの左将軍・荀彘(じゅん・てい)は斬刑、楼船将軍・楊僕(よう・ぼく)は大金で罪を贖うことことで処刑を免れ、庶民に落とされています。なぜそうなったかというと、この両者が互いのやり方に不満を抱き、相争っていたことで、征伐が遅れたからというものでした。
 以前、馬邑で軍臣単于を誘殺しようとして失敗した王恢が死罪となったという話を述べました。実は王恢は、武帝の母である王太后に泣きつき、それを憐れんだ王太后が武帝に助命嘆願しています。しかし武帝はこれを拒絶します。
 『漢書』やその他の伝承などを合わせると、武帝としては、韓安国(かん・あんこく)が和親策を言上し、大臣たちもほとんどがそれに賛成したのに王恢は無理を言って出兵を要請した。策は外れ、単于が逃亡したが、それを追うこともしなかった。戦を恐れ、漢の面子も潰された。だから処刑するのだという。『漢書』「武帝紀」では下獄死とあり、自殺したともいいます。
 王恢を弁護するなら、そもそも匈奴と戦いたがっていたのは武帝自身です。和親策を採ったのも、まだ皇帝としての威厳が備わっていなかったため、自分の意思を押し通すことが出来なかったというのが実情でしょう。追わなかったと言いますが、単于は十万の軍勢を温存しています。漢の三十万はあくまでも遠巻きに包囲しようとしていた軍勢で、王恢自身が率いていたのは三万です。兵力でも劣るうえ、追えば敵地です。高祖がどんな目に遭わされたのかを考えれば、攻め込むつもりのない軍勢で無策のまま攻めるのは愚策です。現実が分かっていれば、その判断もあながち間違いではないでしょう。
 軍事に力を注いだ武帝とはいえ、軍事の本質を失念しています。
 匈奴攻めでも、失敗した将軍たちは悉く処刑、あるいは金で罪を贖うことを余儀なくされています。朝鮮征伐でも、活躍した二将は勝利したことを褒められてはいません。成功するのが当たり前で、失敗など許せない人なのでしょう。現地で戦い続けた漢の高祖・劉邦や、後の後漢の世祖光武帝・劉秀、三国曹魏の武帝・曹操などには、一度の失敗や失策だけで命まで奪うということは、めったにありません。勝敗は兵家の常で、負けても次の機会で挽回すればいいのです。むしろ活躍の機会を与えてやれば、奮起します。負けて学び、強くなる人もいるのです。
 話を戻せば、大宛(フェルガナ)にも兵を差し向けています。最初は太初元(紀元前一〇四)年。大宛の弐師(じし)城には名馬と謳われる「汗血馬」がいるからです。汗血馬の名前には諸説あり、肌が赤いことを譬えたというもの。寄生虫により、汗が赤くなったというもの。汗はカン、すなわちモンゴル系の王を意味し、汗の血統のみが跨ることを赦された優秀な馬というものもあります。
 ここに差し向けられたのが李広利(り・こうり)で、弐師に攻めるので「弐師将軍」の称号を与えられています。一度目は失敗し、それに怒った武帝が玉門関の関守に「そこから一歩でも入国しようとする者は斬れ」と言ったほどです。李広利は怒りが解けるまで帰ることもできず、敦煌に留まり続けます。その二年後、再度の機会を与えられ、六万の軍勢に校尉(指揮官)は五十人余り、三万頭の軍馬に、十万頭の牛と、驢馬などその他の輸送用動物数万頭という大軍勢で攻め込み、「良馬数十頭、中馬以下牡雌数三千余頭」を得ます。この良馬が汗血馬なのです。この時、軍勢はわずか一万、軍馬も千頭ほどしか残らなかったのですが、武帝は悦びのあまり汗血馬を称える歌も作り、李広利は海西侯に封じられています。
 さて、敗者を容赦なく死罪に処する武帝が、なぜ李広利の一度目の失敗を赦したのでしょうか。
 彼の妹が武帝の寵愛を受けていたからです。
 李家は楽人の家柄で、李広利の兄弟の李延年(り・えんねん)は宮刑により宦官となって、武帝の犬の飼育係をしていましたが、ある時、武帝に近づき、歌舞を披露します。その時に歌ったのが、
 「北方有佳人、絶世而独立、一顧傾人城、再顧傾人国。寧不知傾城興傾国、佳人難再得」
