嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(私論・前編) | 鸞鳳の道標

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過去から現在へ、そして未来へ。歴史の中から鸞鳳を、そして未来の伏龍鳳雛を探すための道標をここに。

 今回はあくまでも「私論」ということで、言いたい放題書きまくります。

 そのため、あらかじめ、注意しておきます。

 私は呂布という人間が大嫌いです。評価するに値しない人物だと思っています。


 太史慈【たいし・じ】は、なんとなく不思議な人物という程度の認識だったのが、調べて行くうちに興味を抱いて、今では「好きな武将ベスト10」に入っています。

 呂布は調べるうちに、ますます嫌いになって、「嫌いな武将」の堂々一位です。そんなわけで、呂布が好きで好きでたまらないという方は見ない方がいいかも知れません。逆に、「呂布は自分もなんとなく嫌い。理由は無いけど」とか、「呂布は好きだけど、そういう見方をする人もいるのか」という興味本位で見てもらう分には、一向に構いません。ただ、ホントにボロッカスに書きますので、その覚悟はしておいてください。


 とまあ、警告なのか、ケンカを売ってるのかよく分からない前振りはここで終わって、本題へ入ります。


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 ボロッカスに書く、と言いつつも、『演義』での呂布の扱いはあまり受け入れられません。あそこまでされると、むしろ呂布を擁護したくなります。

 『演義』では、暴虐で短絡的。人を平気で裏切って、心を痛めない非情な男。能天気な上に自分本位。頭の良い人間をバカにして、自分の武勇だけを信じている。行き当たりばったりで生きているだけの人物という書かれ方をしているといって過言ではないでしょう。

 いや、いくらなんでも実際にはそこまでひどくない。

 『演義』以来、呂布は董卓や曹操をも凌駕する、不人気NO.1の人物でした。その理由は、実は単純です。儒教の精神に反しているからです。

 「反している」部分は、主に『不孝』と『不忠』です。


 『不孝』というのは、親不孝ということです。

 実父は彼が若い頃に亡くなったのでしょう。董卓と義理の親子の関係を結んだことからも明らかです。ところが、彼は詔勅によるものとはいえ、その義父たる董卓を殺しています。さらに『演義』では、最初に仕えた丁原とも義理の親子関係があったことにして、「二人の義父を容赦なく殺した男」という扱いになっています。


 『不忠』は、臣下として忠実でないということです。

 これは、主君だった丁原と董卓を殺した事実によるものです。この両名を殺した時点で、ふたつの罪を負ったことになります。


 もうひとつ挙げるなら、『不義』でしょう。

 曹操の留守の間に兗州を乗っ取り、擁護してくれた劉備を裏切って徐州を乗っ取る。これで彼を義理固い人間だとは思えないでしょう。


 儒教で大事とされるのは、上下関係です。

 一番大事なのは親と子。次いで、主君と臣下。そして、目上と目下。呂布はこのすべてに反しているわけです。だから、儒教の非難に遭う。彼にとって不幸だったのは、後漢王朝では儒教が盛んだったことと、それ以降の統一王朝でも儒教が重視されたために、儒教精神に反する行為をした呂布は「無条件で非難されるもの」として、攻撃されやすい材料となってしまったことです。

 では当時の、儒教が盛んだった後漢王朝での彼の評価は、最悪だったのでしょうか。


 そうではない、と思います。


 典型例が、張邈【ちょう・ばく】(字は孟卓)です。

 彼は兗州において『士』として高く評価された人物です。『士』というのは、地方豪族にその名を保証され、中央政府に推薦される人物です(必ずしも中央へ行くとは限りませんが)。そして、彼らが最も大事にするのが「名声」です。

