風の伝えるままに

読んだ本、見たニュースなどを、いろんなものにたとえながら。あるいは雑学ネタなど想うがままに。

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 帝顓頊(せんぎょく)、高陽は、黄帝の孫で昌意の子である。
 物静かであるが深淵で深謀もあり、物事に疎通していて、あらゆる事柄を知っている。人材を養って各地に派遣し、時節にはすべきことを行い、天を象り、鬼神を敬って義を制御し、気を治めて教化を行い、廉潔で誠実な心で祭祀を行う。
 北は幽陵、南は交阯、西は流沙、東は蟠木にまで(その徳は)至る。
 動静の物、大小の神、日月の照らす所で、所属しないものはない。
 帝顓頊、子を生む、窮蝉という。顓頊が崩御した。玄囂の孫である高辛が立つ。
 これが帝嚳である。
 
 帝嚳(こく)、高辛は、黄帝の曾孫である。
 高辛の父は蟜極(きょうきょく)と曰い、蟜極の父を玄囂と曰い、玄囂の父を黄帝という。
 玄囂と蟜極から以降は高い地位になく、高辛になって帝位に即いた。高辛は顓頊の族子に当たる。
 高辛は生れてから神霊(の加護)があり、自らその名を言うことができた。あまねく施しを行って、利益を得たとしても自分のものにはしなかった。聡明で遠くのことも知り、明察で微細のことも察し、天の義に順って、民の危急を知り、仁愛であり威厳があり、恵慈にして信義があり、身を脩(おさ)めて天下を服した。土地の財を節用し、万民を慰撫教化して利を諭し、日月を暦にしてこれを迎送し、鬼神を明らかにしてこれに敬事した。
 その色香は郁郁として、その徳は嶷嶷としていた。行動するときには時節があり、立派な人物たちが敬服した。
 帝嚳は中原で政務を執れば(効果は)天下にあまねくいきわたり、日月の照す所、風雨の至る所、服従したいものはいなかった。
 陳鋒氏の女を娶り、放勛(ほうくん)を生んだ。娵訾(しゅし)氏の女を娶り、摯(し)を生んだ。
 帝嚳が崩じて、摯が立った。帝摯は立ったが不善だった。やがて崩御した。弟の放勳が立った。これが帝堯(ぎょう)である。
 
 うまく訳することのできない箇所がかなりあったのですが、印象としてはこのようなところでしょう。
 『史記』では書かれていませんが、帝顓頊は在位七十八年、九十八歳で崩御し、濮陽に葬られたという話があります。
 春秋戦国時代の楚はその苗裔と称し、戦国末期の楚の政治家であり詩人でもある屈原(くつ・げん。姓は羋、氏は屈。名は平、正則。あざなは原)も『離騷』の中でそのことを述べており、『離騒経』を書いた王逸は『帝系』という書物を引いて、「顓頊は騰隍氏を娶って老僮を産んだ。これが楚の先祖である」としています。 騰隍氏の名は女祿で、稱と禺の二人の子を産んでいるので、この記述は誤りです。老僮とは顓頊の子である稱の子、すなわち孫にあたる老童のことと思われます。その末裔ということでしょう。
 帝嚳は在位七十六年あるいは六十三年といい、崩御したときは百五歳あるいは九十二歳という話があります。崩後は濮陽頓丘の南に葬られたといいます。
 三国・魏の曹植(そう・しょく。あざなは子建)の頌のひとつに「帝嚳贊」があり、
 祖自軒轅、玄嚣之裔、生言其名、木徳治世。撫寧天地、神経靈賓、教訖四海、明并日明
 と、帝嚳が世界をあまねく慰撫し安寧にし、教化を行き届かせたことを称えています。
 西晋の皇甫謐(こうほひつ。あざなは士安)が著した『帝王世紀』では、 人皇から魏の咸熙二年までの二百七十二代、二百七十六万七百四十五年を著したという歴史書物で、帝顓頊や帝嚳の詳しい事績も載せています。伏羲氏の十六世や神農氏の八世についても書かれているのですが、現在では散逸してしまい、ほとんど残されていません。その内容の真偽評価については今回は避けておきますが、参考とした書物が不明という点では『史記』と似ているものの、創作めいた話も多く、一概に信じられるとは言えません。司馬遷が述べたように、そもそも五帝の話は、論議するのも馬鹿馬鹿しいが、体裁が整っていないだけですべてが嘘とは言い切れないという程度のものなので、ここまでにしておきましょう。
 ちなみに、五帝というのは異説もあって、『史記』「五帝本紀」では「黄帝、帝顓頊、帝嚳、堯、舜」となっていますが、太昊や少昊、炎帝などがいずれかの人物と入れ替わっているものもあります。どれが正しいのかというよりは、各地に伝わる伝承などによって内容が異なると見るべきで、整合性があり、これを基準とすべきと司馬遷が判断したものが、『史記』の五帝かと思われます。
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 『史記』で描かれている黄帝の像を、ざっくり紹介しましょう。
 