 城を傾け、国を傾けるほどの美女がいるのに、誰も知らないのか。二度手に入れるのは難しいぞ、と誘発してみせたのです。武帝が興味を示したので、彼女こそその人であると平陽公主のもとにいる妹を紹介したのです。これが李夫人です。彼女自身は男子を出産して間もなく逝去してしまいますが、李延年自身がこのことで武帝の傍に仕えることになります。
 絶世の美女のことを、「傾城」あるいは「傾国」というのはここから来ています。
 敗戦の責を負わされない李広利の存在が、やがて事件を巻き起こすことになります。

 匈奴はかつての勢いを失っていました。
 漢の度重なる侵攻により、龍城、雁門を抜かれ、オルドスまで奪われたためです。オルドスはかつて、秦の蒙恬(もう・てん)が抑えていた地域です。しかし、始皇帝の死後に胡亥を後継者としようとする陰謀が働き、その邪魔となる始皇帝の長男・扶蘇(ふ・そ)と蒙恬は自殺を強要されることになります。匈奴にとっては勿怪の幸いで、名将のいなくなったオルドスを奪い、漢帝国もこの地を恢復させることが出来なかったのです。
 匈奴にとって不幸なのは、単于が相次いで死に、天候不順による不安も重なっていたことです。農耕民族にとって天候不順は作物の収穫に影響を及ぼす憂うべき事態ですが、遊牧民族にとってもそれは同じで、馬や牛や羊などの餌となる草木が育たず、動物たちも病気に罹りやすくなってしまいます。
 かつては匈奴が漢を見下す立場にあったのに、ついに漢から人質を要求されるまで落ちぶれてしまいました。
 それでも意気の高さだけは保ちたかったのか、中郎将の蘇武(そ・ぶ。字は子卿)が和親を求めてきたとき、彼を拘留してしまいます。蘇武はこの後、十九年にも長きに渡り拘留されることとなります。これは「雁書」の故事として有名な話です。武帝にとってこれは開戦の口実になり、天漢二(紀元前九九)年、李広利に三万の軍勢を与えて、天山へ出兵させるのです。
 この時、輜重隊を率いるはずだった人物が、別動隊を指揮したいと言い出したのです。
 それが李陵(り・りょう。字は少卿)です。
 李陵の先祖は、秦の始皇帝の覇業を助けた名将の一人、李信(り・しん)です。祖父は飛将軍と称えられた李広(り・こう)。李広は、虎と見間違えて石を矢で貫いた「石虎」の話でも知られ、朴訥で粗野でありながら、兵士を愛し、最期には匈奴との戦いで道に迷ったために参陣が遅れた罪によって自殺した人物です。彼が死んだときには国中の誰もがそれを悲しんだとあり、司馬遷もその人柄を褒め称えています。
 不遇の李家を勃興させたいという思いがあったのかも知れません。李陵は強く願い出て、騎都尉に命じられ、五千の歩兵を預かって出兵します。不幸だったのは、単于の本隊三万と遭遇し、これと戦わざるを得なかったこと。彼は八日間に渡ってこの不利の中で戦い続け、単于の軍勢のうち一万を討ち取っています。この様子を陳歩楽(ちん・ほらく)を使者として報告させたところ、武帝は大いに喜び、陳歩楽をも大いに褒め称えます。しかし、圧倒的不利を跳ね返すことができず、李陵はついに匈奴へ降伏してしまうのです。それを知った武帝は怒り狂い、かつて勝利を報告した陳歩楽は呼び寄せられて詰問され、自殺を強要されています。さらに不幸だったのは、匈奴の李という将軍が単于に戦略の手ほどきをしているという噂が流れ、武帝は李陵を反逆者と決めつけてその一族を皆殺しにするのです。しかし、ここでいう「李という将軍」は李陵のことではなく、以前に降伏していた李緒(り・ちょ)という人物で、李陵は降伏を断固として拒絶していたのです。一族への仕打ちを知ってさすがに憤慨した李陵は李緒を殺し、且鞮侯単于の娘を娶り、また単于の要請を受けて右校王として仕えることになるのです。敵対していた匈奴のほうがかえって、漢に忠節を尽くそうとしながらも冷遇されていた人物の能力を認めて優遇したというのは、皮肉めいています。
 少しだけ時間を戻します。
 李陵が降伏したという知らせが入ったとき、武帝がこのことを群臣に審議させたところ、一人を除いた全員が李陵を詰っています。