 能力はあるにこしたことはないのですが、それよりも、「名声がある」ということが大事なのです。


 劉備が益州へ入った時、前領主・劉璋【りゅう・しょう】(字は季玉)に仕えながらさっさと劉備に降服し、そのために劉備が登用をためらった許靖【きょ・せい】(字は文休)という人物がいます。しかし諸葛亮は、「許靖の名声が高いこと」を理由として、「彼を用いなければ、主君(注:劉備)は名のある人物を軽んじると評価されてしまう」とまで言って登用させ、蜀漢政権下において文官のトップに立たせたほとです。この場合、許靖が文官のトップに立つほどの能力があったかどうかはまったく問題ではなく、彼をその位置におくことで、劉備が名声を重んじるとアピールし、『士』、あるいは名声を重んじる人たちを味方に引き入れる効果があった、ということなのです。

 簡単にいえば、客寄せパンダです。

 実際、許靖は蜀漢政権において、ほとんど活躍していません。


 話を戻して、張邈です。

 彼は『士』として、何よりも名声を重んじる、いや、重んじなければならない存在なのです。その彼が、「暴虐無道」の呂布を擁護などしたら、周りにどう思われることか。考えてみれば分かると思いますが、「張邈はあんな人でなし野郎を助けるのか」と非難され、内外から激しいバッシングの嵐に遭うのは目に見えています。それなのに、実際には擁護している。そして、そのこと自体を誰か『士』層から非難された形跡も見当たりません。

 となると、答えは単純ですね。

 呂布には、当時では「暴虐非道」という評価は無いわけです(まったく無いというわけではありませんが、名声を気にするほどでもないという程度でしょう)。もしそれがあるのなら、張邈は何がなんでも彼を否定しなければならなかったはずです。考えてみれば、袁紹だって最初は呂布を受け入れています。袁紹もまた名門の出であり(嫡流ではないようですが)、名声を気にする立場ですから、「不孝、不忠」で「暴虐非道」な男をかくまったりしたら、それだけで評価は下がるはずです。それなのに、あっさりと受け入れている。呂布が袁紹の元を追い出されたのは、袁紹に対して必要以上に援軍を求めた挙句、その援軍たちを使って略奪の限りを尽くしたからです。袁紹軍は略奪を働く連中だ、と諸侯などに非難されるのを恐れたためでしょう。

 徐州で劉備が彼を受け入れたのは、『演義』では「暴虐非道な人間とはいえ、流浪しているのは可哀そうだから」という、いかにも人徳溢れた理由になっていますが、実際のところ、「近くには袁術がいるし、曹操もいつ攻めてくるか分からない。あの破壊力を使うことができれば頼もしい」というような軽い気持ちだったと思います。


 呂布自身も言っているように、彼は「董卓を殺した」という功績があった人物であって、彼を受け入れたところで特に大きな問題はなかったわけです。儒教精神が強い時代であったとはいえ、董卓を裏切ったことよりも、董卓を殺してくれたことを評価していたのでなければ、張邈も袁紹も受け入れるはずがなく、曹操もまた彼を受け入れるかどうか悩むはずもないと思うのですが、どうでしょう。

 そして、そんな曹操の思惑に待ったをかけ、さりげなく『不孝』と『不忠』の罪を弾劾したのが劉備であることは、妙なおかしさを感じられます。

 劉備に言われるまで気付かなかった(というより、その罪を表に出さなかった)曹操と、あえて弾劾して曹操(というより曹操軍団の)にプレッシャーを与えて呂布を殺させた劉備。すべての功績を一瞬にして剥奪された呂布。

 この三者において本当に恐ろしいのは、さて、一体誰だったのでしょうか。


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 それはともかく。

 呂布が行き当たりばったりだったことは、彼の部下が評価を下しています。

 高順です。

 呂布に仕え、報われないながらも最後まで裏切らなった忠義心溢れるこの男は、呂布に諫めてます。

「およそ、国が滅ぶのは、忠臣や知恵者がいないからでなく、ただ(彼らが)用いられないからです。将軍の挙動は深い思慮を伴わず、でたらめなことを言っては喜んでおられます。(このような)過ちは数えきれないほどです」

嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(12)


