鸞鳳の道標

過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。


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 虞舜は名を重華という。父は瞽叟(こそう)といい、瞽叟の父は橋牛(きょうぎゅう)といい、橋牛の父は句望(こうぼう)といい、句望の父は敬康(けいこう)といい、敬康の父は窮蝉(きゅうせん)といい、窮蝉の父は帝顓頊(せんぎょく)といい、顓頊の父は昌意(しょうい)という。
 舜に至るまで七世、窮蝉から舜までの威讎は、みな庶民であった。
 舜の父は瞽叟で、目が見えず、舜の母が死んでから後妻を迎えて象(しょう)が生まれた。象は傲慢で、瞽叟は後妻の子を愛し、いつも舜を殺そうとしていた。舜はこれを回避し、少しでも過ちがあれば、罪を受けた。父や継母、弟に対して従順で、毎日を篤実、謹厳に過ごし、懈怠することはなかった。
 舜は冀州の人である。歴山で農耕をし、雷澤で漁をし、河濱で陶器を焼き、壽丘で什器を造り、負夏で仕事に就いた。
 舜の父の瞽叟は頑迷で、母は口うるさく、弟の象は傲慢で、みな舜を殺そうとしていた。舜は従順で適切な態度で、子としての道義を失わなかった。孝行者で、弟にも慈愛を示したので、(彼らは)殺したくても、その機会を得られなかった。呼び出せば、常に傍に行った。
 
 『史記』「五帝本紀」の舜に関する記述の出だしです。
 この後、堯から二人の娘を賜り、試練を受けて認められる内容は堯の項とほぼ同じです。
 付記として、舜が各地を渡り歩いていたときに、どこもかしこもうまく治まったとあるのは奇異です。何故なら、彼は統治者として赴いたわけではなく、ただ農耕などをしていただけです。徳治の体現、感化されたということでしょうか。いささか、うまく行きすぎている感は否めません。
 ちなみに、父の名が瞽叟とありますが、瞽とは目が見えないこと、叟とは老翁のことを表しており、実名とは思われません。

 舜が堯から絺衣(ちい)と琴を賜り、倉庫を造って、牛と羊も戴いた後のこと。父は舜を倉庫の壁塗りを命じておいて、倉庫に火をかけたところ、舜は二つの笠を手にしてうまく下りることができたとあります。次いで、父は井戸掘りを命じ、舜がそれを始めると、弟の象と共に土を落として穴を埋めてしまうのです。これで舜が死んだと思った象は、舜の二人の妻と琴を自らのものに、父母に残りの財産を分け、意気揚々と琴を鳴らしていると、死んだはずの舜が現れたので愕然としながらも「心配で欝々としてました」と、しかし悦ぶ様子も見せずに言うと、舜は「そう言ってくれると思ったよ」と答えます。実は、舜は井戸掘りの最中に横穴も作っていて、穴が上から埋められても、横穴から無事に脱出できたというわけ。そこまでされても、舜は父や弟のために働いたとあります。
 後世、このような態度こそが人として理想とされたことを念頭に置けば、『二十四孝』のような孝行物語を読む上で理解が早まると思います。

 舜はさらに、八愷と呼ばれる高陽氏の八人の子たちと、八元と呼ばれる高辛氏の八人の子たちが、優れた人物であるのになぜか堯に推挙されていなかったのを登用しています。
 また、禹(う)、皐陶(こうよう)、契(せつ)、后稷(こうしょく)、伯夷(はくい)、夔(き)、龍(りょう)、倕(すい)、益(えき)、彭祖(ほうそ)といった優れた人物を挙用しています。
 逆に、帝鴻氏の子である渾沌(こんとん)、少皞氏の子である窮奇(きゅうき)、顓頊氏の子である檮杌(とうこつ)、縉雲氏の子である饕餮(とうてつ)らはいずれも凶悪な人物で、この「四凶」を地方に流したとあります。
 この後は、登用した人たちを役職に就け、各地に派遣し、よく治めた様子が描かれていますが、省略します。堯の時と同様、すべてうまく行ったとあって、聖天子たる偉業を褒め称える内容であっても苦労の影があまり見受けられず、妨害や混乱もなく、現実味を感じられません。
 ただし、次の時代に続くことになる文章は訳しておきます。
 
