鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。


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 堯や舜は本当に聖天子だったのか。
 そのように異議を唱える偽古派の意見は多く残されています。
 
 唐代の劉知幾(りゅう・ちき。あざなは子玄)は『史通』でそれまでの歴史書を徹底研究し、批評を加えていった人物です。
 彼は「擬古篇」において、『汲冢瑣語』を引くとして「昔、堯の徳が衰え、そのために舜に囚われれることとなった、とある」とし、『汲冢書』の中に「舜は堯を平陽に放逐した、とある」とも書いています。同じく「雜說篇」でも『汲冢瑣語』を引くとして「舜は堯を平陽に放逐し、書にはその地に城があり、識者は囚堯と号した。異説ではあるが、受禅はすこぶる疑わしい」と述べています。ちなみに、ここで述べている「書には」というのは『水経注』のことです。
 
 舜を偉人としたのは孟子こと孟軻(もう・か。あざなは子輿)であるとするのは、孟子が舜を孝子の鑑とみなしているからで、儒学で孝行の大切さを述べるのに都合が良かったからでしょう。
 『書経』といえば、孔子が著した「書」と題する書物のことです。「書」は一般名詞で、同じ題名のものは無数に存在するのですが、その中で最もたっとぶものであるとして『尚書』と呼ばれ、経典として扱われるようになって『書経』と呼ばれるようになりました。それらは余談ですが、この『書経』の中にある「堯典」と「舜典」について、現代では偽作、すなわち後代になってから別人によって書かれたものが挿入されたものであると、すでに結論付けられています。孔子の時代には、まだ堯や舜の話は存在していなかったという意見は、すでに大勢を占めています。
 
 他にも調べてみると、堯と舜についての記述の少なさに驚かされるほどです。
 孔子の言行録である『論語』で、堯が出てくるのは最後の「堯曰第二十」だけで、しかも堯が舜へ、舜が禹へ位を譲る話を地文として載せるのみで、子張からの問いかけに対する孔子の返答の中では堯も舜も出てきません。舜については「泰伯第八」に二箇所と、「衛霊公第十五」に一箇所のみです。しかも、舜について特に言及するわけでない簡素なもので、これらは戦国時代になって後世の誰かが挿入したものではないかと推察されます。『論語』は孔子ではなく、その弟子筋の誰かが書いたものなので、先進(初期の弟子たち)から後進(弟子たちの、さらに弟子たち)へ孔子の教えが伝承されるうちにこのような話が紛れ込んでしまったのでしょう。
 『國語』や『春秋左氏伝』においても、それぞれ五、六箇所ほど散見されるのみです。『春秋左氏伝』においては伝文のみで経文にない内容のものも多く、信頼性の薄い記事も見受けられるため、一概に信用できるとは言い切れないのが弱点です。
 『春秋公羊伝』を紐解くと、最後の「哀公十四年」の末尾に「君主は堯舜の道を楽しむ」とあります。ところが、堯や舜について書かれているのはこの一文のみです。しかも、『春秋』の中で、君主として理想的とされているのはむしろ周の文王です。先に挙げたように、舜を持ち出したのは孟子です。孟子と公羊伝の伝文には記述や思想に似通った部分があり、深い関わりがあるのではないかというのは以前から言われていることで、この一文はまさに、孟子あるいはその思想を受け継ぐ者による挿入である可能性は否定できません。
 また、『山海経』では堯の子の丹朱を「帝丹朱」を記しており、これも禅譲を否定する材料となっています。
 禅譲を疑う意見でも過激なものについては、『荀子』「正論」では「堯や舜が禅譲を受けたなどというのは虚言である。浅薄な者の伝承、ろくに話もできない者の説である」と辛辣ですし、『韓非子』「説疑」では、「舜は堯に(位を譲ることを)迫り、禹は舜に迫った。(商の)湯は(夏の)桀を放逐し、(周の)武王は(商の)紂を伐った。この四人は、人臣でありながらその主君を弑した」と断じています。
 