 行き当たりばったりのうえ、大言壮語が過ぎる。そう評しています。

 その典型のひとつが、劉備の扱いでしょう。

 彼は劉備に擁護されたのに、空になった徐州で混乱が起こると(その原因が張飛にあるとはいえ)乗り込んで、後始末を終えても返さない。その後、袁術から攻め込まれた劉備を「軍門に戟を射」て守るも、またも攻め込んで追い出す。これらの行動を見れば「深い思慮を伴わず」と言われても仕方なく、それでいて劉備を「弟」と呼んだり、「争いは嫌いで、仲裁するのが好きなのだ」などと、その場しのぎで適当なことを言っている。


 もうひとつが、外交政策でしょう。

 誰に味方しているのか、さっぱり分からないという欠陥があります。

 当初、袁術は受け入れてくれなかったにも関わらず、袁術から甘い誘いの手紙を受け取ると、劉備を攻撃する。そして、娘を袁術の息子の嫁に差し出そうとする。そのくせ、陳珪がそれを阻止するが発言をすると、呂布は慌てて娘を取り返し、袁術からの使者を曹操へ差し出す。では、曹操に味方するのかと思いきや、劉備を追い出し、またも袁術と手を組み、曹操と敵対する。袁術にしても、曹操にしても、「お前はどっちの味方なんだ?」と思われても仕方ないでしょう。

 もう少し正確に言えば、外交の態度がおかしい。

 曹操へは陳登を送り、袁術へは王楷を送る。これは正しい。まったく正しい。

 陳登(および父の陳珪)は、袁術を嫌っていました。劉備は徐州を譲られる段になって、最初に「私よりも袁術の方が良い」という言葉を発し、陳登に戒められています。当時は袁術の方がはるかに名声が高く、曹操は撤退したとはいえ狙いを付けていて危険極まりない、そんな徐州を手にして良いかどうか迷っての発言でしょう。

 だから、陳登(および陳珪)は袁術の元へは送れない。それはケンカを売るようなものだからですね。

 一方、王楷は張邈とともに兗州を呂布へ売り渡した人物です。張邈と陳宮の両名に、袁術との強い提携があったのならば、王楷もその一端を担っており、袁術への使者としては最適とも言えます。彼ならば袁術とうまく話を付けてくれる。


 ではどこが間違っているのかというと、両方へ、しかも送り出したのとは逆側の勢力を怒らせるような真似を堂々としているということです。



 日本の戦国時代、備前(現在の岡山県)に宇喜多直家【うきた・なおいえ】という武将がいました。

 この人は「謀将」と呼ばれ、当時も、後世においても評価が非常に低い人物です。妻の父親を謀殺し、敵将を暗殺し、主君を追い出す。敵に回すと厄介そうな同僚の元へは娘を嫁がせて、油断した隙を狙って毒殺する。それも一人や二人じゃない。まさにやりたい放題で、弟の忠家【ただいえ】いわく、「兄は恐るべき男だった。腹黒くて、何を企んでいるのか分からないところがあった。それゆえ、兄の前に出るときには必ず、衣服の下に鎖帷子を付けたものだ」。

 毛利家に味方しながらも、織田家が隣接してくると、密かに「味方します」と言う使者を両者へ派遣する。まさに、「何を考えているか分からない」。

 ところが彼の死後、息子の秀家【ひでいえ】は豊臣秀吉に重用され、「五大老」の一人にまで昇進します。これは秀吉が直家に「感謝したため」とも言われています。

 何を「感謝」したのか。

 毛利家が直家の態度に警戒を強めると、直家は毛利と完全に手を切って秀吉に味方し、一族に多数の犠牲者を出しながらも防戦に努め、毛利家の侵攻を阻止し続けます。このために毛利家は東へ進むことができず、秀吉が毛利家と真っ向から対決するまでの準備を整えるのに役立ったとも言われています。このことに「感謝」したというわけ。


 曹操は秀吉ではないし、呂布も直家ではありません。

 しかし、新興ながらも帝を擁してその勢いが高まる曹操と、名門の出にして名声の高い袁術との間に挟まれて、どちらに味方すればいいのか悩んでしまう状況は似ていると言えましょう。はっきりとどちらかに味方する意思を見せてしまうと、もう一方から攻め込まれる。