 黄帝は少典の子で、姓は公孫、名は軒轅。
 生まれついて神霊(から授かった優れた才能や徳などがあり)、赤子の頃から言葉をよくし、幼いうちから徇齊(才能が整っており)、長じて敦敏(情に厚くて鋭敏)、成人して聡明になった。
 炎帝(神農)の世が乱れてきたので諸侯が争うようになった。
 軒轅も武器を取って服従しない諸侯を征伐したところ、諸侯はみな軒轅に従ったが、蚩尤(しゆう)だけは凶暴で従わなかった。
 炎帝が諸侯を侵略するようになったので、諸侯はみな軒轅に従った。軒轅は五気を治め、五種を植え、萬民を慰撫し、四方を度し、熊・羆(ひぐま)・貔貅(ひきゅう)・貙虎(ちゅうこ)を訓練した。
 ついに、炎帝と阪泉(はんせん)の野で決戦し、三度目にして勝利した。
 蚩尤が反乱を起こしたので、涿鹿(たくろく)の野で生け捕りにして殺した。
 雲に運命を感じたので官名に雲の字を付け、雲師を置いた。左右大監を置き、萬国を和して、封禅を行い、宝鼎を得た。名臣たちを挙げて民を治めた。
 諸侯は軒轅を推戴して天子とした。これが黄帝である。
 黄帝は服従しない者を征伐し、平和が戻れば撤退した。
 二十五人の男子があったが、姓を得たのが十四人である。
 黄帝は軒轅の丘に住み、西陵国の娘を娶った。これが嫘祖(るいそ)である。嫘祖は二人の男子を得た。上の子は玄囂(げんごう)、あるいは青陽といい、江水のほとりに住んだ。次子は昌意で、若水のほとりに住んだ。
 昌意は蜀山氏の女を娶った。これが昌僕であり、高陽を産んだ。高陽には聖徳があったので、黄帝が崩じて橋山に葬られると高陽が立った。これが顓頊である。
 
 端折った部分もありますが、おおよそこんな感じです。
 黄帝に関する伝承は多くありますが、太史公曰くとして、
 
 学者たちは五帝について多く述べているが、『尚書』(後の『書経』)には堯以降のことしか載っていない。諸子百家は黄帝について言う者がいるが、雅馴でなく、まともな身分の者が言うには憚られる。孔子が伝えたとする『宰予問五帝徳』や『帝繫姓』を、儒者は伝えていない。私はかつて、西は空峒、北は涿鹿を過ぎ、東は海にまで行って、南は江水や淮水に舟を浮かべたこともある。長老たちが往々にして黄帝や、堯、舜のことを語ることがあったが、風紀はしっかりしており、いにしえの文飾からさほど離れてはいないのであろう。『春秋』や『國語』は『五帝德』や『帝繫姓』の章から発明されたのであり、深い考察がなされていないとはいえ、すべてが嘘であるとは言い切れないであろう。『書経』の間断は、他の説で補うことができる。好学の者、私の真意を知る者はまだしも、浅はかな者に説くのは難儀である。論を併せ、雅であるものを置き、本紀の最初に置いた次第である。
 