 これらを総合してみると、堯や舜の聖天子としての偉業は疑ってかかるべきかも知れません。
 1993年に中国湖北省荊門市で見つかった郭店一号楚墓から、堯や舜に関する書簡が見つかったという話題もありました。しかし、これは紀元前三世紀頃のものとされ、時代区分では戦国時代です。春秋時代以前ならまだしも戦国時代ではすでに五帝の伝聞は広まりを見せていると察するべきで、大発見というものでもないでしょう。
 しかし、これらの意見には共通点もあります。それは、聖天子であることを否定していても、その存在まで否定しているものがほとんど無いことです。
 三皇については、その異様な姿や曖昧な実績から、非実在とする意見のほうが主流です。黄帝の存在も、日本では疑わしいというのが主流ですが、中国では実在のものと見做され、黄帝陵も軒轅廟もあります。劉知幾は堯や舜の、あくまでも聖天子としての伝承を否定するのみです。
 だからといって、聖天子ではないかも知れないが統治者としての堯や舜が確実に存在していた証拠とはならないのは承知の上ですが、その名前を有する人物に関する伝承が複数あること、司馬遷も指摘しているように各地にその伝承があることを踏まえれば、次のような考え方も出来るのではないでしょうか。ほとんどの人たちは堯や舜のことを聞いたとしても見ることなど出来るはずもなく、しかし恩恵に浴したことで、中央にいる聖天子を想像したのではないか。それに関する神話は、中央から各地へ広めたというよりは、各地の伝承がまとめられ、時代を経て神話体系になっていったのではないか、と。中国という土地は広く、さまざまな民族がひしめいている土地でもあるので、中央から各地へ情報、まして伝承を広めるのは容易いことではありません。商(殷)や周のような連合国家の首長とみれば、黄帝や堯、舜などを首長として従属する地方政権が、各地で五帝を称えるような言動を行ったとしても不思議ではありません。
 そう考えると、舜が蒼梧で死去し、零陵の九疑山に葬られたという話も考えが深まります。これは、中原から遠く離れた南方の地で、巡幸としても遠すぎるうえ、なぜ僻地で葬られたのか、不思議な話です。そのため、これこそが舜が禹に禅譲したのではなく、簒奪された証拠であるとし、追放されたのだとする擬古派の意見に繋がっていきます。しかし、南方の人たちが舜の治世に憧れ、「実は帝舜はこの地を訪れていた。陵墓もある」という、付会ともいえるし、本当にそのような辺境にまで支配力があったか疑問視されるところではありますが、「この地にまで影響があったことにしたい」とする、中央にとっても南方にとっても都合の良い話として創造された可能性もあります。
 また、劉知幾より以降、古史に疑いを抱く方向性になったかといえば、そうとも言い切れません。むしろ、科挙の強化によって儒学が唯一の国学のような立場となり、旧態依然を好むようになったためか、堯や舜はむしろ称えられることはあっても否定されるのは主流とは言えないように思われます。北宋の梅堯臣や民の汪舜民などの名前に堯舜の文字が入っているのは、堯舜の治世に憧れて名付けたと思われ、他にも名前やあざなに堯や舜の文字を付けた人も史上に数えきれないほどいます。司馬遷が「長老たちが往々にして黄帝や、堯、舜のことを語ることがあったが、風紀はしっかりしており、いにしえの文飾からさほど離れてはいないのであろう」と述べたように、聖天子の時代を信じ、争い事を嫌い、人々のために尽くすのはとても良いことでしょう。
 民国になって、康有為(こう・ゆうい。あざなは広厦)が西洋の思想を受けて古史に疑義を申し出て、胡適(こ・てき。あざなは適之)がアメリカ留学後に帰国して北京大学で講義を行ってから、本格的な擬古の活動が始まったとも言えます。古史の講義といえば三皇五帝から始めるものであるのに、胡適は商(殷)代までを無視して周の宣王から始めたことに、当時学生として講義を受けた顧頡剛が「満堂を驚かせた」と述べているほどです。
 絶対視して批判を許さないのではいけないのであって、たとえ夢想じみた理想であるとしてもそれに憧れることは、世の汚濁に甘んじて悪行を恥と思わないよりはましでしょう。後世、家臣が皇帝などに対し「堯舜の治世を見習いなさい」と言って秩序を促したり、「表向きだけ名君ぶっても、堯舜にはなれない」ときつく諫めるような例は多々あります。あくまでも「こうあるべき」という姿と割り切れば、否定するのはかえって野暮なのかも知れませんね。
 
