【わたしが死について語るなら 山折哲雄】 名文でつづる「人生のはかなさ」 | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。


 明治以前の文章家のなかで、平易達意の名文家は、
 筆者不明の「歎異抄」と、
 室町末期に本願寺を中興した蓮如上人(白骨の文章)
 宮本武蔵のほかにはみられない。

        (真説 宮本武蔵 司馬遼太郎)


名文とは、
分かりやすさ、読みやすさと、
時代を超えた普遍性を、兼ね備えたものだと思います。



■わたしが死について語るなら/山折 哲雄

・私が実感した「死」


浄土真宗では、蓮如上人(親鸞の子孫で、浄土真宗中興の祖)が
お経のような漢語ではなく、ふつうの人にも分かりやすいように書かれた
「白骨の御文章」
(「白骨の御文(おふみ)とも言う)を書きのこしました。

お通夜や葬儀など、人が亡くなった特別の法要の席で、
独特の節をつけて詠まれるものです。

両手を合わせ、頭を垂れて聞く「御文章」は、
親しい者を失ったばかりの人の心に深くしみわたります。


それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、
おおよそ はかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、
今日とも知らず、明日とも知らず、
おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、
朝(あした)には紅顔ありて、
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり

既に無常の風来りぬれば、すなわち
二の眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李の装(よそおい)を失いぬるときは、
六親・眷属 集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。



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儚い一生とは、夢のような人生。


豊臣秀吉の辞世が思い出されます。

「おごらざる者もまた久しからず
  露とおち 露と消えにし 我が身かな
   難波のことも 夢のまた夢」


権力や財、地位や名誉はどれだけ得られても、
手にした喜びはどれだけ続くだろう。
死を前にしたときのそれは、満足の元か、後悔の種か。

何を求めるべきだったのか、
根なし草のように風のまにまにあっちへ揺れて、こっちに流れ、
気づいたら、あっという間の幕切れに。

そんな、浮世に流されて終わる生き方を、
「浮生なるすがた」と言われているのかもしれません。



毎日のように、救急車で運ばれてくるのは
老若男女を問いません。

当たり前と思っていた日常は、
決して日々常なるものではなく、
無情なほどに無常です。

特に交通事故は、
いつ自分も同じ目に遭うかもしれない・・・。

医者も、常に患者になりうる可能性をもつ存在であることを
忘れないように自戒しています。

それが、患者さんに少しでも寄り添うことになると思うから。



老少不定、諸行無常は世の習い。
世の習いだけれど、一大事。

決して他人事ではない悲劇と向き合わねばならないところが、
医者という仕事の重さだと思います。

日々、生きるとは何か、死ぬとは何かと問われ続けているような、
命と引き換えのメッセージが発せられているような、
そんな気がします。

自分は、どれだけそのメッセージを受け取れているだろう。

患者さんとの出会いを無駄にしないためにも、
これからも、死生観を深め、学んでいきたいとおもっています。