 後半部はかなり辛辣ではあるものの、司馬遷の言いたいことはお分かりでしょう。
 五帝のことを真面目に論議するのは馬鹿馬鹿しい。かと言って後世への影響は大きく、嘘だと決めつけて無視するのも、これまた馬鹿馬鹿しい。真っ当と思われる内容を載せておくので、読んでくれ、といったところでしょう。
 五帝の残り四人については後に回すとして、まずは黄帝について語っていきましょう。
 三皇に比べ、人間味が感じられます。生まれついての神童というのも世界中に類例が多くあり、現代でもよくある話で、さほど不思議ではありません。 
 黄帝が戦ったのは炎帝ではなく炎帝の子孫という伝承もあります。また、蚩尤は九黎の部族の首領で、蚩尤は八十一人兄弟とされている話もありますが、これは八十一の部族と同盟関係であったとする説もあります。また、蚩尤は凶暴で従わなかったというよりは天下の覇権を巡る巨大勢力を有した宿敵という見方をしたほうが良いでしょう。蚩尤が三頭六臂であったとか、目が四つで腕が六本であったとか、身体は人間だが馬の蹄があったとか、銅の身体に鉄の額を持っていたなどと化け物扱いされているのも、それだけ強力な敵であったという恐れからでしょうし、考えてみれば複数の頭や腕があるというのも連合政権を象徴していると見做すこともできます。もっとも、あくまでも伝承の存在なので確実なことは言えませんが、蚩尤がいかなるものであったのかという研究は日本ではほぼ皆無ですが、本場中国では熱心に行っている学者もいます。
 軒轅が訓練したという、熊・羆・貔貅・貙虎などはすべて動物です。
 貔貅、貙虎(もしくは単に「貙」)は伝説上の動物ですが、いずれも非常に強い猛獣で、後に勇士を褒めるときの譬えにも使われています。実際の動物ということではなく、それに匹敵すると称えられるほどの勇士であったと考えられます。あるいは、それらを旗印としていた集団とも考えられます。古代に限らず、自分たちを狼の末裔であるとか虎の一族であるとしたり、あるいは獅子や鷹を神と崇めるような集団は世界中に多くいました。個々の勇士たちを訓練したとも、そういった集団を集めて軍勢として訓練したとも捉えることができるでしょう。いずれにせよ、狩猟や採集だけに頼るような原始的集団生活はすでに終わり、支配者と階級社会が構成され始めたのが黄帝の時代でしょう。
 