 その一人というのが、太史公の司馬遷(しば・せん。字は子長)です。
 司馬遷の経歴については次回とします。ここで重要なのは、李陵を弁護したのが司馬遷ただ一人だけだということです。
 李陵と司馬遷に友誼があったから弁護したという意見が多く見受けられますが、そうは思えません。『史記』「李将軍列伝」で司馬遷は最後に李広についての感想を述べていますが、「余睹李将軍」として「私は将軍を見たことがある」と言ってます。「睹」は「見た、見かけた」という意味です。会ったならそういう言葉を使うはずですし、それを機会に李家と懇親になったとか、李陵と友誼を交わしたなら、そういうことについて遠慮なく記述が残るものです。記述に無いからといって事実が無かったとは言い切れませんが、「彼とは親友だった」とか「彼と語ったことがある」という記述も残っていないのは、深い関わり合いが無かったからではないかと思われます。
 肝心なのは、他の誰も李陵を弁護していないということです。群臣たちは、武帝が李広利を活躍させたがっていることを悟っているからです。しかし李陵の奮戦とは裏腹に、李広利は匈奴の別動隊と接して包囲され、仮司馬の趙充国(ちょう・じゅうこく)が百人余りの手勢とともに奮戦して、命からがら脱出しています。この時、六割強の軍勢を失っています。
 司馬遷は、李陵はわずかな軍勢で匈奴の本隊と渡り合ったではないかと主張します。これは、李広利の本隊が匈奴の別働隊に痛い目に遭わされたことを視野に入れてのことです。先に挙げたような建国者たちなら、この暗示をよく理解し、李陵の降伏もやむを得ない、むしろよく健闘したと納得したかも知れません。しかし武帝はどうやら曲解したようです。司馬遷は、李陵を褒めると見せて実は李広利を貶していると見做したようです。
 司馬遷に死罪が言い渡されます。
 それを回避するには、今までの将軍たちと同様に大金で贖う手もあるのですが、司馬遷は裕福ではありません。そこで、宮刑を願い出ます。これは去勢して宦官になるということ。今まで敗戦して死罪を言い渡された将軍たちにこれを選択した人がいなかったのは、あまりにも恥ずべきことだからです。罪人である証を一生残すうえに、統一王朝となった秦を腐敗させて滅亡を速めた宦官・趙高(ちょう・こう)の悪い印象もあります。親から貰った大事な身体を傷つけるのは、不孝な行為と見做されます。また、尾籠な話ですが、下半身に締まりがなくなり、垂れ流し状態になることもあり、全身から悪臭を漂わせるとも言われます。尤も、最後のものは、宦官以外の人間が宦官を貶した表現とも言えますが、「臭い」という表現は古今東西、差別する側が差別される側を貶すのによく使われています。
 この一時でも、武帝がすでに善悪や理非の判断できない、老耄状態にあると言えるでしょう。
 そもそも、武帝が即位した当時、中央のみならず各地に賢良方正、直諫の士を積極的に登用するよう申し渡しています。それなのに、諫めというほどでもない進言に腹を立て、死罪を申し渡しているのです。
 どこに理性があるのでしょう。
 汲黯(きゅう・あん。字は長儒)は武帝が皇太子の時代から仕えていた人で、常に厳しい諫言を行っていたために、しょっちゅう地方へ飛ばされていた人です。武帝が即位し、儒学者を招こうとしたときには「陛下は内面は多欲なくせに、外面では仁義を施そうとする。唐(尭)や虞(舜)のような聖天子の治世を真似しようとしているのか」と言って武帝を怒らせています。他にもいろいろと怒らせるようなことをしていますが、ある時「古の社稷の臣といわれる者は、汲黯が最も近いのであろう」と漏らしたように、他者には平然と無礼を振る舞う武帝も、汲黯に対してだけは礼儀正しく接しています。しかし晩年、匈奴を相手に商売をしていたという理由で五百人もの人が死罪を申し渡されたとき、汲黯は「商売をしたら罰せられると知らなかった者たちを死罪にしてどうするのですか」と詰め寄るも聞き入れられず、却って疎まれ、法に触れたとされて罷免されています。