 ともあれ五帝の、神の時代は終わり、人間の時代が始まります。
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 虞舜は名を重華という。父は瞽叟(こそう)といい、瞽叟の父は橋牛(きょうぎゅう)といい、橋牛の父は句望(こうぼう)といい、句望の父は敬康(けいこう)といい、敬康の父は窮蝉(きゅうせん)といい、窮蝉の父は帝顓頊(せんぎょく)といい、顓頊の父は昌意(しょうい)という。
 舜に至るまで七世、窮蝉から舜までの威讎は、みな庶民であった。
 舜の父は瞽叟で、目が見えず、舜の母が死んでから後妻を迎えて象(しょう)が生まれた。象は傲慢で、瞽叟は後妻の子を愛し、いつも舜を殺そうとしていた。舜はこれを回避し、少しでも過ちがあれば、罪を受けた。父や継母、弟に対して従順で、毎日を篤実、謹厳に過ごし、懈怠することはなかった。
 舜は冀州の人である。歴山で農耕をし、雷澤で漁をし、河濱で陶器を焼き、壽丘で什器を造り、負夏で仕事に就いた。
 舜の父の瞽叟は頑迷で、母は口うるさく、弟の象は傲慢で、みな舜を殺そうとしていた。舜は従順で適切な態度で、子としての道義を失わなかった。孝行者で、弟にも慈愛を示したので、(彼らは)殺したくても、その機会を得られなかった。呼び出せば、常に傍に行った。
 
 『史記』「五帝本紀」の舜に関する記述の出だしです。
 この後、堯から二人の娘を賜り、試練を受けて認められる内容は堯の項とほぼ同じです。
 付記として、舜が各地を渡り歩いていたときに、どこもかしこもうまく治まったとあるのは奇異です。何故なら、彼は統治者として赴いたわけではなく、ただ農耕などをしていただけです。徳治の体現、感化されたということでしょうか。いささか、うまく行きすぎている感は否めません。
 ちなみに、父の名が瞽叟とありますが、瞽とは目が見えないこと、叟とは老翁のことを表しており、実名とは思われません。

 舜が堯から絺衣(ちい)と琴を賜り、倉庫を造って、牛と羊も戴いた後のこと。父は舜を倉庫の壁塗りを命じておいて、倉庫に火をかけたところ、舜は二つの笠を手にしてうまく下りることができたとあります。次いで、父は井戸掘りを命じ、舜がそれを始めると、弟の象と共に土を落として穴を埋めてしまうのです。これで舜が死んだと思った象は、舜の二人の妻と琴を自らのものに、父母に残りの財産を分け、意気揚々と琴を鳴らしていると、死んだはずの舜が現れたので愕然としながらも「心配で欝々としてました」と、しかし悦ぶ様子も見せずに言うと、舜は「そう言ってくれると思ったよ」と答えます。実は、舜は井戸掘りの最中に横穴も作っていて、穴が上から埋められても、横穴から無事に脱出できたというわけ。そこまでされても、舜は父や弟のために働いたとあります。
 後世、このような態度こそが人として理想とされたことを念頭に置けば、『二十四孝』のような孝行物語を読む上で理解が早まると思います。

 舜はさらに、八愷と呼ばれる高陽氏の八人の子たちと、八元と呼ばれる高辛氏の八人の子たちが、優れた人物であるのになぜか堯に推挙されていなかったのを登用しています。
 また、禹(う)、皐陶(こうよう)、契(せつ)、后稷(こうしょく)、伯夷(はくい)、夔(き)、龍(りょう)、倕(すい)、益(えき)、彭祖(ほうそ)といった優れた人物を挙用しています。
 逆に、帝鴻氏の子である渾沌(こんとん)、少皞氏の子である窮奇(きゅうき)、顓頊氏の子である檮杌(とうこつ)、縉雲氏の子である饕餮(とうてつ)らはいずれも凶悪な人物で、この「四凶」を地方に流したとあります。
 この後は、登用した人たちを役職に就け、各地に派遣し、よく治めた様子が描かれていますが、省略します。堯の時と同様、すべてうまく行ったとあって、聖天子たる偉業を褒め称える内容であっても苦労の影があまり見受けられず、妨害や混乱もなく、現実味を感じられません。
 ただし、次の時代に続くことになる文章は訳しておきます。
 
