「夕暮れのポコチン」 田中研之輔

―— 書評『魔法のコンパス:道なき道の歩き方』西野亮廣 (2016)

 

 「俺のポコチンが、俺のポコチンが」と股間を触りながら、法政大学の女子大生に語りかける。ハラスメントコードのぎりぎり。女子大生も「えっ?」というような戸惑いの表情をみせている。

 

 もうだめか。これ以上突っ込むと、レッドカード。

 

 と感じた瞬間に、この男の語気がさらにエレクトしていく。マシンガントークならぬ、股間トーク。

 

 変態なのか、狂気なのか、はたまた。

 たんなるエロなのか。

 

 講演会のモデレートという立場上、この男の隣に座っていて、たしかに感じ取れたことがあった。

 

 「確信犯だ」と。

 

 声の大きさ、トーン、繰り出される身振り、このすべてがうまく配合されている。あのとき、あの局面では、「俺のポコチン」が一番効果的だったのだ。

 

 大学の境界を侵犯するアウトのネタだが、熟練された語り口により、いつまにか、会場全体は安堵と笑いの一体感に包み込まれていく。

 

 ハラハラ、ドキドキしたことを覚えている。

 学生がこれほど爆笑しているのを私はみたことがない。

 

 「とにかく面白い」ことを貫くために、

この男は、徹底的に、あたりまえの日常を「問う」ていく。

 

 箱根駅伝のランナーの凄みが画面を通じて伝わらないのは、

職務を全うする、表情一つかえない「白バイのおっさん」が悪いからだ(p.22)。代わりにママチャリを登場させよう。

 

 チェ・ホンマンとボブ・サップの世紀の巨人対決も平凡にみえた。というのも、レフェリーも巨人だったからだという(p.22)。

 

 ごもっともな指摘だ。

 

 言われてみると納得するが、われわれの多くは、自ら、その「問い」をたてることができないでいる。

 

 この男は、ポコチンではなく、

「問い」をたてることに、命を賭けている。

 

 「問い」は目の前の風景を創りかえていく、火種のようなものだ。ハロウィンでゴミ溜めとなってしまった、渋谷を『ゴーストバスターズ』のコスプレで集まり、清掃しちゃおうぜと呼びかける。

 

 そして実行していく。渋谷が綺麗になった。

 

 嫌われ芸人を標榜するこの男が、人を惹き付け、巻き込む力を持つのは、

誰よりも本人が楽しんでいるからだ。

 

 ネクラっぽさと、地も鳴るような大笑いを共存させる。

 

 変態仮面? ピエロ? ニシノ? 

 

 「好きなことをしよう」「夢を追いかけようぜ」と、次世代の背中を押すなら、

 お金の向き合い方、マネタイズの方法だって、教えるべきだ。

 

 お金を稼ぐなら、「徹底的に一緒に楽しんで、信用の面積を広げていく」ことだと、ホームレス小谷さんの生き様から読み解いていく。

 

 そうか、この男にとって「問い」と「答え」は、机上で導き出されるものではない。日常に埋め込まれたものであり、ひとりひとりの人間の生き様に刻み込まれ、そこで解き明かされるものなのだ。

 

 そんなとこまで行き着くと、「学びが究極に楽しい」に出くわす。学校嫌いだったこの男は、今では書籍をむさぼり読むという。

 

 「問う」ことを忘れて、社会の仕組みと、そこから逸脱しない行儀良さだけをみにつけてしまう。

 

 それがどんなに窮屈なことで、面白さの剝奪であるのかを、

 教えてくれるのも、「学び」なのだ。

 

 全国にいる、くそつまんない教師、やめちまえ。

 話すのがそもそもなってないんだから、教える資格なんてないだろ。

 この男はそんなことを思っているに違いない。

 

 だから、独演会ではもの足りず、『サーカス』という学校までつくってしまった。つくった学校があまりに面白いから、今は「町」をつくっているという。

 

 サイコロをふって、大学で「ポコチン」

 

 この男がなにやら気になってしまうのは、

 リアル人生ゲームを生きているからであり、

 誰もが、参加することが可能だからだ。

 

 この男も、何処に辿りつくのかわからない、道なき生を歩んでいる。

 

 方位の定まらない磁石=人生が、ふとしたときに、思いもしない展開をみせていく。

 

 それを『魔法のコンパス』とよぶのだから、誰もが手にしたいのだ。

 

 最後に一つだけ、確信がある。

 

 この男は、今日の夕暮れ時も、いきり勃っている。

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「数字力は、人生を豊かにするエッシェンシャルトリートメント」田中研之輔
 ———【読後感想】役員になれる人の「数字力」使い方の流儀 田中慎一著 2016

数字は冷たい。
数字は暴力。
数字は、一生懸命働いている人の笑顔を奪う。

本書を読み進めるに、思い出したくない苦い経験が浮かんできました。

 顧問先の経営会議に出ていたとき、1週間の全社員の取り組みがすべて数値化されて経営幹部に共有されていました。経営状況がなかなか苦しい局面でした。そこで共有される数字は、経営者層の期待には及ばないものでした。数字の共有が、社員を吊るし上げになっていました。それが常態化していました。クライアントとの関係作りのプロセス等は一切度外視され、すべて数値化され、社員の一週間が管理され、冷酷にジャッジされていました。

 数字は嘘をつかない。客観的な数字が提示されると、「反論の余地がまったくなくなる」(頁228)のです。社員をみていて、この職場で働き続けていくことは、相当にタフなことだろうなと感じていました。逃げるように転職していく社員もいました。