 もはや、武帝の耳には阿諛追従の言しか聞きとれなくなっていたのでしょう。

 征和二(紀元前九一)年、巫蠱の乱が起こります。
 まず、各地で巫蠱による呪いが流行しているという噂があり、そのために使われた人形が次々に発見され、関係者が処罰された事件が起こります。そして、宮中からも巫蠱に使う人形が見つかり、衛皇后の産んだ皇太子・劉拠(りゅう・きょ)が巫蠱によって武帝を呪殺しようとしているという疑いがもたらされます。これを仕掛けたのは江充(こう・じゅう)という人物で、皇太子の使者が、本来は皇帝にのみ使用を許される馳道を使ったことを詮索し、江充は皇太子から口止めを頼まれても無視して上奏を行ったという履歴があります。一見、法を厳格に執行しようとしている正義感のようにも見受けられそうですが、皇太子の性格が父に似ずに温厚であることを武帝が嫌っていたことは群臣たちの常識で、武帝におもねったものと捉えることも出来ます。江充が正義感でないことは、死罪が確定する巫蠱の容疑を皇太子に押し付けたことでも明らかです。さすがに温厚な皇太子も怒り狂い、武帝が咸陽の西北にある甘泉宮でくつろいでいる隙に江充を捕らえるとその首を刎ね、 未央宮を占拠します。武帝はこれを聞いてすぐさま戻ると戦闘が始まり、皇太子は民家に脱出した挙句に縊死してしまいます。
 後の調査で、皇太子は無実の罪で陥れられ、それを謀った江充を処罰したかっただけで、父に叛旗を翻す気持ちなど毛頭なかったことを知ると、皇太子が死んだ湖県に「思子宮」という宮殿を建てて、偲んでいます。
 しかし、すべては後の祭りです。省略しましたが、実はこの事件に少し前にも巫蠱の騒動があり、そこで衛皇后の産んだ諸邑公主、陽石公主の二人の娘が冤罪で死罪になっています。皇太子の巫蠱の乱では、衛皇后は自殺を強要された挙句に廃后とされ、衛青は十五年前に故人となってしましたが彼の子供たちはこの事件に連座させられて死罪となっています。
 さらに、劉屈氂(りゅう・くつり)夫人の妻による巫蠱事件が起こります。劉屈氂は丞相で、武帝の異母兄で中山靖王となっていた劉勝(りゅう・しょう)の子です。さらに、彼の子の妻は、李広利の娘です。皇太子・劉拠が死んでから新たな皇太子が立てられておらず、劉屈氂と李広利は李夫人が産んだ昌邑王・劉髆を皇太子に立てたいと思っていました。それを察知した夫人が巫蠱を行って、武帝が早く死ぬようにと呪ったのです。しかしこれが発覚すると、劉屈氂は斬刑、その一族も死罪となってしまいます。李広利の妻子も連座で殺されてしまったため、李広利は匈奴との対戦中に降伏してしまうのです。

 さて、自らの手足となるべき人間を次々に自らの手で滅ぼしていった武帝ですが、巷間はどのような状況にあったのでしょう。
 民衆反乱が頻発していました。
 かつては、どこの食糧庫も満ち溢れて穀物は食べきれず、銭も溢れかえっていたはずです。
 しかし外征を繰り返し、あるいは封禅の儀、宮殿建設、不老長寿を願っての出費などは莫大なものになり、先代や先々代からの貯蓄を使い果たしてしまったのです。そのため、塩鉄を政府の専売としています。さらに末期には酒も専売にしています。また、不足する財政を補うための増税や、貨幣の改鋳などを行い、民衆の生活は苦しくなるばかりだったのです。
 次代の昭帝の代には専売を弱め、その次の宣帝には減税、そして常平倉と呼ばれる官製の穀物庫が作られていますが、あまり積極性を感じられません。武帝の代の疲弊を癒すので手一杯という感じです。元帝に仕えた貢禹が「今、民は大いに飢えて死に、死んでも葬られず、犬や豚の餌にされている。人々が互いに食いあっている」という飢餓地獄の様相が『漢書』「貢禹伝」で述べています。それなのに宮中では贅沢三昧、厩の馬は食べ過ぎで肥満になっているのは、おかしいではないかという諫めの言葉なのですが、武帝の死後わずか五十年でこの有様になっていたのです。

 武帝こと劉徹は後元二(紀元前八七)年、七十歳で崩御しました。