 (諸臣たちの中で)ただ、禹の功を大とした。
 (舜は)九山を披(ひら)き、九沢を通じ、九河を決し、九州を定めた。おのおのがその職責をもって来貢し、適切さを失わなかった。五千里四方、荒廃した地域に至るまでもが服し、南は交阯・北発、西は戎・析枝・渠廋・氐羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷を慰撫し、四海の内にある者はみな、帝舜の功徳を戴いた。
 ここにおいて禹は「九招の楽」を興し、珍奇な物資を呼び集め、鳳凰がやってきて飛翔した。天下の徳を明らかにするのはみな、虞帝から始まった。
 舜は、二十歳には孝行者として知られるようになり、三十歳で堯に推挙され、五十歳で天子の事務を摂行した。
 五十八歳の時に堯が崩御した。六十一歳の時に、堯に代わって帝位に践阼した。践阼して三十九年、南に巡狩して、蒼梧の地で崩御した。江南の九疑山に葬られた。これが零陵である。
 舜は帝位を践阼すると、天子の旗を(車に)載せ、(実家に)赴いて父の瞽叟に会った。(父は)恐れおののき、謹んで、まるで子供が(親に)接するような態度を取った。(舜は)弟の象を封じて諸侯とした。
 舜の子の商均もまた不肖の子で、あらかじめ禹を天子に推薦していた。十七年目に崩御して、三年の喪も終わったとき、禹もまた舜の子に譲ろうとしたのは、舜が堯の子に譲ろうとしたのと同様であった。諸侯は(禹に)帰属したので、禹は天子の位を践阼した。堯の子である丹朱と、舜の子である商均には土地を与え、先祖の祀りを行わせた。(彼らは)服装を元(の帝の一族のもの)に戻し、礼・楽も同様とし、賓客の礼をもって天子にまみえた。天子は(彼らを)臣下として扱わず、自分だけで(帝位を)独占していないことを示した。
黄帝から舜、禹に至るまで、みな同姓である。しかしその国号を別々にすることで、明徳を明らかにした。黄帝を有熊とし、帝顓頊を高陽とし、帝嚳を高辛とし、帝堯を陶唐とし、帝舜を有虞とし、帝禹を夏后としたのである。
 氏を分け、姓を姒氏とした。(その後は)契は商を立てて、姓は子氏とした。弃は周を立てて、姓は姫氏とした。
 
 舜がかつて堯から禅譲されたように、舜の子も不肖だったので有徳者である禹に禅譲しようとし、禹もまた舜が行ったようにその子に譲り返そうとしたのに、諸臣や諸侯などがみな自分のところへ来たのでやむなく践祚したというものです。この二度の、歴史上においてたった二度だけ行われた真の「禅譲」が、後世の理想となりました。
 悪逆の者を討つという「放伐」に比べて、「禅譲」には便利な点があります。放伐であれば、相手が暴戻あるいは暗愚であるという理由付けが必要になります。名君や英傑を討ったのではただの反逆になってしまい、大義名分が立ちません。禅譲であれば、相手が名君であればその名声によって、暴君や暗愚や惰弱の君であればその悪名によって、禅譲を受けた者はそれらに勝る有徳の持ち主であるということになるからです。これ以降に行われる名目だけの禅譲においては、それを受ける側は自らは有徳者であることを謳い、前任者から請われたのでやむなく践祚するという意思表示を示し、簒奪であることを誤魔化すために行われるものになってしまいます。
 堯と舜の記述を通して、各地の伝承も形成されたと言えます。四夷の存在、各地の伝承、四凶の追放などなど。中原の範囲を越えて、戎や羌などの異民族たちが含まれている点にも注目すべきかも知れません。これら異民族とは後々まで戦うことになるのですが、一方で、彼らが服属してきたときには治世の証、名君の誉という表現が為されています。扱いづらい存在であるものの、それらとどう向き合って、どのような外交政策を行ったのか、王朝の歴史を勉強・研究するうえでこの点にも配慮すべきです。
 ともあれ、神話の時代は終わりました。時代の禹は比較的、人間性を以って語られていきます。
 その前に、五帝に対して疑いの目を向ける擬古派の意見を次回、紹介しておきます。
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 五帝の三人目は帝堯(ぎょう)です。名は放勲(ほうくん)。帝嚳の子で、嚳が崩じた後に摯が帝となるも不善であったとし、摯が報じた後に放勲が帝となります。
 「その仁は天の如く、その知は神の如く、これに就くこと日の如く、これを望むこと雲の如し」とあります。また、「富裕でも驕らず、高貴でも舒(あなど)らず。黄色の被り物に純衣、彤車と白馬に乗る」というのは、謙虚で質素であることを意味しています。純衣というのは黒い服、彤車というのは赤い車。派手な飾りなどを施さず、素のままであったということです。そして、「よく馴徳を明らかにし、九族と親んで睦まじく、多くの人々をうまく使いこなして、数多の国を和合させた」と、融和を大事にしたということです。
 この後に四人の家臣についての記述が続くのですが、東を治めるものが農民に播種を教え、仲春を定めた。南は繁茂を教え、仲夏を定めた。西は収穫を教え、中秋を定めた。北は越冬を教え、仲冬を定めたとあります。
 細かい記述はありますが、これは言うまでもなく時の流れ、四季を現わしているものです。伝説として捉えるべきでしょう。
 