 ただ、直家と呂布との違いは、直家は本心を明かすことなく両者をだまし続け、味方になりそうにない人物をことごとく葬り去って行ったのに対し、呂布は片方に味方すれば片方に敵対する意思をはっきり見せてしまっていて、さらに現在敵対している側に通じそうな部下ですら迫害することがないために、両者から「心許せない存在」という認識を明確に与えてしまったところにあります。

 もうひとつ。

 直家は最終的に織田家に味方する意思を表示した途端、毛利家と徹底的に戦い続けたという点。呂布にはその「徹底的に」というのが無いということです。

 袁術に味方するというのなら、最後まで袁術のために戦い続けていれば、「曹操に敵対して、偽帝袁術に味方したバカなヤツ」と思われても、「でも、最後に忠義の限りを尽くした」と言われていたかも知れません。ところが、いざ降服の段になると曹操へ媚を売る。味方しますと言う。


 それで曹操が感謝するとでも思っていたのか?


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 しかし、呂布というと後世において妙に人気があるのも事実。


 ひとつは、『演義』での「美女連環の計」に対する同情のあらわれでしょうか。

 王允【おう・いん】(字は子師)の策略により、貂蝉にたぶらかされる呂布。たしかに朝廷にとって董卓は邪魔者でしかないけれど、だからといって愛情を逆利用して翻弄するのはいくらなんでもやり過ぎの感が否めません。

 呂布だって、恋する男の子。可愛い女の子にのぼせあがるのも無理のない話。実際、この展開における呂布は、貂蝉に対する純粋な恋心に溢れ、これが計略であることに憐れみすら覚えさせられます。


 何と言っても、武勇。

 『演義』において、反董卓連合軍との虎牢関での戦いは、その武勇の限りを尽くして張飛、そして関羽と劉備の3人と互角に打ち合う『三英戦呂布』の場面は、敵として登場したはずの呂布がむしろ主役のような扱いの名場面。

 『軍門に戟を射る』は、弓術の見せ所。届くはずのない、当たるはずのない、遠く離れた戟の枝に見事に矢を当てて、みなを驚愕させる場面は圧巻。

 「方天画戟」を構え「赤兎」に跨る姿を勇壮に描く『演義』は、実は「悪逆非道」なはずの呂布を無条件では否定しておらず、「たしかに呂布はとんでもない男だ。短絡で暴虐だ。だが、覚えておけ。剛勇無双のこの男が、この時代にいたことを」と著者・羅貫中が主張しているような気がするのは、気のせいでしょうか。


 もうひとつ、挙げるなら小説上の呂布。

 『演義』もまた小説の一種ではあるのですが、これとは別に、呂布を高く評価している小説が人気を博したというのも理由のひとつに挙げることができるかも知れません。

 例を挙げるなら、北方謙三『三国志』。いわゆる「北方三国志」では、呂布は純粋な男として描かれているようです。「ようです」というのは、実は私自身、「北方三国志」を読んでいないので明確な答えが出せないからです。ただ、「三国志」に関するインタビューを受けた記事の中で、「揺【よう】」という架空の女性を登場させたことについて、

 男の女に対する想いっていうのは本当はもっと深い部分にあるというのを呂布を通して描きたかった。(中略)そういう男の純粋さを描いてみたんだよね。だから。最期も華々しく純粋に死んでいく。自分で書いてて、「これは読んだ人間は泣くな」と思ったもん(笑)。そういうのは故意じゃないけどさ……。

(『よみがえる三国志伝説 』別冊宝島編集部編:宝島社文庫)


 つまり、「北方三国志」に出てくる呂布は、あくまでも著者が「勝手に創り出した」呂布であって、実際に後漢時代にいた呂布の人生をそのまま描いたわけではない、あくまでもフィクションの存在にすぎないのです。もっとも、それは著者ご自身も述べているように、