 先が長くないと悟った武帝は末子の劉弗陵を皇太子に任命していました。これが八歳で即位することになる昭帝です。
 『漢書』「武帝紀」では「賛曰」としてその功績を挙げ、「雄材大略」と褒め称えています。『史記』「孝武本紀」の、司馬遷が感想を述べる「太史公曰」では封禅について少しばかり述べるだけで、当人に対する感想は省いています。言いたくもない、といったところなのでしょうか。
 意気軒高で意思の強さが、良い方向と悪い方向の双方向に見事に現れたといってよく、その性格を以って前半期に興隆を得、その性格を以って後半期に衰退をもたらすという、竜頭蛇尾の典型のような生き様と言っても過言ではありますまい。
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 『史記』の成立において、漢の武帝は避けて通ることのできない存在です。
 著者の司馬遷(しば・せん。字は子長)が『史記』に込めた思いの中に、武帝への憤りがひしひしと感じられるのは私だけではありません。多くの先人たちが指摘しています。
 さて、漢(西漢・前漢)の武帝は第七代皇帝で、名は徹。
 景帝の十番目の男子で、本来なら皇帝継承権こそあれど、皇帝に就任するなどほぼ不可能な位置にいました。
 景帝には当初、薄氏が皇后となってしました。しかしこれは政略結婚で、祖母の実家から迎えていた女性であり、愛情もほとんど無く、子も産まない状態だったので、祖母の死をきっかけに皇后を廃されます。長男・栄は皇太子となっていたのですが、その母である栗姫は気丈な振る舞いが多く、景帝も常々うんざりしていたため、皇后にすることをためらっていたのです。そこへ、景帝の姉・館陶公主が縁談を持ち掛けました。自身が陳家に嫁いで産んだ娘の嬌を皇太子妃にしてはどうか、と。しかし、栗姫はこれをあっさりと拒んでいます。これに腹を立てた館陶公主は、後宮でもそれほど目立たない王夫人に対し、嬌を夫人の息子の妻にしないかと働きかけます。王夫人にすればまさに天の恵みで、すぐに了承します。彼女の息子こそ、劉徹です。
 館陶公主の働きかけにより、皇太子・劉栄は廃され、劉徹が皇太子となり、王夫人が空席だった皇后の座に就くことになります。栗姫はヒステリーが昂じて憤死したようです。
 景帝が崩御し、徹が即位します。武帝という諱は死後に贈られたものですが、分かりやすいよう、これ以降は武帝と表記します。
 武帝の代は、国力が充実していた時代でした。これは、文帝と景帝による、「文景の治」と呼ばれる善政の賜物です。文帝の頃の表現として、食糧庫は都でも辺鄙な田舎ですら穀物で満ち溢れて収まりきらず、銅銭も満ち溢れて、緡が腐り落ちたなどとあります。緡とは、銅銭を大量に連ねるときに通す糸のことで、税金として集めた銅銭があまりにも多く、使わないままで放置されているうちに緡が腐ってしまったものがたくさんあるといういうこと。かつて文帝が露台を造ろうとしたところ、費用を計算させると百金になったと聞いて、「百金では中流家産十件分にもなる」と断ったという話が『史記』「孝文帝紀」にありますが、景帝の棺には豪華な副葬品が添えられるなど、「文景の治」の節制と富国策によってすでに武帝の時期には誰に憚ることなく潤沢な資産を使いたい放題の状態になっていたのです。

 武帝が行った内政として、ひとつには「推恩の令」があります。
 これは元朔二(前一二七) 年に主父偃の提案によって定められたもので、各地の王たちが、その領地を嫡子以外の子弟たちにも分割し、列侯として封じることを許可したものです。これによって封じられた侯たちは、郡の直轄下に入ることになります。それまでの郡国制では、劉氏一族が封じられた地域を国とし、それ以外の者が封じられた地域を郡とし、国は王の直轄で、郡は国の直轄となっていました。紀元前一五四年に起きた「呉楚七国の乱」は、その名の通り、呉王や楚王たちを始めとする七人の国王たちが起こした反乱で、それに懲りて、各国の力を弱めようと図ったものでしょう。表向きは国王たちが自分の子弟たちに土地と爵位を与えられるという恩恵に満ちた制度ですが、実際には各国の封地は減少し、やがて国王たちからは自治権も奪われ、税の徴収権のみが残る形となったのです。

