『雨柳堂夢咄1~2』 非常に秀逸な幻想譚 | 手当たり次第の本棚

『雨柳堂夢咄1~2』 非常に秀逸な幻想譚

妖怪だの、幽霊だのが登場する話といったら、
「それって、ホラー?」
とっさに、そう思うのではないか。

また、幽霊だの妖怪だのといったものは、なんとなく、人の命や生活を害するというイメージがあったりしないか?

そういう、黒い闇の中の物語は、たしかに、ホラーの主流を占める。
だが、なかには、幽霊のはかなさ、哀しさを描き、あるいはもののけや妖怪の幽玄な美を追究するものもあり、それらは、確かに少し怖いところもあるけれども、不思議と美しい。
いわば、それらは、青い闇に属する。

青い闇、ようするに、たそがれということで、この曖昧模糊とした光の加減と時間帯が、実に日本人の美意識に、よくマッチするのだ。
そこに、「滅び行くものの美しさ」が重なると、もう、これはたまらないね。

ところが、不思議と、あまりそういう物語は描かれない。
なぜだろうなあ。
アップ系のわくわくどきどきがないと、エンタテイメントではない、というような風潮が、現代の日本にはあるからかもしれない。
ゆえに、このシリーズがとても貴重なのだ。

さて、もののけだが。
もののけとは、「物の気」。
ただし、この場合の「もの」は、物体としての「もの」ではなく、万物に宿る種々雑多な「霊」をさす。
けっこう範囲の広い言葉で、河川草木の精霊であることもあれば、人間の生霊や死霊であることもあり、また、古い器物に宿ったり生じたりするやつってこともある。

でも、古い器物といったって、なんでもかでも「もの」を宿すわけではない。
もしそんな事になったら、ゴミ捨て場は大変な事になってしまう(いや、短いサイクルで使い捨てられたものは、ものを宿す以前の問題だろうが)。
器物がものを宿すのは、それを所有したり使ったりした人の「思い入れ」を種にするのだ。
思い入れは、別にプラス方向のものでなくてもよい。
悲しみというような、マイナス方向のものってこともあるな。

そんな風に、「もの」を宿した古いものが自然と集まってくる骨董店、雨柳堂が物語の舞台となる。
それらの「もの」と感応することができる、店主の孫を語り手として、ものにまつわる物語(文字通り、「もの」が語ってたりするが)、それをつづっていくわけだ。

目次--------------------------------------------
花椿(カメリア)の恋
宵待ちの客
十四夜の月に
我儘な名品
花に暮れる
太郎丸
金色の鳥
朝顔写し
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はつ恋鏡
夜の子供
昼さがりの訪い
雛の宵
猫王
白露の壺
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1巻と2巻には、それぞれ、「おひなさま」にまつわる話が1篇ずつあり、どちらもなかなかステキだ。
また、なぜかどちらも、江戸末期の太夫が美しく描かれている。
女雛と、吉原の太夫。
う~ん、なんともいえないとりあわせ。ミスマッチのようでもあり、なかなか美しくもあり。

ミスマッチというのは、「おひなさま」というと、幸せな母娘、という図式が思い浮かぶが、吉原の太夫と言われると、結婚とも、子供とも、あるいは女親とも縁の薄い存在をイメージさせる。
しかし、ミスマッチの妙は、ある意味、日本的美の特徴でもあるからねえ。

物語は、そのミスマッチさをうまく利用したもので、2篇あって甲乙付けがたい。

もうひとつ、この2巻のうちで私が好むのは『夜の子供』だ。
幸薄い乳母の娘と、お嬢様の絆が、美しい刺繍の帯に象徴されているのだけれども、産まれてすぐに死んでしまった二人の子供が、
「子供を授からないお嬢様(もちろん、すでに人妻)のところに生まれ変わりますように」
という、乳母の娘の願いが込められているわけですよ。
それだけだと、なんだかお涙頂戴なのだが、願いをこめて刺繍されたふたりの唐子(中国人の子供の意匠)が、「もの」となってあらわれる。
この唐子たちの、やんちゃな性格が、非常に微笑ましく、
「もののけでも、こういうやつはすげー面白いよな」
と、思わず笑ってしまうような、コミカルさを秘めたストーリーになっているのだ。

そしてまた、こういう物語に、波津彬子の絵柄というのは、ぴったりなのだなあ。


波津 彬子
雨柳堂夢咄 (其ノ1)
雨柳堂夢咄 (其ノ2)