 (諸臣たちの中で)ただ、禹の功を大とした。
 (舜は)九山を披(ひら)き、九沢を通じ、九河を決し、九州を定めた。おのおのがその職責をもって来貢し、適切さを失わなかった。五千里四方、荒廃した地域に至るまでもが服し、南は交阯・北発、西は戎・析枝・渠廋・氐羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷を慰撫し、四海の内にある者はみな、帝舜の功徳を戴いた。
 ここにおいて禹は「九招の楽」を興し、珍奇な物資を呼び集め、鳳凰がやってきて飛翔した。天下の徳を明らかにするのはみな、虞帝から始まった。
 舜は、二十歳には孝行者として知られるようになり、三十歳で堯に推挙され、五十歳で天子の事務を摂行した。
 五十八歳の時に堯が崩御した。六十一歳の時に、堯に代わって帝位に践阼した。践阼して三十九年、南に巡狩して、蒼梧の地で崩御した。江南の九疑山に葬られた。これが零陵である。
 舜は帝位を践阼すると、天子の旗を(車に)載せ、(実家に)赴いて父の瞽叟に会った。(父は)恐れおののき、謹んで、まるで子供が(親に)接するような態度を取った。(舜は)弟の象を封じて諸侯とした。
 舜の子の商均もまた不肖の子で、あらかじめ禹を天子に推薦していた。十七年目に崩御して、三年の喪も終わったとき、禹もまた舜の子に譲ろうとしたのは、舜が堯の子に譲ろうとしたのと同様であった。諸侯は(禹に)帰属したので、禹は天子の位を践阼した。堯の子である丹朱と、舜の子である商均には土地を与え、先祖の祀りを行わせた。(彼らは)服装を元(の帝の一族のもの)に戻し、礼・楽も同様とし、賓客の礼をもって天子にまみえた。天子は(彼らを)臣下として扱わず、自分だけで(帝位を)独占していないことを示した。
黄帝から舜、禹に至るまで、みな同姓である。しかしその国号を別々にすることで、明徳を明らかにした。黄帝を有熊とし、帝顓頊を高陽とし、帝嚳を高辛とし、帝堯を陶唐とし、帝舜を有虞とし、帝禹を夏后としたのである。
 氏を分け、姓を姒氏とした。(その後は)契は商を立てて、姓は子氏とした。弃は周を立てて、姓は姫氏とした。
 
 舜がかつて堯から禅譲されたように、舜の子も不肖だったので有徳者である禹に禅譲しようとし、禹もまた舜が行ったようにその子に譲り返そうとしたのに、諸臣や諸侯などがみな自分のところへ来たのでやむなく践祚したというものです。この二度の、歴史上においてたった二度だけ行われた真の「禅譲」が、後世の理想となりました。
 悪逆の者を討つという「放伐」に比べて、「禅譲」には便利な点があります。放伐であれば、相手が暴戻あるいは暗愚であるという理由付けが必要になります。名君や英傑を討ったのではただの反逆になってしまい、大義名分が立ちません。禅譲であれば、相手が名君であればその名声によって、暴君や暗愚や惰弱の君であればその悪名によって、禅譲を受けた者はそれらに勝る有徳の持ち主であるということになるからです。これ以降に行われる名目だけの禅譲においては、それを受ける側は自らは有徳者であることを謳い、前任者から請われたのでやむなく践祚するという意思表示を示し、簒奪であることを誤魔化すために行われるものになってしまいます。
 堯と舜の記述を通して、各地の伝承も形成されたと言えます。四夷の存在、各地の伝承、四凶の追放などなど。中原の範囲を越えて、戎や羌などの異民族たちが含まれている点にも注目すべきかも知れません。これら異民族とは後々まで戦うことになるのですが、一方で、彼らが服属してきたときには治世の証、名君の誉という表現が為されています。扱いづらい存在であるものの、それらとどう向き合って、どのような外交政策を行ったのか、王朝の歴史を勉強・研究するうえでこの点にも配慮すべきです。
 ともあれ、神話の時代は終わりました。時代の禹は比較的、人間性を以って語られていきます。
 その前に、五帝に対して疑いの目を向ける偽古派の意見を次回、紹介しておきます。
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 五帝の三人目は帝堯(ぎょう)です。名は放勲(ほうくん)。帝嚳の子で、嚳が崩じた後に摯が帝となるも不善であったとし、摯が報じた後に放勲が帝となります。
 「その仁は天の如く、その知は神の如く、これに就くこと日の如く、これを望むこと雲の如し」とあります。また、「富裕でも驕らず、高貴でも舒(あなど)らず。黄色の被り物に純衣、彤車と白馬に乗る」というのは、謙虚で質素であることを意味しています。純衣というのは黒い服、彤車というのは赤い車。派手な飾りなどを施さず、素のままであったということです。そして、「よく馴徳を明らかにし、九族と親んで睦まじく、多くの人々をうまく使いこなして、数多の国を和合させた」と、融和を大事にしたということです。
 この後に四人の家臣についての記述が続くのですが、東を治めるものが農民に播種を教え、仲春を定めた。南は繁茂を教え、仲夏を定めた。西は収穫を教え、中秋を定めた。北は越冬を教え、仲冬を定めたとあります。
 細かい記述はありますが、これは言うまでもなく時の流れ、四季を現わしているものです。伝説として捉えるべきでしょう。
 
