たかが「食」されど「食」 | 秋桜花子の独り言

秋桜花子の独り言

日常のちょっとしたことをボチボチ綴っています

子どもの頃から家での食事は母が手間暇かけて調理した物を食べて育った

父が店屋物をあまり好まず「美味しくなくても手間暇かけて家で作って欲しい」という人でした

その父の母、私からすれば祖母ですがこの人もマヨネーズすら家で作る人

その様な環境もあったのでしょうね

私の食に対する思いが重いが

 

食物は「命のリレー」と考えています

植物であれ動物であれその命をいただいて「私」という命を生かしていく

命と言うバトンを受け継いで別の命を生かしている

だとするといい加減な思いで「食」を扱ってもいいのかな?と疑問が頭を過ぎる

もちろん受け取る側も感謝の思いを忘れず「他者の命をいただいて生かされている」事に気が付くべきだしそれを提供する側もそのような思いをもって提供するべきではないかなと

 

例えば同じ食材同じ味付けで

機械的に作られた食べ物とそれを食べる人のことを思い心を込めて作った物とを食した場合果たして同じ様な美味しさなんでしょうか

私は自分のことを思って作ってくれて料理の方が断然美味しく食べられると思います

例えば外食したとしましょう

厨房の見えるようなお店で目の前で調理されているのが見えるようお店だとしましょう

厨房の中のスタッフが何故か仏頂面でぎすぎすした空気が漂う中で調理された料理と

スタッフが笑顔で和やかな雰囲気の中で調理された料理とどちらの料理が美味しく食べられますか?

 

美味しく食べられるだけではありません

食事をすることでその食材から「元氣」を分けてもらうんですよ

料理として口に入るまでいろいろな人の手に受け継がれていく中で

マイナスなエネルギーを浴び続けるとその様な氣を纏った物になるだろうし

プラスなエネルギーを浴び続けるとその様な氣を纏った物になると思うんです

ですので同じ口にするのであれば元氣になれるプラスな氣を纏った物をたくさんいただきたいと強く思います