風の伝えるままに

読んだ本、見たニュースなどを、いろんなものにたとえながら。あるいは雑学ネタなど想うがままに。


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 『史記』の成立において、漢の武帝は避けて通ることのできない存在です。
 著者の司馬遷(しば・せん。字は子長)が『史記』に込めた思いの中に、武帝への憤りがひしひしと感じられるのは私だけではありません。多くの先人たちが指摘しています。
 さて、漢(西漢・前漢)の武帝は第七代皇帝で、名は徹。
 景帝の十番目の男子で、本来なら皇帝継承権こそあれど、皇帝に就任するなどほぼ不可能な位置にいました。
 景帝には当初、薄氏が皇后となってしました。しかしこれは政略結婚で、祖母の実家から迎えていた女性であり、愛情もほとんど無く、子も産まない状態だったので、祖母の死をきっかけに皇后を廃されます。長男・栄は皇太子となっていたのですが、その母である栗姫は気丈な振る舞いが多く、景帝も常々うんざりしていたため、皇后にすることをためらっていたのです。そこへ、景帝の姉・館陶公主が縁談を持ち掛けました。自身が陳家に嫁いで産んだ娘の嬌を皇太子妃にしてはどうか、と。しかし、栗姫はこれをあっさりと拒んでいます。これに腹を立てた館陶公主は、後宮でもそれほど目立たない王夫人に対し、嬌を夫人の息子の妻にしないかと働きかけます。王夫人にすればまさに天の恵みで、すぐに了承します。彼女の息子こそ、劉徹です。
 館陶公主の働きかけにより、皇太子・劉栄は廃され、劉徹が皇太子となり、王夫人が空席だった皇后の座に就くことになります。栗姫はヒステリーが昂じて憤死したようです。
 景帝が崩御し、徹が即位します。武帝という諱は死後に贈られたものですが、分かりやすいよう、これ以降は武帝と表記します。
 武帝の代は、国力が充実していた時代でした。これは、文帝と景帝による、「文景の治」と呼ばれる善政の賜物です。文帝の頃の表現として、食糧庫は都でも辺鄙な田舎ですら穀物で満ち溢れて収まりきらず、銅銭も満ち溢れて、緡が腐り落ちたなどとあります。緡とは、銅銭を大量に連ねるときに通す糸のことで、税金として集めた銅銭があまりにも多く、使わないままで放置されているうちに緡が腐ってしまったものがたくさんあるといういうこと。かつて文帝が露台を造ろうとしたところ、費用を計算させると百金になったと聞いて、「百金では中流家産十件分にもなる」と断ったという話が『史記』「孝文帝紀」にありますが、景帝の棺には豪華な副葬品が添えられるなど、「文景の治」の節制と富国策によってすでに武帝の時期には誰に憚ることなく潤沢な資産を使いたい放題の状態になっていたのです。

 武帝が行った内政として、ひとつには「推恩の令」があります。
 これは元朔二(前一二七) 年に主父偃の提案によって定められたもので、各地の王たちが、その領地を嫡子以外の子弟たちにも分割し、列侯として封じることを許可したものです。これによって封じられた侯たちは、郡の直轄下に入ることになります。それまでの郡国制では、劉氏一族が封じられた地域を国とし、それ以外の者が封じられた地域を郡とし、国は王の直轄で、郡は国の直轄となっていました。紀元前一五四年に起きた「呉楚七国の乱」は、その名の通り、呉王や楚王たちを始めとする七人の国王たちが起こした反乱で、それに懲りて、各国の力を弱めようと図ったものでしょう。表向きは国王たちが自分の子弟たちに土地と爵位を与えられるという恩恵に満ちた制度ですが、実際には各国の封地は減少し、やがて国王たちからは自治権も奪われ、税の徴収権のみが残る形となったのです。