 黄帝のような人物は、必ずしもこの伝承通りではないにせよ、階級社会の創成期に実在したはずです。
 では、理想的君主としての黄帝の伝承はいつ頃、作られたのでしょうか。
 『春秋左氏伝』で、黄帝について書かれているのは二箇所しかありません。
 ひとつは、「僖公二十五年」。秦の穆公が王都から逃れていた周の襄王を出迎えに行こうとしているのを聞いた晋の狐偃(こ・えん。字は子犯または咎犯、臼犯)が晋の文公に自ら動くように進言し、占いを要請された卜偃(ぼく・えん。郭偃(かく・えん))の発言として「黄帝が阪泉の戦に遇った兆しが出ました」というものです。
 もうひとつは、「昭公十七年」。秋に郯の君主が魯を朝見したとき、叔孫昭子との会話で「黄帝には雲紀があったので、雲の名を持つ雲師を置き、炎帝には火紀があったので、火の名を持つ火師を置き」という内容が出てきます。
 しかしこれらは、当時のものとは限りません。『春秋公羊伝』や『春秋穀梁伝』にはこれらの記載はありません。『春秋左氏伝』は孔子と同時代の左丘明の作とされていますが、孔子の言動が『論語』のものと異なる点や、戦国時代の表現が使われているなど、そのすべてが春秋時代のものとは言えないというのはもはや定説です。上記のものは後世、挿入されたものでしょう。
 また、『史記』「秦本紀」で、戎王の使者として派遣された由余(ゆう・よ)が秦の穆公(『史記』では繆公)と初めて会談を行ったときに、「黄帝が礼楽法度を作って以来」という発言が出てきますが、これも『春秋左氏伝』には出てこない内容です。これを記した文献の根拠は不明ですが、やはり戦国時代以降に誰かが作り上げたものかも知れません。
 『春秋左氏伝』の経文は隠公元(紀元前七二二)年から哀公十六(紀元前四七九)年まで(伝聞は哀公二十七(紀元前四六八)年まで)の約二百四十年にわたる春秋時代の様相が描かれていますが、上記の二箇所以外では当時の人たちは誰一人として、黄帝という名を持ち出していないのです。
 同じく春秋時代の歴史書である『國語』では、「晋語四」と「魯語上」の二箇所にしか出てきません。
 戦国時代について書かれた『戦国策』でも、黄帝という名は「秦策」「秦一」「蘇秦始将連横」と「魏策」「魏二」「五國伐秦」の二箇所でしか見られません。
 ところが、『漢書』になると数えきれないほど出てきます。
 黄帝の伝承は戦国時代以降に作り上げられたものと見るべきでしょう。
 では、どこで作られたのか。それは斉の国であると思われます。
 戦国時代の斉の首都・臨淄(りんし)には十三の城門がありました。その西側にある門のひとつに「稷門」があり、その付近には大邸宅が立ち並んでいました。斉の国王は各地から様々な学者を招いてはそこに住まわせていたのです。彼らは「稷下の学士」と呼ばれることになります。たくさんの思想家たちは「諸子百家」と呼ばれ、彼らが喧々諤々の論争をする様子は「百家争鳴」と呼ばれます。これを始めたのは斉の威王であるとされています。斉王は集まった学士たちに多額の俸給をしても、官職などに付けて行動を縛るようなことは一切させず、自由な論争をさせ、学識を高めさせ、あるいは執筆に専念させたのです。これによって臨淄は学問の栄える場所となったのです。
 この時集まった学士には、老子の思想を受け継ぐ道家の者が多く見受けられます。
 日本では老子の思想といえば荘子の思想と合わせて「老荘」と併称されることが多いのですが、中国では老子の思想は黄帝から始まるとして「黄老」と呼ばれることが多いのです。
 威王の時代に作られた青銅器に、高祖は黄帝であるとの金文があります。稷下の学士のひとりである騶衍(すう・えん。『史記』では騶衍)は、黄帝は最古の人王としています。どうやら、斉の田氏は自らの先祖を探りたい、あるいは由緒ある先祖を創造したいと思い(ちなみに斉は太公望が封じられた国ですが、春秋末期に田氏に乗っ取られています)、道家の無為自然の発想と重なり合って生まれたのではなかろうかと思われます。
 
 黄帝は『史記』の記述にもある通り、橋山に葬られたとあります。
 橋山とは現在の小橋山、陝西省延安市黄陵県で、ここに黄帝陵があることから県名が名付けられています。廟は軒轅廟と名付けられ、黄帝陵の西に位置しています。
 漢の武帝がこの地で黄帝を祀ったのが始まりとして、歴代王朝で長く祀られてきました。二〇〇六年四月五日には清明節公祭軒轅黄帝典礼が開かれ、同年、黄帝陵祭典活動は第一批国家級非物質文化遺産に登録されています。黄帝陵そのものも、すでに第一批全国重点文物保護单位として登録されています。
 始祖たる黄帝は神話上の人物に過ぎないという見方もあるにせよ、中国人は炎黄(炎帝と黄帝)の子孫と称し、それらを各地で祀り、敬い続けているのです。
 
 

 

