『フラッシュフォワード』 | 手当たり次第の本棚

『フラッシュフォワード』


その一瞬、地球上の人類全てが、21年先の未来を見た……!
2分に満たない僅かな時間だが、全く同じ21年後のその時の自分をかいま見てしまった。

これだけなら、物語としては、かなり微妙に思う。
たとえば、本作の中でもひとつの問題として後半提起されるのだが、地球上となれば、当然地域によって時差がある。
つまり、その瞬間、全人類のうちの何分の一かはそれが深夜にあたったため、眠りについていた。
いずれにせよ、21年後の自分がその時たまたま眠っていたり、あるいは残念ながら死んだりしていた場合は、何も見る事ができなかった。
それに、見えたものがなんらかの意味を持つかどうかはほんとに運次第だ。

たとえばね、今から10分前に何をしていたか考えてみてほしい。
ごはんを食べてた?
単に着替えかなんかしてた。
トイレにいっていた。
そういう時、見ていたものから、なにか重要な情報は得られると思うか?

もちろん、たまたまニュース番組を見ていたり、重要な情報を含む何かを見聞きしていたり、
今はないけどその時間差の間に発明されたなにかを使ったりしているかもしれない。
その場合、その情報はとても価値のあるものとなるのかもしれない。

逆に、こういう事もあり得る。
21年後の自分は、どうも思いもよらない人と結婚しているようだ!
(それは、今現在の魂約者とは別人かもしれない)。
今の自分は成功した人物なのに、21年後の自分は、とんでもなく落剥していた。
死んでこそいないものの、不治の病におかされていたり、不具になったりしていた。
そういう情景を見知ってしまったら、どうする?

この現象「フラッシュフォワード」は、ある実権が、非常に特殊な条件下で行われた場合にのみ発生するものである事がわかるが、人々は、見た「ヴィジョン」にふりまわされてしまう。
啓示を受けた者もいるし、自分がその時選択しようとしていた事に、疑問を持ってしまった者もいる。
また、主人公の一人は、21年後のその時、自分が銃撃により殺されていた事を知ってしまう。

「ヴィジョン」そのものは、全く同じ情景を別の立場から見た人々が存在する事によって、妄想でないと判断されるのだが、科学者が対立する。
未来は変更不能なのか?
それとも、可変なのか?

さて、これはご推察のとおり、一種のタイムトラベルものだ。
普通、タイムトラベルものといえば、未来に行くのはNG。
過去にさかのぼって、未来を変える事を是とするかどうか、あるいはそれが成功するかというのを模索する事になる。

しかし本作では、まず「未来」を見せてしまい、
その未来に到達するまでに、見たものを変更できるのかどうかという事が、ドラマになるわけなのだ。

未来は、変えられるのか?

作中、主人公の一人は、多くの宗教で、未来は不可変のものだとされていると主張し、例として、新約聖書の中でイエスが当局に捕らえられる直前、弟子ペテロに向かって、夜明けまでに三度、おまえは私を否定するだろうと告げた部分について触れる。
実際、ペテロは、夜の街を逃走しながら、三度にわたり、「イエスなど私は知らない」と口にする。

しかし、作中では触れられていないが、たいていの宗教は、未来を可変なものとして扱っているはずだ。
なぜなら、もしそうでなければ、人間が罪を犯す事を戒める事ができないからだ。
「そのような悪い事をすれば、地獄に堕ちる」
と威すのは、善行をつめば天国とか極楽に行けるという事であり、
それは、人が善行を積むか、悪行をなすかによって、未来が変わるという事になるはずだからだ。

さて、21年後の未来はどうなるのか?
この、「ヴィジョン」が実現するのか(未来は可変かどうか)には、主人公たちの、ロマンスと、殺人と、ふたつの事件がからむ事で、大変ドラマティックになる。

ソウヤーはやっぱり、物語を紡ぐのがうまい……!

さて、本作、なぜ今頃新装版が出たのかというと、「海外ドラマ専門チャンネルAXNにて2010年初夏、日本独占初放送決定!」(腰帯より) という理由によるらしい。
映画じゃなくて、TVリーズだそうだ。
うぅ~ん、ドラマだと内容はだいぶ変わるんだろうけど、どんな風に展開されるんだろう?
ちょっと見てみたいね。


フラッシュフォワード (ハヤカワ文庫 SF ソ 1-12) (ハヤカワ文庫SF)/ロバート・J・ソウヤー
2010年1月15日新装版初版