 ちょっと余談。
 今、「推恩の令」を元朔二年と元号を添えたのに、「呉楚七国の乱」に元号を添えなかったのはなぜでしょう。
 答えは、文帝の時代にはまだ元号が存在しなかったからです。所説ありますが、紀元前一一六年に元号を創ろうということになり、宝鼎を得たことからこの年を「元鼎」と名付け、それ以前のものは「追命」として、武帝が即位した紀元前一四〇年を「建元」、以降六年ごとに区切って紀元前一三四年からを「元光」、紀元前一二八年からを「元朔」、紀元前一二二年からを「元狩」と、それぞれに元号を創って名付けたのです。

 内政のふたつめとしては、「郷挙里選」があります。これは各地の豪族たちが、能力があると思われるものを選び、中央へ推挙する制度です。特に、賢良方正、直諫の士を積極的に任用するよう、中央だけでなく各王にも通達しています。
 そして、儒学の官学化。
 それまでは黄老思想(老荘思想)が主流だったのですが、董仲舒(とう・ちゅうじょ)が『春秋』学、特に公羊学派としての学識の高さを見込まれ、五経博士が置かれ、それぞれの経学について専門知識を有する博士たちによる教授が可能となったのです。ただし、今述べたのは教科書的な一般的な解説であって、実際には武帝の代に彼は不遇を託っています。元より、彼を博士としたのは景帝であり、五経博士の始まりも景帝の代です。五経すべてが揃うのが武帝の代であったというわけで、その頃には董仲舒の弟子たちの時代になっています。景帝の代はまだ儒教が下火であり、武帝の代から儒教が官学となったので、董仲舒の功績についても少々時間的なずれが生じてしまったのでしょう。

 軍事及び外交における最大の悩みは匈奴対策です。
 漢は成立当初から匈奴に脅かされています。秦帝国が滅んだ後も、項羽(項籍)と劉邦を始めとする群雄たちが争っている間、匈奴には冒頓(ぼくとつ)単于という英傑が勢力範囲を広めていました(「単于(ぜんう)」は頭首の称号)。漢帝国を創建した劉邦でしたが、冒頓単于との戦いでは罠にかかり、白登山で大軍により包囲されてしまいます。この時は謀臣の陳平(ちん・ぺい)の策で事なきを得たものの、漢帝国は毎年、匈奴に対して進物を贈ることを約束させられたのです。
 この時に陳平が使った計略は、『史記』「匈奴列伝」には、「閼氏(あつし)に厚く贈り物をした」とだけあり、そのため、単于は兵を引いたとあります。閼氏というのは単于の妻の称号で、漢でいう皇后に当たります。白登山に残る民間伝承として、こんな話があります。
 閼氏への贈り物には、高価な金銀宝玉とともに、一枚の美人画があったので、閼氏は「これは誰か」と聞くと、使者は「これは中国第一の美女です。漢の皇帝陛下はとても困っており、和解したいと望んでおります。冒頓単于が兵を引いてくだされば、これらの財宝とともに、すぐに美女も送り届けましょう」と言ったところ、閼氏は「財宝は受け取りましょう。でも美人は不要です」と言い、嫉妬心を掻き立てられた閼氏は言葉巧みに単于を説き、単于は兵を引いたというものです。
 それはさておき、これ以降は匈奴に対して屈服した形となり、臣従とは言わないまでも、貢物を贈って顔色を窺うような状況でした。国内がまだ潤っていなかった文帝や景帝の時期はまだ、匈奴を怒らせないよう配慮していたのですが、武帝の時期にはもうその必要を感じられませんでした。
 ただし一度、匈奴を怒らせるような真似を起こしています。
 元光二(紀元前一四六)年、聶壱(じょう・いつ。あるいは聶翁壱ともいう)が、冒頓単于の孫に当たる軍臣単于に、働きかけをしました。彼は朝廷では交易禁止とされている、いわゆるご禁制の品々をこっそりと単于の元へ密輸し、信頼を勝ち取っていました。そしてある時、「馬邑の村は単于に心服しています。単于が兵を出したら、帰順します」と言って、出兵を要請するのです。
 実のところ、これは主戦派の王恢(おう・かい)が立てた策。聶壱に密輸をさせて単于の歓心を引き、馬邑が帰順したがっていると見せかけて単于自ら出兵してきたところへ、三十万の軍勢で包囲殲滅してしまおうというものでした。ところが、馬邑の様子に何やら不審を感じた軍臣単于は兵を引いてしまい、王恢が用意した軍勢は何もしないままに引き上げることになってしまったのです。
 損害が皆無であったものの、これを恥とした武帝は、王恢を死罪にしています。
 余談ですが、この聶壱の子孫は匈奴の恨みを恐れて姓を変え、幷州へ逃げたとされています。後漢末期、曹操に仕えてその猛将ぶりで知られた張遼(ちょう・りょう。あざなは文遠)は、その聶壱の末裔とされています。
 この状況悪化に対し、数年後に天恵がもたらされます。