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 中国の文明は黄河から始まったとされています。いわゆる黄河文明です。
 人が生きていくためには、水と食料と空気とが必要です。世界四大文明がいずれも大きな川の周辺、平野部で起こったのは当然のことです。川の氾濫によってかえって土壌の栄養分が豊富になり、食物がより多く育つ環境を形成していくような場所に人が多く集まり、やがて発展を遂げ、文明を築き上げていくという流れはどこでもほぼ同じです。
 中国では黄河流域で文明が発展し、その影響が各地へ及んでいったという考えがありました。黄河周辺の、文明が盛んになった一帯は中原、中華、中夏などと呼ばれるようになります。中国という呼称も見受けられますが、これは現代の国名を表すものとは異なり、国の中、つまり国の中央部あるいは中心部という意味合いで、文明の中心地という考えです。春秋戦国時代に長江一帯を支配していた楚や、その周辺諸国が蛮夷、あるいは荊蛮と呼び表されたのは明らかに中原による蔑視によるものです。
 黄河文明はやがて、主に仰韶(ヤンシャオ、ぎょうしょう)文化や龍山(ロンシャン、りゅうざん)文化などの新石器時代を経て、やがて青銅器時代へとつながっていきます。
 仰韶文化は紀元前五千年頃の文化で、一九二一年、河南省澠池県仰韶村で遺跡が発見されたことから名付けられました。特徴のひとつが彩陶と呼ばれる色鮮やかで、美しい文様が描かれた陶器です。また、農業や牧畜もされていたようで、周辺には濠が造られ、集団社会が形成されていたことが伺いしれます。
 龍山文化は紀元前三千年頃の文化で、一九二八年、 山東省章丘市龍山鎮にある城子崖で遺跡が発見されたことから名付けられました。陶器はろくろを使った灰陶や黒陶で、仰韶のものよりも薄手であり、種類も豊富で、技術が格段に向上していることが伺えます。農業や牧畜も、その規模は大きくなり、手工業も発展する一方で、占卜も行われていることも分かっています。職能の分化が進み、原始的とはいえ階級が作られ始めていたようです。
 実はこれ以前の一九〇八年に、遼河上流の内モンゴル自治区赤峰市で遺跡が発見されており、紅山後遺跡の名から紅山文化とも呼ばれる遼河文化の存在が確認されていました。黄河の北東に当たり、時代は仰韶文化の頃に相当します。特徴としては、仰韶文化ほどの発展はないものの陶器は彩陶であり、農具に使われたと思われる石器が大量に発掘されたことから農業主体の文明だったと推測されています。
 一方、蛮地とされていた長江一帯でも、一九七三年と一九七八年に浙江省余姚市河姆渡遺跡が発見・発掘されたことにより、それまでの世界観が覆されることになりました。それ以降、様々な遺跡が見つかり、中には紀元前一万四千年頃と推定されるものも見つかっています。
 長江文明がいかなるものであったのか、詳しくはまだ解明しきれていません。まだ、発掘は開始されたばかりと考えるべきでしょう。ただ、北方と南方とで明らかに文化の進展だけでなく、風習や言語などが異質であることについて、南方では進んだ文化圏である北方の風習を受け入れるのが遅れている後進地域であったからだとするそれまでの見方は変化するものと思われます。ただ、それが分かるのは今後のことであって、『史記』や『春秋』などに登場するような過去に存在していた人たちはそれを知る由もありません。中原は進んだ地域、南方は遅れた地域とする発言が多く出てきますが、当時はその感覚が常識だったということを踏まえて読み進めることが必要となるかも知れませんね。
 
 黄帝は『史記』「五帝本紀」に登場する聖天子ですが、この称号は黄河から採ったものと見て間違いないでしょう。また中国の考えで、東西南北のそれぞれに色をあてはめ、そこを守る聖獣などを配置していますが、それらの中心にある色は黄色で、黄龍がその聖獣たちの王であり、中央を守る者としています。
 『史記』は「五帝本紀」から始まりますが、テキストによっては「三皇本紀」が載っているものもあります。これは司馬遷が書いたものではなく、『史記索隠』を著した唐の司馬貞が加筆したものです。
 「三皇本紀」に出てくるのは伏羲(ふっき、ふくぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)の三者です。
 これは明らかに神話の時代であり、歴史というより社会風俗や文学の世界に属すると思われ、また、想像上の存在ですので異説の創造も多く行われているので、大まかに触れておくだけに留めておきます。
 
 伏羲は、犠牲(いけにえ)を飼っていたことから伏犠、あるいは庖厨で料理をしたことから庖犠とも書かれます。姓は風。燧人氏に代わって王になったという話もあります。虵身人首、つまり蛇の身体に、人の頭を持つとされています。都を陳に置き、八卦(占いの一種)や書契(文字の一種)を造り、縄を結うことや、婚姻制度、漁業、牧畜などを始め、また二十五絃の瑟という楽器の発明者でもあります。春秋時代の小国である有任国、宿国、須句国、顓臾国などはすべて風姓で、伏羲の末ともされています。
 