 その堯も後継者を選ぶ時期となり、適任はいないかと四獄と呼ばれる家臣たちに尋ねます。そもそも、丹朱という長男がいるにも関わらず、です。
 放斉が、丹朱は聡明ですと勧めれば「徳に欠け、争いを好む」とし、 讙兜(かんとう)が、共工に人望があると勧めれば「口先だけで僻みがあり、恭順な振りをしているが天を侮っている」と退けます。次にはみなから鯀(こん)を勧められても「命令に背き、一族の嫌われ者だ」と一度は跳ね除けるのですが、みながそれでもと勧めるので仕方なく鯀を九年間試用するも成果は捗らず、ついに鯀を見限ります。
「四獄たちよ。私は帝位に就いて七十年になる。お前たちは天命に従い、帝位を継げ」
「徳がありません。帝位を辱めてしまいます」
「貴戚、疎遠、隠匿の者をことごとく挙げてみよ」
「独り者で、民間人ですが、虞舜という者がいます」
「なるほど、私も聞いたことがある。それでどうか」
「目の不自由な父は頑迷で、母は口うるさく、弟は傲慢ですが、彼は和やかで孝行者。家の中をうまく治めて、悪いことをさせないようにしています」
「よし、試してみよう」
 これは少々奇妙です。
 あくまでも伝承で、後世の創作であるとしても、帝位に就いて六十年を過ぎた堯が、成果が挙がらない男を九年間も我慢して使い続けていたのはどういうわけでしょう。実はこれは、「夏本紀」に続く話になっています。そして、虞舜のことを「聞いたことがある」なら、なぜ舜はその前に推薦されなかったのでしょうか、あるいは堯が自ら言うに憚るとしても、促すことは出来たはずです。そして、「帝舜」でも述べますが、民間人という身でありながら(少なくとも統一国家の)帝位に就いたのは舜、前漢の劉邦、明の朱元璋(しゅ・げんしょう)だけとなっています。しかし舜は民間人であっても、後の二人のような卑賎の者ではありません。先祖を辿っていくと黄帝に繋がっています。貴戚、つまり高貴な家系にある親戚であり、貴族なのです。貴賤を問わず、としていないところに意図的な、この話を作り出した頃の時代性を感じさせます。
 富永仲基が加上で指摘したように、舜を持ち出したのは孟子です。劉邦が登場するはるか以前のことで、民間人が帝位に就くことなど到底あり得ないような、驚愕の発想だったのでしょう。卑賎の者が帝位に就くことなど、想像だにしなかったのでしょう。舜の推薦はこの話の主軸であり、敢えて別人を持ち出すことで読者を焦らし、悩ませ、最後には誰もが驚愕する展開を迎えるという演出技法を用いたものであると考えることも出来なくはありません。
 