 話は陳皇后に移ります。
 先に述べたように、陳皇后こと陳嬌は景帝の姉・館陶公主の娘であり、景帝の長男(及び次男、三男)を産んだ栗姫に対抗するため、王夫人にその子の妻として嫁がせたものです。武帝にとって政略結婚であり、愛情も沸かなかったようで、結婚から十年以上経っても子供ができませんでした。そこへ働きかけたのが、武帝の姉である平陽公主です。彼女は自分の家で謳者、いわば歌手奴隷として養っていた衛子夫(えい・しふ)を武帝の元へ送り込みます。それと入れ替わるかのように、陳皇后は「巫蠱」という呪いをかけたとして幽閉され、後に皇后を廃されます。巫蠱は当時、絶大な力を持つ呪術とされ、使用者は死罪でした。陳皇后が本当にそれを行ったのかどうかは分かりませんが、調査担当の張湯はこれを有罪とし、三百人もの関係者が処罰されていますが、さすがに伯母の子である陳皇后を殺すことはためらわれたのか、幽閉中でも皇后としての待遇で処せられていたようです。
 さて、新たに寵姫となった衛子夫には弟がいました。衛青(えい・せい)です。彼は僻地で牧羊を行っていたのですが、父親からは常に虐待を受けていたとされています。姉の縁で朝廷に引き取られ、騎馬と射撃の腕もあり、車騎将軍に任じられます。衛子夫の姉の子である霍去病(かく・きょへい)も抜擢され、やがて活躍して驃騎将軍に任じられることになります。この両者は軍事の天才でした。詳細は省きますが、他の将軍たちが外征で何度も敗北や失敗を起こしている一方で、彼らだけは連戦連勝の快進撃を繰り返しています。衛青は大司馬、大将軍にまで出世し、長平侯に封じられます。霍去病はわずか二十四歳で夭折するものの、匈奴はかつての冒頓単于の頃の隆盛を取り戻すことが出来ず、匈奴と漢との力関係は逆転しました。
 また、大月氏との同盟を図るために張騫(ちょう・けん)を送り込むも、これは失敗。ただし、張騫は十年以上も拘留されるなどの苦難を乗り越えて帰国したとき、それまでほとんど情報のなかった西域の情勢を持ち帰ったことで、漢は西域攻略の大きな手掛かりをつかむことが出来るようになったのです。

 そして元封元(紀元前一一〇)年、封禅の儀を執り行います。
 これは聖天子が天を祀る「封」を行い、地を祀る「禅」の儀式を行うというものです。「封」は泰山で行いますが、「禅」は特に場所が決まっているわけではないようで、武帝の場合は粛然山で行われています。伝説上の三皇五帝が行ったとされているもので、実際に初めて行ったのは秦の始皇帝です。秦の二世皇帝も行っていますが、漢代になってからは彼が初めてです。
 これにより武帝は、天からその統治を認められた存在となりました。絶頂の極みです。

 ところで、『易経』の「乾為天」「上九」は「亢龍有悔、盈不可久也」とあります。
 亢龍、すなわち上り詰めた龍には悔いがあるというものです。なぜなら盈、つまり満ち足りた状態というのは永久ではないからです。
 限界まで上り詰めてしまったら、後は墜ちるだけです。
 
