【なぜ生きる】「老後のことは老後になってみにゃわからん、つまらんこと」とは誰も言わないのに・・・ | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

レクイエム(鎮魂歌)というのもあるし、

慰霊祭も色んな国でもやってるし、

そんなの無意味だ、と主張する人もいないし、

死後は無いっていう説の方がマイナーなのかもしれません。




■なぜ生きる

「老後のことは老後になってみにゃわからん。
 つまらんこと」とは、誰も言わない


「死んだ後なんかないよ」と言いつづけている人でも、
知人や友人が死ぬと、
「ご霊前で」とか、「ご冥福をいのります」と言う。
「霊前」は故人の霊の前であり、
「冥福」は土の幸のことだから、
いずれも死後を想定してのことである。
果ては「安らかにお眠りください」「迷わずに成仏してください」などと、
涙ながらに語りかけられる。
遭難のときなどは、空や船から花束や飲食物が投げられるのも、しばしばである。
単なる儀礼とは、とても思えない。
その表情は深刻で、しぐさも神妙なのだ。

毎年八月に戦没者の慰霊祭が執行される。
通常なら、幸福な相手を慰めるということは、ありえない
その必要がないからである。
死者の霊が存在し、慰めを必要としている、と言う心情がなければ、
これらの行事は成り立たないはずだ。
死後を否定しながら冥土の幸福をいのる
なにか否定しきれないものがあるのだろう。

「社交辞令だよ」と笑ってすませられるのは、
肉親などの死別にあわない、幸せなときだけにちがいない。

「死んでからのことは、死んでみにゃ分からん。
 つまらんこと問題にするな」

と言いながら、有るやら無いやらわからない、火災や老後のことは心配する
火事にあわない人がほとんどだし、
若死にすれば老後はないのに、火災保険に入ったり、老後の蓄えには余念がない。

「老後のことは老後になってみにゃわからん。つまらんこと」
とは、誰も言わないようだ。
火災や老後のことは真剣なのに、
確実な未来を問題にもしない自己矛盾には、まだ気がつかないでいる。

「考えたって、どうなるもんじゃないよ」
「その時はその時さ」
「そんなことを考えていたら、生きていけないよ」


頑固に目を背けさせる死には、
無条件降伏玉砕か、大なるアキラメしかないのであろうか。

元気なときは、
「死は休息だ」「永眠だ」「恐ろしくない」と気楽に考えているが、
“いざ鎌倉”となると、先はどうなっているかだけが大問題となる。

死後は有るのか、無いのか
どうなっているのやら、さっぱりわかっていない
お先真っ暗な状態なのだ。

この「死んだらどうなるか分からない心」を、
無明の闇」といい、また、
後生暗い心」ともいわれる。
「後生」とは死後のこと。「暗い」とはわからないこと。
死後ハッキリしない心を「後生暗い心」とか「無明の闇」といわれるのである。



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死んだらどうなるか?

死んだら無になる、というのは、

心情的には受け入れがたいものがある。


でも、じゃあどうなるのか。

天国に行けるのか、地獄に堕ちるのか。


どれもウソ臭く、信じにくい。

信じられるんなら、まだ楽なんだろうけど。


問題なのは、「ハッキリしない」こと。

「分からない」ままになっていること。

どうなるやらわからない不安を抱えたまま、

どうせ、考えてもどうにもならない、

と問題を放り投げて、先送りし、誤魔化して、

正面から向き合おうとしない。


そうしている内に、時間だけが過ぎていき、

向き合わざるを得ないときが近づいてくる。





【なぜ生きる 明橋大二】
 死の宣告を受けた時、大問題となるただ一つのこと


【国民の道徳 西部邁】
 安楽死・尊厳死が、本当に本人の精神にとって安楽かどうかは分からない


【パスカル パンセ】
 「未来に光がない」から、いま「何の幸福も存在しない」ということになる