 その堯も後継者を選ぶ時期となり、適任はいないかと四獄と呼ばれる家臣たちに尋ねます。そもそも、丹朱という長男がいるにも関わらず、です。
 放斉が、丹朱は聡明ですと勧めれば「徳に欠け、争いを好む」とし、 讙兜(かんとう)が、共工に人望があると勧めれば「口先だけで僻みがあり、恭順な振りをしているが天を侮っている」と退けます。次にはみなから鯀(こん)を勧められても「命令に背き、一族の嫌われ者だ」と一度は跳ね除けるのですが、みながそれでもと勧めるので仕方なく鯀を九年間試用するも成果は捗らず、ついに鯀を見限ります。
「四獄たちよ。私は帝位に就いて七十年になる。お前たちは天命に従い、帝位を継げ」
「徳がありません。帝位を辱めてしまいます」
「貴戚、疎遠、隠匿の者をことごとく挙げてみよ」
「独り者で、民間人ですが、虞舜という者がいます」
「なるほど、私も聞いたことがある。それでどうか」
「目の不自由な父は頑迷で、母は口うるさく、弟は傲慢ですが、彼は和やかで孝行者。家の中をうまく治めて、悪いことをさせないようにしています」
「よし、試してみよう」
 これは少々奇妙です。
 あくまでも伝承で、後世の創作であるとしても、帝位に就いて六十年を過ぎた堯が、成果が挙がらない男を九年間も我慢して使い続けていたのはどういうわけでしょう。実はこれは、「夏本紀」に続く話になっています。そして、虞舜のことを「聞いたことがある」なら、なぜ舜はその前に推薦されなかったのでしょうか、あるいは堯が自ら言うに憚るとしても、促すことは出来たはずです。そして、「帝舜」でも述べますが、民間人という身でありながら(少なくとも統一国家の)帝位に就いたのは舜、前漢の劉邦、明の朱元璋(しゅ・げんしょう)だけとなっています。しかし舜は民間人であっても、後の二人のような卑賎の者ではありません。先祖を辿っていくと黄帝に繋がっています。貴戚、つまり高貴な家系にある親戚であり、貴族なのです。貴賤を問わず、としていないところに意図的な、この話を作り出した頃の時代性を感じさせます。
 富永仲基が加上で指摘したように、舜を持ち出したのは孟子です。劉邦が登場するはるか以前のことで、民間人が帝位に就くことなど到底あり得ないような、驚愕の発想だったのでしょう。卑賎の者が帝位に就くことなど、想像だにしなかったのでしょう。舜の推薦はこの話の主軸であり、敢えて別人を持ち出すことで読者を焦らし、悩ませ、最後には誰もが驚愕する展開を迎えるという演出技法を用いたものであると考えることも出来なくはありません。
 