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 かつては、猫が嫌いでした。
 鋭い目つき。他者を拒絶するかのような唸り声に、ヒステリックにすら聞こえる鳴き声。爪を立てて研ぐ仕草。近づこうとすると却って身を翻す警戒心の高さと、それとは裏腹に興味ありげにこちらを伺う視線。走るのは怖気。
 それに比べて、犬のなんと賢いこと。
 敵対する者には吠え掛かるが、それは主人への忠誠心によるもの。顔見知りになれば、むしろ尻尾を振って近づいてくる愛嬌の良さ。番犬という言葉はあっても、番猫という言葉はない。もし家に泥棒が入ってきたら、番犬は唸り、吠え掛かるかも知れないが、番猫など置いたところで、警戒して距離を置いても見ているだけに過ぎないかも。犬は芸達者で、「お手、待て、かかれ」など人の言うことに素直に聞くが、猫は何もしない。むしろ、しない。猫はなんと高慢なことか。
 愛犬家が猫を嫌う理由とは、こんなところでしょう。
 それがどこで一変したのか、今は逆に、犬を嫌い、猫を好む。
 猫の鋭い目つきや、唸り声、警戒心は相手を観察するため。鳴き声なんて、人間が勝手に考えているだけ。犬は芸達者というが主人に媚びているだけかも知れない。猫は高慢というより高尚で、「人間に命令される謂われなど、ないぞ。そんな簡単に媚びると思うな」と、目の前にいる人間がどのような者なのかを判定しているだけのかも知れない。随分と、猫にとって都合のよい解釈ですが、好き嫌いの理由など、ほとんど一方的な思い込みなのかも知れません。
 好きになれば、理由をあれこれ考えついたとしても「好きだから、仕方ないじゃない」ということになるし、嫌いになれば、これまた理由をいろいろと思いついたとしても「どうしても嫌い」の一言を発せられたら、他者はどうにも対処しきれなくなります。
 「だめんずうぉーかー」という言葉は流行ったことがあります。これは漫画『だめんずうぉーかー』(倉田真由美。扶桑社)からの言葉で、人間的に社会的に観て価値の低い、駄目な男性ばかりに何故か惹かれ、尽くしてしまうような女性のこと。「だめんず(駄目なメンズ)」にどんなにひどい目に遭わされても、むしろ嬉々として愛してしまう女性が、意外にも世の中に多いことが判明したとも言えます。
 しかし、これは心理学からすれば、さほど異常な現象ではないようです。普通の女性からは相手にされないような駄目な男性だからこそ、「私がいないとダメなんだ」と同情し、あるいは「私以外の誰も、彼のことを本当に理解できる人はいないんだ」と自分こそが唯一の理解者であると錯覚し、博愛精神を呼び起こしてしまう。母性愛と情愛の混乱とも言えます。生物的な本能でもあり、だからこそ根深く、理性を超えたものになってしまうのでしょう。他人があれこれと口出ししても、その進言者の思うように物事が運ぶとは限らないものです。
 だめんずとはまた違う、理性を超えた愛情を思うとき、増田宗太郎と豫譲の話を思い出します。
 そして、世の中には理性で測れない、損得計算から縁の遠い感覚が存在することも知らされます。

 増田宗太郎は江戸幕府末期、いわゆる幕末の人。父が福澤百助の妻のいとこ。百助は福澤諭吉の父なので、系図では再従兄弟(またいとこ)であり、家もすぐ近く。慶應義塾で学んだあと、故郷の中津へ戻って教鞭を取る一方、自由民権や主権在民を掲げた「田舎新聞」が刊行された際にはその編集長となっています。西郷吉之介(隆盛という名は誤りという説がある)が西南戦争を起こしたとき、中津隊を結成してこれに参戦。奮戦虚しく、隊を解散させることにしたとき、隊長はどうするのかと隊員から聞かれて答えとされるのが、
「吾、此処ここに来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」
 三日の部分が十日となっている伝承もありますが、これほど愛情が理性を無視することを的確に表現したものも、なかなかないでしょう。理性でいえば、もはや敗色は濃厚で、義理も十分に果たしたのだからここで離脱しても他者から文句を言われる筋合いなどないと胸を張っても構わないところ、ここでもう一緒に死ぬという。「親愛日に加はり」も大事ですが「善も悪も」すでに関係ないと割り切っているところに、澄み切った心が伺いしれます。

