『夢の手ざわり』 夢のなかを歩き、夢に触れる | 手当たり次第の本棚

『夢の手ざわり』 夢のなかを歩き、夢に触れる

「夢」と、ひごろ人は簡単に口にするが、それはいったい、何であろうか。
夢のなかでは、なにもかもが、とてつもなく奔放である。
ドキドキする、
チリチリする、
冒険する、
うれしい、
こわい、
かなしい、
それら全てが日常感じるレベルよりさらにハイレベル、またはディープなのだが、
不思議や、必ず、そこにある世界と「我」の間には、一枚のガラスがあるがごとく、
感覚にワンクッション置かれており、
たいへんもどかしい思いもする。

これはまさしく、そのような夢の世界を、ことばと文字でつづろうとしたものかと思う。
詩によっては独特のリズム感が重視されているため、脳内ででも良いから、音読してみるのが良い。
ただし、それは、心地よいリズム、たとえばワルツの三拍子であるとか、ロックのビートのきいたリズムとは違う。もっと荒削りな、または、うまく舵取りできずによろめいているかのような、
まさしく、夢の中で泳ぐように歩いているかのような、
そういう不規則なリズムだ。

聞くところによると、たとえばオーストラリアやニュージーランドの原住民は、ドリームタイムで時を過ごし、目覚めている間は見えないものを見るという。
また、北米原住民は、「夢を歩いて」重要な掲示を得るのだそうだ。それは、しばしば、自分を発見するためのクエスト、その原点となるそうな。

されば、夢とはいったい、人間にとって、何を意味するのだろう?
おそらくそれは、正気では受け止める事ができないほどの「真実」を、
ワンクッションおいて、
人に示しているものではなかろうか?

もちろん、人によって、見る夢の断片はそれぞれ違うのだけれど。
また、その夢をどれほど感じようとしているかも、人によって違うのだけれど。

森山恵は、いわば、そんなおそろしい夢の世界にどっぷりと全身を浸してみている。
いみじくも、荘子が夢と現実を、違うものであって、かつ、交換可能なものであると示唆しているが、
森山恵の世界では、夢と現実は、その水平線で相互に少しずつ混じり合っているかのようにも思われる。

高く、高く飛び、
オレンジ色の小鳥のさえずりに耳をすませ、
夏の空の青さにきりきりと昇りつめ(あるいは落下し?)、
そしてまた、高く登り詰めたのと同じほど、深く深く、夢の闇に沈んでみる。

詩に親しむうち、読むものもまた、深い海の底へと沈み、まどろみそうになるかもしれない。

とはいえ、この詩は、いわば夢を歩く者の「旅行記」であるから、
誰もがそれを手にして夢の中に入っていって、同じ道をたどるとは限らない。
道は同じでも違う景色が広がっているかもしれない。

さて、どうでしょう。
薄青く、向こうは青黒くすらある、夢の世界に踏みだしてみたいですか?


森山 恵
夢の手ざわり―森山恵詩集
2005年11月15日新刊