 この後は、堯の話というよりは舜の話で綴られていきます。
 堯が二人の娘を娶せて、その扱いを見ようとすれば、舜は二人の妻に婦礼を教導したことで、堯は喜びます。
 ちなみに姉の名前は娥皇。妹の名前は女英、または女莹、または女匽という話が残っています。
 また、「五典を和した」とあります。これは、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝であることを教化したことを示しています。
 百官を管轄させたり、四方の門で賓客を接待させたり、山林や川や沢などを担当させてみると、舜はこれらをすべてうまく捌いてみせたのです。
 また、共工を幽陵に流罪として北狄に変じ、驩兜を崇山に追放して南蠻に変じ、三苗を三危に遷して西戎に変じ、鯀を羽山に殛して東夷に変じたとあります。
 讙兜が共工を薦めたものの堯は一旦拒否し、試しに使ってみたところ仕事に偏りがあったために、推薦者も連座で追放されたのでしょう。三苗族は江淮や荊州で乱暴狼藉をしていたとあります。鯀は治水に失敗しました。「殛」というのは幽閉のことです。これらは「變(変じた)」とあります。中原の東西南北に位置する異民族たち、すなわち東夷、西戎、北狄、南蠻の元となったというわけです。ただ、これらの異民族たちの開祖という意味なのか、元々いた異民族たちの元へ追放されて同化したのか、これだけではよく分かりません。ただひとつ言えるのは、後世、中原の人たちは東西南北の異民族たちに対し、文明や文化を理解できない野蛮な民族という侮蔑の意味が込めることになりますが、この伝承が正しければ、三苗族以外は中原から出てきた者たちです。一方で、文明や文化はそもそも中原から始まったのだと示唆する話とも受け取れます。
 これらの考えは、今後覆る可能性があります。かつては黄河文明が最先端であるというのが主流でしたが、遼河や長江にもそれに匹敵する古い文明があったという証拠となる遺物の発掘が進んでおり、長江文明は最大で紀元前一万年まで遡ることが出来る可能性が出てきたからです。
 ともあれ、これらの事績で確信した堯は、舜に帝位を譲ることとします。舜は最初は固辞したものの、翌正月一日に文祖の廟で帝位を受け継いだとあります。
 これがいわゆる「禅譲」です。血統によらず、本当に徳と実力のある者へ、帝位を譲るという行為です。これは次の、舜から夏の禹へ行われるものと合わせて、歴史上に二回しか行われていない美談とされています。後世、多くの王朝が禅譲により前王朝から帝位を譲り受けるということが行われていきますが、それらはあくまでも禅譲に名を借りた簒奪です。しかし、奪った側はあくまでも、徳が衰えた前王朝の皇帝から懇願され、やむなく帝位を禅譲されたということにし、自分は徳が高いから帝位に就くのは当然だという世間への言い訳、簒奪という汚名を回避するための建前の道具に使われるようになってしまったのです。
 
 堯が舜を獲得したのが即位七十年目。それから二十年経ち、自ら老いを感じたため、舜に政務を代行させ、併せて二十八年目(禅譲して八年目)に崩御したとあります。天下の人々は父母を失ったかのように悲しみ、三年の間は世界中で歌舞が行われることなく、堯を偲んでいます。
 かつて堯は丹朱が不肖の子であり、天下を任せられないと思っていました。そのことに逡巡しているうちに「舜に天下を授ければ、天下はその利益を得られるが、丹朱が困ることになる。丹朱に授ければ、天下が困ることになるが、丹朱が利益を得られる。天下を困らせておいて、一人だけ利益を得るなどとんでもないことだ」と考え、舜に譲ることに決めたとあります。
 三年の喪が明けると、舜は天下を譲り、丹朱に位を譲り、南河の南へ移り住んでしまいます。しかし諸侯たちは困ったことがあっても丹朱の元へは行かず、舜の元を訪れるばかりなので、ついに舜も「天命である」と感じ、都へ移って再び天子となるのです。
 もっとも、この二回の禅譲も伝承に過ぎず、簒奪ではないかと疑う向きもあります。特に擬古派が主張しており、材料としてはそれほど多くはないのですが、舜の回の後にまとめておきます。
 
 堯の治世を称えるものに、「鼓腹撃壌」があります。
 これは『十八史略』にある話です。『十八史略』は南宋末元初の曾先之(そう・せんし。字は従野または孟参)が書いたもので、その名の通り、十八冊の史書から一部を要約した、すなわちダイジェスト版として編んだ書物です。しかし『史記』にこの話が載せられておらず、曾先之がどこから引用したのか分からないため、創作である可能性も否めません。ただ、どのような政治を理想としているのかを端的に表していることから、幅広く知られるようになりました。今回はこの話で締めくくりましょう。
 
 堯が天下を治めること五十年、世の中はうまく治まっているのか、いないのか、人々が自分を戴くことを願っているのか、いないのか。
 左右の者に聞いても分からず、民間の者に聞いてもよく分からない。そこで微服に着替え、こっそりと大通りへ出てみると、子供たちが歌っているのが聞こえた。
 立我烝民 莫匪爾極 不識不知 順帝之則
(私たちの生活は大丈夫、天子様のおかげです。知らず知らずのうちに、帝をお手本にしています)
 今度は老人がいた。
 口の中に食べ物を含み、腹鼓を打ち、足で地面を叩きながら歌っている。
 日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田食 帝力何有於我哉
(お日様昇れば仕事へ出かけ、お日様沈めばお家で一息。井戸を掘って、水を飲む。畑を耕し、飯を食う。帝の力なんて、関係ないさ)
 これを聞いた堯は、自分の政治は民衆たちに自分を意識させることなく、ごく自然に豊かな生活を実現させることが出来たと実感したのである。
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