 豫譲は中国の春秋時代末期の人。大国・晋は晩期になると六卿と呼ばれる六つの家の大臣が実質的に政権を掌握している状態でした。豫譲はそのひとつである范氏(士氏)に当初は仕えるも厚遇されずにやがて去り、次いで中行氏に仕えるも厚遇されずに去り、最後に智氏の元へ行くと当主の智伯(智瑶)から国士として優遇されます。しかしその智伯が趙襄子(趙無恤)に敗れて死ぬと、山へ逃げ、智伯の頭蓋骨が酒盃にされたと知ると、復讐を誓います。
「ああ、士は己を知る者のために死に、女を己を悦ぶ者のために容貌を作る。今、智伯は私を知る。私は必ずや死をもって復讐を遂げ、魂に恥じないようにしよう」
 後に自らの忠誠心を訴えるときに使われる言葉として使われ、「知己」という言葉の元となります。
 名前を変え、左官に化けて趙の都市・晋陽に潜り込むと、厠の掃除人として仕えるふりをしながらその隙を伺います。しかし挙動不審のため逮捕されるも、その忠誠心を知った趙襄子に釈放されます。しかし豫譲は今度は顔の皮を削ぎ、全身に漆を塗って肌をぼろぼろにし、炭を呑んで喉を潰し、乞食に身をやつすのです。たまたま、街中ですれ違った妻も彼に気付かなかったのですが、慧眼の友に見つかって諭されます。
「君ほどの才能であれば趙襄子に召し抱えられるだろう。そうすれば目的も容易く達成できるではないか。何故、遠回りなことをする」
「それでは初めから二心を抱いて仕えることになる。そんなことは出来ない。確かに私のやり方では目的を果たすことは難しい。しかし、私の自分自身の生き方を、後世への戒めとするのだ」
 豫譲は死人のふりをして、趙襄子が通りかかる橋の下に潜むも、趙襄子の馬が突然怯えたため、それを怪しんだ趙襄子によって捕らわれの身となります。
「お前は今までに范氏、中行氏に仕えていたな。その両氏とも智伯に滅ぼされたのにその讎を討たなかった。ところが智伯が死ぬと、単独であっても智伯の讎を討とうとするのか」
「私は范氏、中行氏に仕えていましたが、その他大勢という扱いでした。だから、それなりに報いました。しかし智伯は私を国士として優遇してくれたので、国士として報いるまでです」
「ああ、豫君。あなたが智伯のためにしたことで、すでに名を成し遂げた。私はこれまであなたを十分に赦してきた。再び(赦す)というわけにはいかない」
「『明主は人の美を隠すことなく、忠臣は名の義に死ぬことを有す』という。あなたがかつて私を寛大に赦したことで、天下ではあなたの聖賢を褒め称えています。今日のことで、私は誅に伏しましょう。請い願うことが出来るのならば、あなたの衣服を戴いてこれを撃ち、讎を報じたいのです。そうなれば、死んでも恨みません。敢えて望むところではありませんが、心からの言葉です」
 趙襄子は大義であるとし、使いの者に豫譲へ服を渡させると、豫譲は剣を抜いて三度跳躍しながら、これを撃つ。
「智伯に報いることができた」
 そういって、剣で自殺します。その死んだ日、趙の国の志士たちはこれを聞いて、みな涙したとあります。
 『史記』の中でも人気の高い「刺客列伝」にある有名な話です。
 豫譲の言う通り、後に前漢の劉向の『説宛』や、後漢の王充の『論衡』などでもこの話は採り上げられています。