 小説なんだから、できるだけ人物の造形は深く書きたいと思いましたよ。(中略)それで、別の輝きをもたせてみたいとなるわけです。

 あるいは、

 呂布も張飛も、なんとなくマザーコンプレックスがあるんだけどさ。この二人に関しては特に、俺の描いた呂布を見ろ、俺の描いた張飛を見ろって言いたいね。

(同書引用)

 愛読家、読書馴れしている方は、すぐにお気づきでしょう。

 お気づきでない方はもう一度、きちんと読み返してみて下さい。著者は登場人物を、実在のものとは「違う」姿に「意識的に」描いているということです。

 「別の輝きをもたせて『みたい』」「『なんとなく』マザーコンプレックスがあるんだけどさ」「『俺の描いた』呂布を見ろ」

 『』の部分です。

 どれも著者が勝手にそう思っていることであり、根拠はなく、勝手にそう描いたということです。しかしこれは当たり前の話で、これは事実を正確に記載した論文ではなく、あくまでも、著者が小説という形をもって何らかの主張を描いたもの。それこそが小説なのですから。この場合、題名こそ「三国志」で、舞台は後漢王朝末期から三国時代で、登場しているのも実在した人物が出てきますが、それらはすべて、小説上で創造されたもの。事実とは違うものであるということです。

 北方謙三がハードボイルド作家であるということで、その主張を体現する形で、「実際に存在した呂布」に「北方主張の呂布像」を混ぜ合わせたもの。それこそが、いわば「北方・呂布」であったり、「北方・張飛」であったりするわけです。

 私自身、『三国志』は読まなかったと言いつつも、北方謙三『楊家将』は読んだことがあり、ここに出てくる人物はその元となる『楊家将演義』に出てくるものとは微妙に異なります。著者お気に入りの人間たちが、非常に格好良く、あるいは逞しく、あるいは野蛮に見えても心が繊細であったり、ひ弱に見えても芯の強い人物に描かれたりしています。

 ただ誤解していただきたくないのは、こういう表現を否定しているわけではないのです。

 むしろ、それでいい。

 実際、『三国志演義』も、劉備や曹操が実在のものとは別の形で描かれています。劉備が大善人、曹操が大悪人。しかし、それはそれでいいのです。それこそが羅貫中の描きたかった「小説」であり、読者はそこに羅貫中の世界を見るわけです。それを事実と違うと非難する人は、フィクション小説が架空の設定を元として構築されていることを忘れていると言えるでしょう。


 ただ、それを元に、事実まで批判して欲しくないだけです。


 「呂布は繊細な人間だった」という人がいて、キチンと話を聞くと、それは「北方三国志」を元にしていると分かった、ということがありました。この人は、実在の呂布ではなく、「北方・呂布」を本当の姿と思い込んでいるわけです。だからと言って、「『演義』の呂布はウソ」とまでは言って欲しくない。「北方・呂布」が好きです、でいい。


 『忠臣蔵』というお話があります。正確には『仮名手本忠臣蔵』。

 これは赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩【あさの・たくみのかみ・ながのり】が、吉良上野介義央【きら・こうずけのすけ・よしなか】から受けた数々の嫌がらせに耐えきれず、「松の廊下」で斬りかかったことから切腹を言い渡され、後に藩の重臣だった大石内蔵助良雄【おおいし・くらのすけ・よしお】を始めとする「赤穂四十七士」によって吉良への復讐が成し遂げられるという話になっています。

 この話の中では、浅野は一方的な被害者であり、吉良は一方的な加害者であり、将軍・徳川綱吉【とくがわ・つなよし】や重臣の柳沢吉保【やなぎさわ・よしやす】は愚鈍で、「四十七士」は義士という形になっています。

 しかし、これはあくまでも「元禄赤穂事件」を元に作られたフィクション。

 浅野はワイロを嫌う純真さはあるものの、かなりの短気で頑固者で、人づきあいも悪い。吉良も悪逆どころか、地元ではいまだ明君として伝えられるほどの治世家。柳沢も儒学による文治政策を推し勧め、才能ある人物を愛した政治家。これらがすべてではないものの、『忠臣蔵』の中ではまるで別人のような扱いを受けているわけで、それらは物語を面白く語るうえで「わざと」捻じ曲げた姿というわけ。