 今ならもう少し、社長に食らいつくと思います・・・・。当時の私はその様子を傍観することしかできませんでした。苦い思い出ですし、悔しい経験です。

 本書はこんな数字の<使い方>は間違ったものだ。
 ということをはっきりと教えてくれます。

* ビジネスの現場で、数字力でファクトを明らかにすることは、「経営課題を発見し、問題を解決することによって会社を少しでもよくしていくことを目的にしている」(頁228)

*「数字力によって特定の人のパフォーマンス不足を明らかにすることは、その人を非難したり責めたてたりするためではない。その人のパフォーマンス不足は何に起因するものなのかを明らかにし、どのような教育や方策を講じるのがよいのか建設的な議論を導くことが目的だ」(頁228)

 つまり、数字はつかい方次第で、凶器にもなるし、心温かいギフトにもなるということなのです。
 数字を間違って使ってはいけない。

 ビジネスの世界はシビアです。妥協は許されません。
 そんな真剣勝負に長年、身を置いていると、いつしか自覚症状なしに、数字を凶器として使う、経営者や経営幹部になっている方は、少なくないと思います。本書はそんな気づきの書として、管理職や役員クラスの人にも一人でも多く手に取ってほしいなあと思いました。

 というと、なんともハードルの高いまとめになってしまいますが、それだと本書の魅力の一面しか理解してないことになります。

 本書は実に練られています。読み易いです。
 冒頭から、「セクシーな数字力の世界へ」という田中節が炸裂します。セクシーという言葉の理解が著者と私で若干異なるようなので、そこはなんとなく、しっくりはきていないのですが(笑)。魅力的だということは、わかりました。
 数字力は、「何でも数字に落とし込んで理解する作法」だと定義されています。
 コンビニ、歯医者、お寺、日本で一番数が多いのは?という質問が出されます。一位は歯科医院だと思いました。不正解でした。
 「移民が増えると犯罪が増える」は本当?これも数字からファクトを導きだすと、答えがでてきます。
 数字には社会の諸相が浮かび上がります。数字力をみにつけることで、「思い込みの罠」から抜け出すことができると著者は述べます。
 世の中の現象を「数字」で把握し、仕事の現場を「数字」で把握していくことは、特殊スキルでもなくて、誰にでもできることだと教えてくれます。

 私は本書を読んで、数字力は人生を豊かにするのに不可欠なトリートメントのようなものだなと理解しました。

 さらに、本書のクライマックスで、
 数字力の真の価値は、「数字力によるファクトで納得させ、組織を動かしていくこと」(p232)にあると提言されます。
数字は温かい。
数字はギフト。
数字は、一生懸命働いている人の笑顔をふやしていく。
 数字に対して「思い込みの罠」に陥っていた私を救い出してくれた、そんな一冊です。おすすめですね〜。

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愛しきポケモン様

移動中のメール,twitter, facebook,Line, は、目的ある移動時間でのコミュニケーションの活性化。Instagramは、切り取りたい場面の記録と共有。これまでのサービスは、「人びとの動きを支配する」にはいたりませんでした。移動中のスムーザーでした。

今回のpokemon goが、凄い破壊力だなと思うのが、明らかに、おかしな立ち止まり方をして、ポケモンを探す人びとが相当数の数、空間に露呈されたことです。「ゾンビ」か?

 歴史的にみたら、これってかなり滑稽な現象です。

 ただ、もともと、「宝探しのわくわく感」を嫌う人はいませんし、「仲間を集めて、育ててるのも好き」という人間の本質的欲望のうまいところをついてます。もちろん、すでに実名性のSNSが、あたりまえですから、「トレーナー」として進捗を、シェアすることは簡単なのです。

 ペットを育てています。といっても、あっそ。だとは思うですが、誰もが等しく探しうるポケモンのトレーナーとして、ポケモン収集数、レア度、訓練度に秀でていくと、「高橋名人」以上の象徴価値を獲得することは確かなことです。

 ビジネスモデルとしては、ここから、「ポケモン中毒者」をどれだけ獲得するかに限っています。
 これだけ、フリーズが起きれば、「常識的なユーザー」は、離脱します。また、ある程度のリテラシーがあるユーザーは、「とりあえず、試しでやってみるか」の試用期間にすぎません。

 「ひきこもり」が外にでて、社会に復帰したという「ポケモンドリーム」は幻想です。「ひきこもり」はまた、ひきこもるでしょう。

 岩田社長って、生前このムーブメントを望んでいたんですかね? 

リビングゲームは衰退し、スマフォゲームにシフトしていくなかで、たしかに、スマフォを手に持つ現実世界のすべてを仮想世界に接合させていくことでの市場獲得の爆発力はわからなくはないですけど。もちろん、それが認められての、任天堂株価の爆増です。でも、これが歴史的なイノベーションだとは個人的に思えません。

なにか、むなしい。

近いうちに、交通事故、電車事故、ママチャリの衝突事故。続出して、それを防ぐ為に「ポケモン条例or ポケモン法」が制定されるでしょう。
 
叡智を集めて、創り出される渾身のサービスが、
本質的な意味で「ひとびとの生活を豊かにする」ことは難しいのでしょうか?

Pokemon Goが、「誰にでも愛されるキャラクターの集まり」ですから、
これだけの瞬発力をもちますが、「愛されるキャラクター」だから、「日常生活がハッピーになる」でしょうというハンケさんの言葉に疑いをもたないのですが。

愛らしいポケモンが悪魔にみえるのは、私だけでしょうか。
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