 犬は恩を忘れないから厚情で、猫は恩を忘れるので薄情だという人がいる。
 相手からの見返りを求めているのだろうか。
 「私のどこが好きなのか」と聞かれ、可愛いからとか美人だからとか、逞しいからとか優しいから、頭がいいからとかスポーツが出来るからなどと答えるのは、まだ理性のうち。
 理性を超えた答えは「好きになってしまったのだから、どうしようもない」。
 増田は西郷とはほとんど面識がなく、おそらく隊長として接したに過ぎないであろう。それでも西郷のために殉じた。智伯は家柄と才能の高さを鼻にかけた男で、主君を国外へ追いやり、他の卿たちを見下すような傲岸不遜な人物だった。殺されたのも他の卿を侮ったがゆえの自業自得だった。それでも豫譲は、そんな智伯を見限ることなく、その恩を忘れることなく、その讎を討とうとした。
 理性を超える愛情というのは、時に美しく、時に切ない。

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 いろはにほへと ちりぬるを
 わかよたれそ つねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆめみし ゑひもせす

 色はにほへど 散りぬるを
 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず

 いろは四十七文字をすべて一度ずつ使い、重複させることなく、七五調の歌に仕上げたものです。
 四十七文字を書き、覚えるうえで役立つため、初等教育での手本としても使われています。
 成立については一切不明で、内容についても実は定説がありません。
 空海によるものとする説もありますが、まず間違いなく、空海の作ではありません。

 「ゑ」と「ゐ」はわ行の文字ですが、現在ではあ行の「い」と「え」で表記されています。この二文字は元々は意味も発音もあ行のものとは全く異なる文字なのですが、現代日本ではすでに使われなくなった発音法によって発せられていたらしく、現代人では正確には発音できないため、文科省ではあ行の文字を正式に採用しています。
 や行の「い」や、わ行の「う」に該当する文字も存在していたのですが、こちらは用途も発音もそれぞれがあ行の「い」やあ行の「う」と全く同じであり、表示上は存在していても実用化されずに消滅しています。
 現代ではや行の四文字目にあ行の「え」が入っている箇所には、実は「𛀁 」という文字が該当していたのですが、仮名の誕生当初は別扱いにされていたものが次第に混同され、十世紀には区別がつかなくなっていたようです。
 これを踏まえて、いろは歌をもう一度眺めてみましょう。
 「ゐ」は第三句の二文字目、「ゑ」は第四句の八文字目にありますね。しかし、「𛀁 」はありません。
 「𛀁 」が区別されなくなったのは十世紀と書きました。空海はいつの人でしょう。生まれは宝亀  五(七七四)年、入定は承和二(八三五)年。すなわち、八世紀の人です。実際、空海が書いた文章の中に「𛀁 」の文字があるので、もし空海がこの歌を創ったのであれば、この文字を外すはずがありません。逆に、あ行の「え」がこの歌に存在しておらず、あ行「え」とわ行「ゑ」の混同が見受けられます。出来上がりとしては不完全です。さらにいえば、この歌は七五調のいわゆる「今様」であり、その当時であればそれ以前によく使われていた五七調で詠まれるはずなのです。
 空海作とされたのは、四十七文字を巧みに使って歌に仕上げていることと、一見すると「散りぬる」や「常ならむ」、「浅き夢」など無常観を誘う言葉が使われており、真言宗の学僧の間でこの歌が持てはやされたこともあり、開祖たる空海のものであろうということになったのです。

 歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は、赤穂事件を題材とした作品です。
 元禄14年3月14日(新暦:1701年4月21日) 、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に殿中で刃傷に及んだことから切腹を申し付けられ、播磨赤穂藩は改易。その2年後の元禄15年12月15日(新暦:1703年1月31日)に、筆頭家老の大石内蔵助義雄以下四十七名の播磨赤穂藩の浪士たちが吉良邸を襲って仇討ちを行った事件です。
 この題名の由来は、浪士たちの数が四十七人で、それがいろは四十七文字の仮名手本と同じであることと、主君への忠義のために身をやつしてもその意志を貫いたことを武士道の手本とせよという意味を込め、「仮名手本」となったのでしょう。また、この当時は政治批判を行うような作品、いわば「お上を批判する」ような作品が発禁処分となることが多く行われています。赤穂事件も、浪士たちの忠節を称えながらも、浅野と吉良に対する処分の格差が問題であると、お上を批判しているとも受け取られかねません。そこでこの作品では浅野を塩冶判官高定、吉良を高師直とし、鎌倉時代初頭に起こった事件を題材にした空想上の作品という名目にしています。大石も大星由良助義金という名で登場します。でもそれだけでは作者(群)も面白くないと考えたのか、これは赤穂事件を題材にしたものであると暗に知らしめる行いをしています。ひとつが、大星の妻を「お石」としたこと。もうひとつが題名に「蔵」と入れたこと。これにより、観客は「大星は、大『石』内『蔵』助のことだな」と、ささやき合うという仕掛け。