 この後は、堯の話というよりは舜の話で綴られていきます。
 堯が二人の娘を娶せて、その扱いを見ようとすれば、舜は二人の妻に婦礼を教導したことで、堯は喜びます。
 ちなみに姉の名前は娥皇。妹の名前は女英、または女莹、または女匽という話が残っています。
 また、「五典を和した」とあります。これは、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝であることを教化したことを示しています。
 百官を管轄させたり、四方の門で賓客を接待させたり、山林や川や沢などを担当させてみると、舜はこれらをすべてうまく捌いてみせたのです。
 また、共工を幽陵に流罪として北狄に変じ、驩兜を崇山に追放して南蠻に変じ、三苗を三危に遷して西戎に変じ、鯀を羽山に殛して東夷に変じたとあります。
 讙兜が共工を薦めたものの堯は一旦拒否し、試しに使ってみたところ仕事に偏りがあったために、推薦者も連座で追放されたのでしょう。三苗族は江淮や荊州で乱暴狼藉をしていたとあります。鯀は治水に失敗しました。「殛」というのは幽閉のことです。これらは「變(変じた)」とあります。中原の東西南北に位置する異民族たち、すなわち東夷、西戎、北狄、南蠻の元となったというわけです。ただ、これらの異民族たちの開祖という意味なのか、元々いた異民族たちの元へ追放されて同化したのか、これだけではよく分かりません。ただひとつ言えるのは、後世、中原の人たちは東西南北の異民族たちに対し、文明や文化を理解できない野蛮な民族という侮蔑の意味が込めることになりますが、この伝承が正しければ、三苗族以外は中原から出てきた者たちです。一方で、文明や文化はそもそも中原から始まったのだと示唆する話とも受け取れます。
 これらの考えは、今後覆る可能性があります。かつては黄河文明が最先端であるというのが主流でしたが、遼河や長江にもそれに匹敵する古い文明があったという証拠となる遺物の発掘が進んでおり、長江文明は最大で紀元前一万年まで遡ることが出来る可能性が出てきたからです。
 ともあれ、これらの事績で確信した堯は、舜に帝位を譲ることとします。舜は最初は固辞したものの、翌正月一日に文祖の廟で帝位を受け継いだとあります。
 これがいわゆる「禅譲」です。血統によらず、本当に徳と実力のある者へ、帝位を譲るという行為です。これは次の、舜から夏の禹へ行われるものと合わせて、歴史上に二回しか行われていない美談とされています。後世、多くの王朝が禅譲により前王朝から帝位を譲り受けるということが行われていきますが、それらはあくまでも禅譲に名を借りた簒奪です。しかし、奪った側はあくまでも、徳が衰えた前王朝の皇帝から懇願され、やむなく帝位を禅譲されたということにし、自分は徳が高いから帝位に就くのは当然だという世間への言い訳、簒奪という汚名を回避するための建前の道具に使われるようになってしまったのです。
 
 堯が舜を獲得したのが即位七十年目。それから二十年経ち、自ら老いを感じたため、舜に政務を代行させ、併せて二十八年目(禅譲して八年目)に崩御したとあります。天下の人々は父母を失ったかのように悲しみ、三年の間は世界中で歌舞が行われることなく、堯を偲んでいます。
 かつて堯は丹朱が不肖の子であり、天下を任せられないと思っていました。そのことに逡巡しているうちに「舜に天下を授ければ、天下はその利益を得られるが、丹朱が困ることになる。丹朱に授ければ、天下が困ることになるが、丹朱が利益を得られる。天下を困らせておいて、一人だけ利益を得るなどとんでもないことだ」と考え、舜に譲ることに決めたとあります。
 三年の喪が明けると、舜は天下を譲り、丹朱に位を譲り、南河の南へ移り住んでしまいます。しかし諸侯たちは困ったことがあっても丹朱の元へは行かず、舜の元を訪れるばかりなので、ついに舜も「天命である」と感じ、都へ移って再び天子となるのです。
 もっとも、この二回の禅譲も伝承に過ぎず、簒奪ではないかと疑う向きもあります。特に擬古派が主張しており、材料としてはそれほど多くはないのですが、舜の回の後にまとめておきます。
 