 元禄赤穂事件の研究者は、これを踏まえた上で、良質な資料を元に事件のあらましを書いたりしています。

 しかしそこへ、高名な小説家などがフィクションである『忠臣蔵』を盾にして批判してはいけない、ということです。「浅野は純粋であった。廉潔であった」「民衆に心の底から愛されていた」とか「吉良は、赤穂の塩技術を盗もうとした」「おごり高ぶっていて、根が陰険」などなど、それは創作された姿であるのにまるで事実であるがごとく批判してはいけない。少なくとも、根拠ある論文を、根拠なき小説で批判されるのはおかしい、と。なぜ気付かないのかと言うと、それが鵜呑みの恐ろしさと答えておきます。


 呂布も同様で、おそらく「北方・呂布」に心酔した方々には、今回の特集の様々な場面において、私が呂布をかなりこっぴどく非難したり、褒めているようにみせて実は貶しているような箇所に出会うたびに、不愉快な気持ちになったかも知れませんね。

 でも、それは分かって書いています。

 しつこいようですが、北方批判でも『演義』批判でも、あるいはあらゆる小説批判でもありません。「北方三国志」はあくまでも小説であり、誰か特定の人物(この場合は呂布や張飛)を高く評価し、あるいは優れた人物として描き、著者の主張を具現するという態度は、小説家として正しいからです。

 そうではなく、「北方・呂布」がいて、「史書『三国志』・呂布」がいて、また「『三国志演義』・呂布」がいる。そういう棲み分けの上で、実際の(と言っても、あくまでも『三国志』で「そう描かれている」に過ぎないのですが)呂布を知ってもらって、「それでも、北方・呂布が好き」「北方・呂布の繊細さに惹かれる」と言っていただけるならば、それはそれで一向に構わないと思います。


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 では、呂布が繊細であったり、心優しい人柄であったり、純朴な男だったのかというと、それは違うだと思います。


 この男は、自分をあまりにも誇り過ぎる。


 誰かに手紙を送るたびに、毎度「董卓を殺した」と表現している。たしかに、朝廷をないがしろにし、勝手に『太師』の位まで奪い取った董卓を討ち取ったのは事実で、それも王允を経由して得た詔勅を元にしたものなので、彼は自他共に認める「救国の英雄」なのは確かです。

 でも、肝心なことを覚えていない。

 劉備が最後に指摘したように、呂布は「主君」の丁原を殺し、「主君」で「義父」の董卓を殺しています。それをすっかり忘れている。最初に袁術の元へ行こうとした時も、呂布は「袁家の仇を討ってやったのだから感謝しているはず」と思っている。袁術は「主君殺し」を理由に拒絶している。

 この食い違いがすべてを語っています。袁紹の元へ行ったときも、「受け入れてくれてありがとう」よりも先に自分の功績ばかりを誇り、袁紹の配下を小馬鹿にしている。


 その身勝手さを示すエピソードもあります。

 呂布が河内まで落ち延びたとき、匿ってくれた張楊に何と言ったか覚えていますか。


 張楊とその配下の諸将のもとには、「呂布の首を持ってきた者には賞金を与える」という、李傕や郭汜たちからの手配書が来ていたようです。そのため、彼らは呂布を殺そうとしたのですが、それを知った呂布は張楊に、

「お前とは同郷ではないか。同郷の者を殺したとなれば、お前の評判は地に落ちるぞ。それよりも、オレを高く売れ。李傕や郭汜たちから優遇され、高い位ももらえるぞ」

 それ以降、張楊は李傕や郭汜たちの言うことは表向きだけ聞いておいて、呂布を保護します。そのため、李傕や郭汜たちは不安になり、彼らは改めて皇帝からの特別の命令を発し、呂布を潁川郡太守に任じます。

嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(3)