 ちょっと余談。
 今、「推恩の令」を元朔二年と元号を添えたのに、「呉楚七国の乱」に元号を添えなかったのはなぜでしょう。
 答えは、文帝の時代にはまだ元号が存在しなかったからです。所説ありますが、紀元前一一六年に元号を創ろうということになり、宝鼎を得たことからこの年を「元鼎」と名付け、それ以前のものは「追命」として、武帝が即位した紀元前一四〇年を「建元」、以降六年ごとに区切って紀元前一三四年からを「元光」、紀元前一二八年からを「元朔」、紀元前一二二年からを「元狩」と、それぞれに元号を創って名付けたのです。

 内政のふたつめとしては、「郷挙里選」があります。これは各地の豪族たちが、能力があると思われるものを選び、中央へ推挙する制度です。特に、賢良方正、直諫の士を積極的に任用するよう、中央だけでなく各王にも通達しています。
 そして、儒学の官学化。
 それまでは黄老思想(老荘思想)が主流だったのですが、董仲舒(とう・ちゅうじょ)が『春秋』学、特に公羊学派としての学識の高さを見込まれ、五経博士が置かれ、それぞれの経学について専門知識を有する博士たちによる教授が可能となったのです。ただし、今述べたのは教科書的な一般的な解説であって、実際には武帝の代に彼は不遇を託っています。元より、彼を博士としたのは景帝であり、五経博士の始まりも景帝の代です。五経すべてが揃うのが武帝の代であったというわけで、その頃には董仲舒の弟子たちの時代になっています。景帝の代はまだ儒教が下火であり、武帝の代から儒教が官学となったので、董仲舒の功績についても少々時間的なずれが生じてしまったのでしょう。

 軍事及び外交における最大の悩みは匈奴対策です。
 漢は成立当初から匈奴に脅かされています。秦帝国が滅んだ後も、項羽(項籍)と劉邦を始めとする群雄たちが争っている間、匈奴には冒頓(ぼくとつ)単于という英傑が勢力範囲を広めていました(「単于(ぜんう)」は頭首の称号)。漢帝国を創建した劉邦でしたが、冒頓単于との戦いでは罠にかかり、白登山で大軍により包囲されてしまいます。この時は謀臣の陳平(ちん・ぺい)の策で事なきを得たものの、漢帝国は毎年、匈奴に対して進物を贈ることを約束させられたのです。
 この時に陳平が使った計略は、『史記』「匈奴列伝」には、「閼氏(あつし)に厚く贈り物をした」とだけあり、そのため、単于は兵を引いたとあります。閼氏というのは単于の妻の称号で、漢でいう皇后に当たります。白登山に残る民間伝承として、こんな話があります。
 閼氏への贈り物には、高価な金銀宝玉とともに、一枚の美人画があったので、閼氏は「これは誰か」と聞くと、使者は「これは中国第一の美女です。漢の皇帝陛下はとても困っており、和解したいと望んでおります。冒頓単于が兵を引いてくだされば、これらの財宝とともに、すぐに美女も送り届けましょう」と言ったところ、閼氏は「財宝は受け取りましょう。でも美人は不要です」と言い、嫉妬心を掻き立てられた閼氏は言葉巧みに単于を説き、単于は兵を引いたというものです。
 それはさておき、これ以降は匈奴に対して屈服した形となり、臣従とは言わないまでも、貢物を贈って顔色を窺うような状況でした。国内がまだ潤っていなかった文帝や景帝の時期はまだ、匈奴を怒らせないよう配慮していたのですが、武帝の時期にはもうその必要を感じられませんでした。
 ただし一度、匈奴を怒らせるような真似を起こしています。
 元光二(紀元前一四六)年、聶壱(じょう・いつ。あるいは聶翁壱ともいう)が、冒頓単于の孫に当たる軍臣単于に、働きかけをしました。彼は朝廷では交易禁止とされている、いわゆるご禁制の品々をこっそりと単于の元へ密輸し、信頼を勝ち取っていました。そしてある時、「馬邑の村は単于に心服しています。単于が兵を出したら、帰順します」と言って、出兵を要請するのです。