 女媧は伏羲の妻とされ、虵身人首。この二柱の神が尾を絡めている図は多く出土しています。女希氏ともいいます。伏羲に代わって王となったとされていますが、「三皇本紀」では「何も改めることなく、ただ笙簧を造る」とあっさりしています。婚姻制度を作ったのは伏羲ではなく女媧とするものもあり、また、笙簧を造ったことから『隋書』や『宋書』には音楽の神として敬われたという記述もあります。
 『太平御覧』に引用されている、後漢時代に書かれたとされる『風俗通義』では、女媧はそれまで人間がいなかったので黄土を使って人間を造り始めたが、だんだん疲れてきたので縄を泥の中に入れて引っ張り上げてさらにたくさんの人間を造っていったとあり、最初のうちに造られた者が富貴の者となり、手を抜いて作ったたくさんの者たちが貧賤の者になったという話を載せています。人類創造の神となると、伏羲やそれ以前の燧人氏はどうなるかと思われがちですが、整合性の無さがまさに神話といえるでしょう。
 
 女媧の後を継いだのが、神農です。炎帝とも呼ばれ、姓は姜。母は女登で、有蟜氏の娘であったとしています。人身牛首で、木で耜(すき)を造り、農耕を教えたことから「神農」と呼ばれたとあります。蜡祭を始め、草木を打ち払い、百草を嘗めて薬を造ったともされています。薬草の神として、現在でも中国だけでなく日本や台湾などでも崇められています。日本では湯島聖堂の神農廟が有名です。また、大阪の少彦名神社は「神農さん」とも呼ばれ、十一月二十一日と二十二日には例大祭として「神農祭」が開かれています。
 
 三皇は、人間が他の動物と異なる生活体系を持つうえで必要最低限の知識を与えた存在として描かれています。
 また、人間と異なる姿であるのも、原生であるというより人間を超越した存在が、人間にその知恵や知識の一端を分け与えたと見做すものでしょう。その点では、他の国の神話を似た部分とも言えます。三者がいずれも、努力の上で創造をしている点に面白みを感じるかも知れません。万能の神が一方的に教えるのではなく、必要と思われることをひとつずつ、造り上げていって、それをみんなに分け与える。人の上に立つ者は、支配する者というより導く者であって欲しいと、理想像を掲げているように思われます。
 これは決して気のせいではなく、創作物語にも伺えます。『三国志演義』の劉備、『水滸伝』の宋江、『西遊記』の三蔵法師・玄奘、『封神演義』の武王・姫発などはみな、能力はいまいちで性格面でも頼りないのに、仁徳によって人々に慕われ、彼らの才能を十二分に発揮させることで理想へと導き、目的を達成する人物として描かれています。逆に『三国志演義』の曹操や『封神演義』の紂王などは最大の敵役ですが、無能どころかむしろ博学で行動的、性格面以外では申し分のない万能な完璧人物として描かれているのに、畏れられても尊敬されていないという扱いです。実在の人物はこのような一方的なものではなく、劉備や玄奘や姫発などは当時でも稀有の優秀な人物ですし、曹操も決して冷酷なだけでなく多くの人に慕われた優秀な指導者ですが、理想として求められているのはそこではないということです。
 求められているのは、教導者です。
 これを踏まえておくと、黄帝のこともよく分かります。三皇よりももっと具体的に、治世者としての姿が現れます。
 外征も行われていますが、何よりも盛徳であることが主張され、絶対的支配者というよりも、民衆を慰撫して国内の安泰に務める人物となっています。治世を築き上げる姿は、ただ知識を与えるだけの三皇とは明らかに異なっています。
 最初に述べたような古代文明は黄帝以降のもので、三皇はやはりただの伝説と見做すべきでしょう。司馬遷がこれを歴史から省いたのも頷けることです。
 では黄帝から歴史を語り始めて良いのかというと、それもまた信憑性の薄さ、創作色の強さがあって問答無用で賛成できるものでもありません。実際、周代からが歴史の始まりで、それ以前は伝説の域に留めるべきとする意見もあります。
 ただし、黄帝や堯、舜などの五帝の描かれ方によって、何を理想としたくてそのような人物を創造したのか、あるいは人物伝に脚色を加えたのかを知ることは、思想の根源を探るうえでとても重要なことであり、伝説だから信憑性もなく知る意義もないとは決して言えません。
 では黄帝とはどのような何者なのか。次回、語っていきます。
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