 「ありがとう」でもなく「一緒にやろう」でもなく、「殺すな」と「高く売れ」です。さらに「高い位をもらえるぞ」です。

 こういうのを、「語るに落ちる」というのですよ、呂布さん。

 張楊の部下が呂布を殺そうとした、とあっても、張楊がそれに賛成していたかどうかは分かりません。袁紹のように手勢を準備していたわけでもない。呂布としては先手を打ったつもりでも、これでは藪蛇。むしろ、部下たちの中にはそんなことを考えてもいなかった人もいたはずで、その人たちが「呂布は恩知らず」と思ったとしても仕方なかったでしょうね。さらに言えば、張楊はこの後、洛陽から落ち延びた帝を助け、大司馬の地位までもらったのに、それを固辞して任地に戻ってしまっています(私欲がなかったのと同時に、権力争いから逃れるためという理由もあったので、必ずしも無欲だったとは言えないのですが)。だから、「高い位がもらえるぞ」というセリフは、実は呂布がその立場だったら「高い位をもらいたくて」そうするかも知れないという意思の現れであり、もしも呂布がそんなことを念頭に全くなかったら、決して出てくる言葉ではないでしょう。

 だから、「語るに落ちる」。


 ではどう言うべきだったのでしょうか。

 まあ、これは私なりのアレンジですが、

「李傕や郭汜がオレを狙っているは知っている。お前にも立場というものがあるだろう。お前のためになら、喜んでこの首を差し出そう。お前に殺されるならば悔いはない」

 せめて、このくらいのことを言いなさいよ。たとえ、本心でなくとも。

 張楊さんだって、そこまで言われたら呂布を命がけで守ろうとしてくれますって。後のこととはいえ、勝ち目も無く遠距離であるにも関わらず、呂布のために兵を繰り出そうとしてくれたほどの人に、あの言葉は無いですよ。


 劉備にかくまわれたときには一応のお礼は言っているものの、結局は裏切って領土を返さず、最後に言ったのは「こいつは信用ならない」。『演義』でも、『軍門に戟を射る』で助けてやったことは覚えていても、その前に流浪の身を匿ってくれたことや、領土を奪ったことはすっかり忘れている。

 だから、高順にあそこまで言われてしまうわけです。


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 その上、他人を評価しない。

 莒【きょ】城にいた琅邪国相の蕭建【しょう・けん】を攻めたとき、手紙を送ったという話を覚えておいででしょうか?

「天下(の諸侯)は挙兵し、董卓を討とうとした。わたしは董卓を殺して関東へ出てきたが、本当は西へ行って帝にお仕えしたいと考えており、洛陽へ戻りたいと思っているのだ。(中略)共に力を合せるべきではないのか。君は、郡にあって、帝のように振舞っているようだが、県にあって、県の王に過ぎないのだよ。昔、楽毅【がく・き】は斉の七十余りの城を支配下においたが、莒と即墨の二城だけが落ちなかったのは、田単【でん・たん】がいたからだ。わたしは楽毅ではないが、キミも田単ではないのだよ。わたしは手紙を送るが、智者であるキミならこれを読んで共に力を合せてくれることだろう」

嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(9)


 よくこれで蕭建が怒らなかったものですなあ。

 もっとも、怒り狂ったところでどうにもならなかったでしょうが。

 少なくとも、曹操ならこんなことは言わないでしょう。どの部分のことを言っているかというと、「わたしは楽毅ではないが、キミも田単ではないのだよ」です。この部分、サラッと読み飛ばすと「お互いに無茶をしてはいけない」と諭しているだけなのですが、「オレだって大したことないけど、お前だって大したことないじゃん?」と言い替えることが出来ますよね。曹操なら、こんなことは言わない。絶対に言わないと、断言してもいいです。

 では、曹操ならどう言うか。これも私の勝手な仮定であり想像ですが、

「あなたが田単のごとき名将であることは、私もよく耳にしている。私には楽毅ほどの才は無いかも知れないが、それでも数々の勝利を収めてきたのは、天が味方しているからであろう。いまここで争ったとしても、お互いに傷つきあい、決して無事では済まされない。それよりも、ここは互いに手を携え、国家のために力を尽くそうではないか」