 実のところ、これは主戦派の王恢(おう・かい)が立てた策。聶壱に密輸をさせて単于の歓心を引き、馬邑が帰順したがっていると見せかけて単于自ら出兵してきたところへ、三十万の軍勢で包囲殲滅してしまおうというものでした。ところが、馬邑の様子に何やら不審を感じた軍臣単于は兵を引いてしまい、王恢が用意した軍勢は何もしないままに引き上げることになってしまったのです。
 損害が皆無であったものの、これを恥とした武帝は、王恢を死罪にしています。
 余談ですが、この聶壱の子孫は匈奴の恨みを恐れて姓を変え、幷州へ逃げたとされています。後漢末期、曹操に仕えてその猛将ぶりで知られた張遼(ちょう・りょう。あざなは文遠)は、その聶壱の末裔とされています。
 この状況悪化に対し、数年後に天恵がもたらされます。

 話は陳皇后に移ります。
 先に述べたように、陳皇后こと陳嬌は景帝の姉・館陶公主の娘であり、景帝の長男(及び次男、三男)を産んだ栗姫に対抗するため、王夫人にその子の妻として嫁がせたものです。武帝にとって政略結婚であり、愛情も沸かなかったようで、結婚から十年以上経っても子供ができませんでした。そこへ働きかけたのが、武帝の姉である平陽公主です。彼女は自分の家で謳者、いわば歌手奴隷として養っていた衛子夫(えい・しふ)を武帝の元へ送り込みます。それと入れ替わるかのように、陳皇后は「巫蠱」という呪いをかけたとして幽閉され、後に皇后を廃されます。巫蠱は当時、絶大な力を持つ呪術とされ、使用者は死罪でした。陳皇后が本当にそれを行ったのかどうかは分かりませんが、調査担当の張湯はこれを有罪とし、三百人もの関係者が処罰されていますが、さすがに伯母の子である陳皇后を殺すことはためらわれたのか、幽閉中でも皇后としての待遇で処せられていたようです。
 さて、新たに寵姫となった衛子夫には弟がいました。衛青(えい・せい)です。彼は僻地で牧羊を行っていたのですが、父親からは常に虐待を受けていたとされています。姉の縁で朝廷に引き取られ、騎馬と射撃の腕もあり、車騎将軍に任じられます。衛子夫の姉の子である霍去病(かく・きょへい)も抜擢され、やがて活躍して驃騎将軍に任じられることになります。この両者は軍事の天才でした。詳細は省きますが、他の将軍たちが外征で何度も敗北や失敗を起こしている一方で、彼らだけは連戦連勝の快進撃を繰り返しています。衛青は大司馬、大将軍にまで出世し、長平侯に封じられます。霍去病はわずか二十四歳で夭折するものの、匈奴はかつての冒頓単于の頃の隆盛を取り戻すことが出来ず、匈奴と漢との力関係は逆転しました。
 また、大月氏との同盟を図るために張騫(ちょう・けん)を送り込むも、これは失敗。ただし、張騫は十年以上も拘留されるなどの苦難を乗り越えて帰国したとき、それまでほとんど情報のなかった西域の情勢を持ち帰ったことで、漢は西域攻略の大きな手掛かりをつかむことが出来るようになったのです。

 そして元封元(紀元前一一〇)年、封禅の儀を執り行います。
 これは聖天子が天を祀る「封」を行い、地を祀る「禅」の儀式を行うというものです。「封」は泰山で行いますが、「禅」は特に場所が決まっているわけではないようで、武帝の場合は粛然山で行われています。伝説上の三皇五帝が行ったとされているもので、実際に初めて行ったのは秦の始皇帝です。秦の二世皇帝も行っていますが、漢代になってからは彼が初めてです。
 これにより武帝は、天からその統治を認められた存在となりました。絶頂の極みです。

 ところで、『易経』の「乾為天」「上九」は「亢龍有悔、盈不可久也」とあります。
 亢龍、すなわち上り詰めた龍には悔いがあるというものです。なぜなら盈、つまり満ち足りた状態というのは永久ではないからです。
 限界まで上り詰めてしまったら、後は墜ちるだけです。
 
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