 余談ですが、先のいろは歌を七文字目で区切るようにすると、
 いろはにほへと
 ちりぬるをわか
 よたれそつねな
 らむうゐのおく
 やまけふこえて
 あさきゆめみし
 ゑひもせす
 となり、これの末尾を追うと「とかなくてしす」。「咎無くて死す」であり、無実の罪で死んだことを知らしめるものを題名に込めたする説もありますが、これはいただけません。浅野は殿中での抜刀、および刃傷なので切腹を申し付けられるのも当然のこと。また大石たちも勝手に仇討ちを行ったので有罪です。時代劇で仇討ちの話が多く、「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉もあるので当然に認められた権利と思われがちですが、実は勝手に行ってはいけないものだったのです。江戸時代において仇討ちを行うには、基本的に親族の場合に限られ(一部例外あり)、武士であれば主君からの免状を必要とし、国を越えたければ奉行所への届け出が必要だったのです。武士階級以外の者で、無許可で仇討ちを果たして絶賛されたという例もありますが、これはごく稀なこと。「入り鉄砲に出女」と呼ばれる、厳しい関所を無許可で通れるはずもないでしょう。
 大石たちの行為は誰の許可も得ず、そもそも許可を得たくとも改易により浪士になったのですからその方法も存在せず、一方的な忠義心だけで勝手に行ったものです。それに、仇討ちとは基本的に、親などが殺された場合に子供がその仕返しとして行うもので、主君のためであればその遺児を担ぎ出さなければなりません。浅野には跡継ぎがいなかったので、改易時に跡継ぎとして推した弟の長廣(これは却下されます)を担ぐべきなのに、それは避けています。むしろ浅野家に迷惑が及ばないよう気を遣っているほど。当時や後世においても、これをただの復讐と位置付ける意見があるのは、そのためです。少なくとも浪士たちは抑えきれない義侠心からの行動であり、本来なら斬首刑に処せられてもおかしくないところを、武士の面目を保つ切腹に処せられたのですから、無念ではなくむしろ達成感に包まれて果てていったと思われます。無念と断ずるのかかえって、彼らに失礼でしょう。

 いろは歌を創ったのは果たして誰なのでしょうか。
 植物学者の牧野富太郎は、二千五百種類以上もの命名を行い、六百種類以上の新種を発見していることから「日本植物学の父」と呼ばれた人物です。ある作家が書いた「名もなき花」という言葉を目にした彼は「知らないだけで花にはみな名前がある。『名も知らぬ花』というべきだ」というような趣旨のことを述べたといいます。
 昭和天皇の侍従長だった入江相政は、天皇が御在所に戻られた際、戦後間も無く人数が確保できなかったために広芝(庭)の掃除が間に合わず、「真に恐れ入りますが、雑草が生い茂っておりまして随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致しますから」と謝罪したところ、天皇は「何を言っているんですか。雑草という草はないんですよ。どの草にも名前はあるんです。どの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」と応えたという。(『宮中侍従物語』。著:入江相政。ティビーエス・ブリタニカ
 牧野は小学校を二年で中退した雑草であり、名も知らぬ花であったのが、二十代中盤で才能を開花させたことで後世に名だたる学界の権威になるとは、当時は誰が思ったことでしょう。
 いろは歌も、これは天才である空海にしかできないことで凡人では不可能だというのは後世の一方的な評定で、名も知らぬ花とて芳香を放つこともあるのです。
 いろは歌を創ったのは誰なのか。
 誰だって良いではありませんか。
 それを美しいと感じるならば。
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