 一言でいえば、「褒め殺し」です。

 相手を説得する手段の中でも、最も理解が容易いがこの「褒め殺し」でしょう。

 とにかく、褒めちぎる。わざとらしいと思われようが、徹底的に褒めちぎる。もちろん、そういうことを言われて喜ぶ人であることも前提条件に挙げられるでしょうが、昔の偉人にたとえられたら、しかも相手が力のある(あるいは高名な)人であれば、なおさら「おお、こんなスゴい人が、オレのことをこんなに高く評価してくれている」と、有頂天になっても不思議ではありませんね。

 呂布は最後に「智者であるキミならこれを読んで共に力を合せてくれることだろう」と、いかにも褒めているように書いていますが、これも裏を返せば「頭がいいなら、オレに従うはずだ」と言っているわけで、これもお願いというより恫喝に近いような気がします。


 評価をしない最大の相手は、やはり高順でしょう。

 戦に強く、忠誠心に溢れている。呂布はその才能も買っているし、忠誠心の高さも知っている。知っているのに、重用しない。これは、あまりにもひどい。

 能力を図り切れなくて、使うことができないのならば、使う側の見識が浅いというだけの話。それでも使われる側にはたまったものではないでしょうが。

 そうではなく、知っていて使わない。それどころか、疎んじる。疎んじて、兵を没収して魏続に預けるような真似をしておきながら、困ったときにはその兵を使わせて戦いに赴かせる。はっきり言って、これは使い走りにしか過ぎないでしょう。高順が文句を言わないのをいいことに、自分の都合だけで物事を進める。


 もうひとりは陳宮。

 ただ、陳宮の場合には最初から聞く耳を持たないという印象を受けます。付いて来たので、仕方なく使っているという感じ。曹操が攻めてきたときには、「以逸待労」なんていう定法すら無条件で蹴飛ばす。代わりに自分で策を講じれば(ただ、曹操軍を泗水に叩きこんでやると息巻いただけですが)、曹操軍に取り囲まれて何もできず、結局自滅しただけ。『典略』によれば陳宮は最後に、

「こいつがわたしの進言に従わなかったから、こうなったのだ。もし、従っていたのなら、捕虜にされずに済んだ」

嫌われ者の挽歌 - 呂布:最強の猛者(12)

 と、叫んでいます。つまり、そういうことなのです。


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 さて、ほとんど結論は出ているのですが、もう少しだけ続けます。

 「お前さんはどこまで呂布のことが嫌いなんだ?!」と言いたくなるかも知れませんが、こればかりは仕方がない。

 誰だか忘れましたが、「人物評は、好きで好きでたまらない人物か、嫌いで嫌いでたまらない人物を描くときが最も良い」というようなことを書いていました。自己解釈ですが、「好きで好きでたまらない」人物を書くときは、その人の良い点をひとつでも多く探し回り、悪い点も良い方向へ解釈しようとして悩み(悪い点を無視する人物評は見るに耐えられない酷いものになりますが)、結果としてその人物のいろいろな側面を見渡せる内容となるのではないのでしょうか。逆においても、とにかく嫌いでたまらないから、悪い内容に敏感に反応し、良い点ですら全体の評価を揺るがせることはなく(ここでも、良い点を無視するような内容ではいけませんが)、「こういう良い面もあるが、やはり悪い点の方が強いな」と、やはり様々な側面を見渡せるような内容になるのではないか、と思われるのです。

 もっとも、これが創作小説ならば、呂布を一貫して極悪非道の人物と描くことも可能ですが、むしろ評論というか随筆に近いこのスタイルでは、「彼にも良い点はある」ことを書かないと公平ではないのがジレンマです(と言いつつ、良い点が見つかったとしても不愉快に思うことがない一方で、やはり評価は上げられないなと思ってしまうことが、本当のジレンマなのですけどね)。

 

 後編では、私なりの「呂布の正体」について、結論付けます。


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