2008年の秋ごろ、ALSと診断された直後の事。


妻が、ALS協会の近畿支部の患者会に出席してみないかと

聞いてきた事がありました。

妻の考えとしては、これから自分の体がどうなっていくのか、

患者さんやその家族の方と会って、色々話を聞いて

心の準備をしておきたかったのかも知れません。


僕の考えとしては、そんなもん誰が会いに行くか。

ふざけるな!会いに行ってたまるかという気持ちでした。 

一流大学病院でALSと診断されたけど、

「俺は違う!他の患者さんと一緒にするな!」と

思ってました。

妻はALSという病気、現実を受け入れようとしてたけど、

僕は現実を受け入れようとしてなかったと思います。

だから、同病患者さんと会いたくなかったんだと思います。

この頃の病気の症状は両手だけで、

身の回りの事は自分で全てしてました。

そんな僕が、自分より病気の症状が進行した患者さんに

会えるはずがありません。

現実を受け入れようとしてなかった僕が、

車いすに乗っておられる患者さんや

人工呼吸器をつけておられる患者さんと会うという事は、

自分の目で現実を見るという事だったので、

そんな勇気も覚悟も、この頃にはなかったと思います。
「自力でこの病気を治してやる」と

思ってたくらいの僕ですから、

同病患者の先輩方に会えるはずがありませんでした。


そんな僕が、徐々に身の回りの事が出来なくなっていき、

訪問看護師さんやヘルパーさんを受け入れていきました。

2人目の子供が産まれ、妻がリウマチを発症して、

妻1人では僕の介護が出来なくなってきたからです。

最初はものすごく抵抗がありました。

他人にご飯を食べさせてもらったり、

着替えを手伝ってもらったり、

入浴を手伝ってもらったり。

トイレ介助なんて、恥の極みでした。


障がい者手帳の申請にも抵抗があり過ぎました。

自分が障がい者であるという事を認めたくなかったからです。



人工呼吸器をつけるという意思は訪問看護師さんに伝えてました。

本来なら、家族である妻や両親らと、

人工呼吸器をつけるのかつけないのかという話を

しなければならないのに、

僕は大して家族と話をしませんでした。

というより、出来なかった。

人工呼吸器という言葉があまりにも抵抗があり過ぎて。

父親からは、「わしより先に死ぬなよ!」と言われてました。

父親の気持ちは、この一言で充分過ぎるくらい伝わってきました。

僕は「何が何でも生きてやる」という気持ちより、

「死ぬのが怖い」という気持ちの方が大きかったかもです。


ある日から伝の心で同病患者の先輩方のブログを読むようになりました

同じ県内に住んでおられる同年代の同病患者さんのブログを読んでて、

この方に会ってみたくなりました。

人工呼吸器をつけて在宅で生活されてる患者さんでしたが、

ブログには楽しい事ばかり書いておられたし、

「戦争映画好き」という共通の趣味もあったので、

何の抵抗もなく会いに行く事が出来ました。


その後すぐに風邪をひき気管支炎、肺炎になって

2012年8月、人工呼吸器をつけて胃ろうを増設しました。



それから1年後くらいに、今度は僕に会いたいという

同病患者さんが出てこられました。

ブログで知り合った同年代の患者さんで、

スカイダイビングが趣味のクレイジーな方でした(笑)

ジェットコースターですら苦手な僕には、

想像も出来ない趣味です^_^;

まだ人工呼吸器をつけるかどうか迷っておられた方でした。

人工呼吸器をつけた僕に会うのには、

ものすごく勇気も覚悟もいっただろうなと思います。

この方もその後、人工呼吸器をつけて胃ろうを増設して

在宅で生活されてます。




ALS患者に

「生きたいですか?死にたいですか?」と尋ねたら、

多くの患者さんが「生きたいです」と答えられると思います。

ALS患者の家族に

「生きてほしいですか?死んでほしいですか?」と尋ねたら、

多くの家族の方が「生きてほしいです」と答えられると思います。

でも、生きたいけど、、、。

生きてほしいけど、、、。

経済的負担、患者本人の肉体的、精神的負担や

家族の介護負担などの問題で

人工呼吸器をつけないという決断をされる方が

圧倒的に多いそうです。


この悲しくて厳しい現状がなんとかならないかなと思ってます。

死んでしまった命までは、「夢の万能細胞」とされる

iPS細胞でも救えないはずです。

「生きてこそ」です。

長々と書きましたが、これが言いたかったのです。

家族だけに介護を頼らなくてもいい方法も

あるという事を知ってほしいです。