 堯の治世を称えるものに、「鼓腹撃壌」があります。
 これは『十八史略』にある話です。『十八史略』は南宋末元初の曾先之(そう・せんし。字は従野または孟参)が書いたもので、その名の通り、十八冊の史書から一部を要約した、すなわちダイジェスト版として編んだ書物です。しかし『史記』にこの話が載せられておらず、曾先之がどこから引用したのか分からないため、創作である可能性も否めません。ただ、どのような政治を理想としているのかを端的に表していることから、幅広く知られるようになりました。今回はこの話で締めくくりましょう。
 
 堯が天下を治めること五十年、世の中はうまく治まっているのか、いないのか、人々が自分を戴くことを願っているのか、いないのか。
 左右の者に聞いても分からず、民間の者に聞いてもよく分からない。そこで微服に着替え、こっそりと大通りへ出てみると、子供たちが歌っているのが聞こえた。
 立我烝民 莫匪爾極 不識不知 順帝之則
(私たちの生活は大丈夫、天子様のおかげです。知らず知らずのうちに、帝をお手本にしています)
 今度は老人がいた。
 口の中に食べ物を含み、腹鼓を打ち、足で地面を叩きながら歌っている。
 日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田食 帝力何有於我哉
(お日様昇れば仕事へ出かけ、お日様沈めばお家で一息。井戸を掘って、水を飲む。畑を耕し、飯を食う。帝の力なんて、関係ないさ)
 これを聞いた堯は、自分の政治は民衆たちに自分を意識させることなく、ごく自然に豊かな生活を実現させることが出来たと実感したのである。
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 遥か遠く、長い距離を現わす言葉のひとつに、「萬里」があります。
 日本では萬里長城(万里の長城)が有名ですが、詩にも時折用いられています。
 唐の白居易(はく・きょい。あざなは楽天)が、元稹(げん・しん。あざなは微之)を想って詠んだ詩はたくさん残されています。元稹は白居易が試判抜萃科に主席合格したときに、第五席で合格した人物で、ともに秘書省の校書郎に就き、一生の親友となった人物です。七言律詩の『八月十五日夜禁中独直対月憶元九』は、日本でもよく知られているものです。元九は元稹のあだ名です。同じく七言律詩に『曲江憶元九』という春に詠まれたものもあり、これに似た題で立秋に詠まれた『立秋日曲江憶元九』という五言律詩があります。
 
 下馬柳陰下 獨上堤上行
 故人千萬里 新蟬三兩聲
 城中曲江水 江上江陵城
 兩地新秋思 應同此日情
 
 元稹は出世と左遷、優遇と不遇とを味逢わされた人物で、ここでの白居易は元稹が「萬里」、すなわち遥か遠くへ行ったしまったと独り寂しく想う気持ちが込められています。
 同じく唐代の詩人、李白(り・はく。あざなは太白)が詠んだ五言律詩の『金陵望漢行』では、
 
 漢江迴萬里 派作九龍盤
 橫潰豁中國 崔嵬飛迅湍
 六帝淪亡後 三吳不足觀
 我君混區宇 垂拱衆流安
 今日任公子 滄浪罷釣竿
 
 漢江の遥か長い川筋を観ながら、六朝が滅んだあとは物静かになったことを詠んだものですが、無難な治世を喜ぶというよりは、為政者が時間の流れに任せたまま無為無策で放置し続けていることを皮肉していると捉える向きが強いようです。ここでの「萬里」は、漢江の長さを眺めながら悠久の時を感じています。
 「萬里」はあくまでも距離であり、二次元で平面的です。では、三次元の、立体的な距離はどのようにして知ることが出来るでしょうか。
 それは、天空にあります。俯瞰、鳥の目線から眺めることにしましょう。
 
 
 鳳凰は瑞鳥です。
 良いことが起こる前触れのことを瑞兆といい、その具体的な現れが瑞祥であり、顕現する動物を瑞獣と呼びます。
 鳳凰は世の中に聖天子が現れた時に飛来するとされています。余談ですが、鳳凰は雌雄一対で、雄が鳳、雌が凰です。
 『詩経』「大雅」の「卷阿」に
 
