『下妻物語 完』 大人になるために、自分を変える必要はないということ
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すると、いきなし、「イチゴが殺人犯??」とある!
はい?
いきなり、ミステリですかぃ?
ちょっとびっくり。
だが、違う。
たしかに殺人事件は発生するし、
イチゴがその犯人と疑われるし、
桃子が探偵っぽい事をしてみたりするのだが。
そして最後には、真相を解き明かしたりもするのだが!
でも、ミステリじゃないよ。
ちがう。
じゃあ、なんで殺人事件なのだ。
そう問いたい気はするが、ヤンキーという、ある意味では、ヤクザ予備軍であり、元ヤンキーからヤクザになっちゃった人々まで登場する物語では、「さほど」突拍子もない事ではないのだろう。
それより、やはり、この物語とは、子供から大人へと変化しつつある、微妙な年頃の少女の、心の動きを描いたものなのだな。
言うなれば。
前作で、まさしく、そういう、はざまの年齢にある彼女らの、赤裸々な姿を内面外面とりまぜて描いたような状態であるのだけれど、では、ほんとに大人になる事を拒否する事はできるのか?
それとも、結局ふつうの大人になってしまうのか?
そこは、まだ、語られていなかったんだよな。
ヤンキーなり、ツッパリなり。
彼ら全てが「そうだ」とは言わないが、
そうやって「大人社会」に抵抗するティーンは、桃子のようにしっかりと考えているのであれ、あるいはイチゴのように直観でつかむのであれ、
大人が与えるものではない、自分なりの「将来」を模索しているのだろう。
だからこそ、パクリに関するイチゴの怒りは、生きてくるのだ。
イチゴは、彼女が見ている大人のパクリのような、大人になりたくないんだな。たぶん。
いっぽう、桃子はもうちょっとフクザツ。
好きなブランドの社長に気に入られて、ぜひぜひ、自分と一緒に働いてほしいと懇望される。
でも、桃子にはためらいがある。それはなぜ。
桃子自身は、ロココ主義者として、労働はしたくないのだし、
そのブランドのファンである自分が優先であって、作る側に立ってしまったら、その「自分」が失われてしまうかもしれない、と語る。
だが、作り手の方にまわるという事が、自分の趣味だけで制作できるという事ではないというのを、桃子は知っているから。
それが、すなわち「大人の世界」に自分をあわせなくてはいけない事だと桃子は感じているから。
だから、ためらうのだろうと思う。
最終的に、彼女らは、それぞれの選択を行うし、それは一見、
微妙なお年頃である彼女らが、大人へと成長する、その一歩を踏み出す。
そんな風にも見える。
とはいえ、実際のところ、彼女らの選択は、いずれも、
「大人になる、でもそれは、今までの自分を変えるという事ではないのだ」
と納得するところに発しているのじゃないかな。
いやあ、『下妻物語』は、深い。
そして、軽い。
深いだけでなく、軽いだけでもない、そういうところが、魅力なのだなあ。
嶽本 野ばら
2005年7月20日新刊