 鳳凰于飛、翽翽其羽、亦集爰止
 藹藹王多吉士、維君子使、媚於天子
 鳳凰于飛、翽翽其羽、亦傅于天
 藹藹王多吉人、維君子命、媚于庶人
 
 という一説があります。
 鳳凰が飛び交い、その羽を翽(はばた)かせています。ここには大勢の家臣たちが和気藹々としながら集い、天子や庶民に親しんでいるのだから、うまく使いこなしなさい。家臣に恵まれた天子なのだから、鳳凰がやって来たのです。そう歌っています。
 その瑞祥を信じなさい、自信を持ちなさいと諭す意味も込められているのでしょう。
 鳳凰は瑞兆を知らせるとともに、偉大な人物にも喩えられます。
 「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや(燕雀安知鴻鵠之志哉)」と言ったのは、秦の時代に民衆反乱を起こした陳勝(ちん・しょう。あざなは渉)で、燕や雀のような小さな鳥には、鴻(おおとり)や鵠(くぐい)のような大きな鳥の気持ちなど分からないなという、雄大な志を述べたものですが、鴻鵠よりもっと大きな鳥の候補生に、鳳雛があります。
 「伏龍鳳雛」は後漢末期に、とある二人の人物への評価として述べられた言葉です。一人は諸葛亮(しょかつ・りょう。あざなは孔明)で、もう一人は龐統(ほう・とう。あざなは士元)です。『三国志』でもお馴染みの人物ですね。湖に伏せている龍は、水面をほとんど揺らさないために地上からはそこに龍がいることに気付かないものです。また、鳳凰の雛も、他の鳥の雛とほとんど区別が付かないもののようです。しかしいざという時がくれば、龍は勢いよく水面を震わせたかと思うと一気に雲まで飛び上がり、鳳雛も成長すれば遥か遠くまで一気に羽ばたくほどの巨大な鳥となります。つまりこの喩えは、今は凡人と何ら変わらないように見えながら、実は偉大な人物になる才能を秘めている人物であることを示したものなのです。
 他には「鸞翔鳳集」という言葉があります。鸞は鳳凰に似た青い鳥で、鳳凰の雛という説もあります。明の王圻(おう・き。あざなは元翰)が次男とともに著した『三才図絵』にもあり、その影響を受けた江戸中期の大阪の医師・寺島良安(てらじま・りょうあん)が著した『和解三才図絵』では実在の鳥としています。鸞や鳳が飛翔して集まっているのは、これも立派な鳥を優れた人物に喩えたもので、大勢の優れた人たちが集まっている様子を表した言葉です。
 深遠な思考や大局的な行動が出来るような優れた人物は、まるで空から眺めたかのように、広く、はるか遠くのことまで感知し、そして大いに飛躍することから、巨大な、神のごとき鳥に喩えられるのでしょう。
 それらの優れた人物は、時に未来まで察知してしまいます。
 今は大いに活躍していて評判の高い人物なのに、いずれ滅ぶだろうと予言して立ち去ったり、逆に今は知名度もほとんど無く、容貌もまるで冴えない人物なのに、これは必ず成功すると見込みを立てることもあります。
 そのような、立体的な三次元よりも高尚な、未来を見据えた、時間軸を乗り越えるような四次元の発想はどうして生まれるのでしょう。
 
 過去を見ているからです。
 過去には、それこそ無数の燕雀がおり、少なからず鴻鵠がおり、そして稀有とはいえ伏龍鳳雛も存在していました。
 過去から見た未来である現在において、優れた観察力や洞察力をもってすれば、これは過去に似た例があるなと察知できてしまうのです。そして、現在から見た未来においても、おそらくこの先において大物となる可能性のある伏龍鳳雛の候補生たちを、見抜いていくわけです。
 旅行で迷うことなく目的に到達するために、必要なものは何でしょうか。
 それは地図であり、そして道標があれば、初めて訪れる土地であっても迷うことはありません。
 過去を分析し、現在を散策し、未来を予測するうえでも、地図や道標が必要となるはずです。
 
 過去の鸞鳳がいる場所へ御案内します。
 伏龍への指針、鳳雛を探す者たちのための道標を、立てていきます。
 現在と未来を達するために。
 
 本ブログ「風の伝えるままに」は、2017年1月1日を以って「鸞鳳の道標」と改題します。
 Twitterにて、改題の投票に参加してくださった方々に、改めてお礼を申し上げます。
 一人でも多くの人の、指標となれるように。

 

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