『神曲』地獄巡り42.この世の悪銭が疥癬となった亡者たち | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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 地獄界の第8圏谷は、「悪の袋」という意味の「マレボルジェ(Malebolge)」という特別な名前を持っていて、濠の形をした十の袋(ボルジャ、bolgia)で形成されていました。詩人ダンテは、この圏谷の描写には特別に精力を傾けていて、全『地獄篇』の三分の一を割り当てていました。ダンテとウェルギリウスの二人の長いマレボルジェの旅も、ようやく最後の第10濠に足を踏み入れることになりました。

 

  シングルトン(Charles S. Singleton)による注釈書に添付されている白黒図形に筆者が、色づけ加筆したものです。(The Divine Comedy, Inferno 2:Commentary, Princeton U.P. p.313の対面頁)。


アリギエロ一族のベルロ家のジェリィ

 

 「お前は、まだ何を見ているのか?(Che pur guate?)お前の目線は、なぜまだ、肉体を切り刻まれた陰鬱な亡霊たちのもとにあるのだ?((perché  la vista tua pur si soffolge là giù tra l'ombre triste smozzicate?)」(『地獄篇』第29歌4~6)と、ダンテはウェルギリウスから厳しい口調で問われました。するとダンテは、次のように答えました。

 

 いままで私がじっと目をすえていたあの谷の奥には、私の血縁の者が一人、恐ろしい償いを払わねばならぬ罪に泣いているにちがいないと思うのです。(『地獄篇』第29歌18~21、平川祐弘訳)

 

 ダンテが「私の血縁の者(mio sangue)」と呼んだのは、ジェリィ・デル・ベルロ(Geri del Bello, ?~1280)のことです。ウェルギリウスから「お前が、昔オート・フォールを支配していた者に気を取られていたので、見逃したのだ(Tu eri sì ・・・impedito sovra colui che già tenne Altaforte, che non guardasti)28~30」と指摘されて初めて、ダンテは親族のジェリィの亡霊がいたことを知りました。すなわち、オート・フォールの支配者ベルトラン・ド・ボルン(Bertran de Born)が自分の首を提灯のようにぶらさげて歩いている怪奇な姿に度肝を抜かれて、会いたいと思っていた親族を見過ごしてしまったのです。
 

                                        ダンテの家系図

上に添付しました「ダンテの家系図」を参照すれば分かりやすいのですが、ジェリィはダンテの父親アリギエロ(ダンテの曾祖父も同名なので「1世」と「2世」を付けることがあります)の従兄弟に当たります。そのベルロ家のジェリィという人物についても、『神曲』に登場する他の同時代人と同様に、詳しい経歴は知られていません。そしてわずかな伝記らしき物も、すべて『地獄篇』の次の記述から推測されて作られた可能性が高いようです。

 

 ああ先生、彼の非業の死は《と私はいった》その一族郎党にとってはやはり恥辱ですが、その復讐を一族の誰も果たしておりません。それで彼は、私に腹を立て、思うにそれで、私に口もきかずに立ち去ったのでしょう。それだけに不憫な気がするのです。(『地獄篇』第29歌31~36、平川祐弘訳)

 

 この詩行の解読を基にしてジェリィなる人物を推測すると、彼は、地獄の第8圏谷第10濠に落とされているので、生前は分裂分派を引き起こす原因を作った人間なのでしょう。そしてその結果、彼は「非業の死(violenta morte)」を遂げましたが、ダンテを含めてアリギエロの末裔たちは彼の敵討ちをしていない、という情況が考えられます。そのダンテの記述を、当時の文人ラーナ(Jacopo Della Lana, 1290~1365)がダンテの息子ヤコポ(Jacopo di Durante degli Alighieri, 1300~1348)と共同で書いた『神曲』の注釈書の中で説明しています。
 

 このジェリィという人物は、話術に長けていて、人々の間に諍いを起こして楽しむ男であったようです。彼は、ボローニャの教皇派貴族ジェレメイ家の一人を殺害したので、その報復として、1280年に彼も殺害されてしまった、とラーナは書いています。また一方、彼らよりもわずかに後の歴史家ベンヴェヌート(Benvenuto da Imola, 1320? ~ 1388)は、ジェリィが手に負えないほどに党争を好む男でしたので、フィレンツェの貴族サッケッティ(Sacchetti)家の者に殺さたのですが、しかしその時には、まだ彼の復讐はされなかった、と書いています。ラーナ説よりもベンヴェヌート説の方が信憑性が高いと評価されています。なぜならば、ダンテが「まだ彼のために復讐をしていない(non li è venicata ancor)32」と書いているからです。ジェリィの仇討ちが行われたのは、それからおよそ30年後でした。ジェリィの兄弟メッセル・チョーネの息子(すなわちジェリィの甥)たちによって、サッケッティ家の屋敷内で、その家の者を殺害したことによって復讐が果たされました。アリギエリィ家とサッケッティ家の両家の諍いは、1342年に和睦が結ばれて、ようやく終結しました。その時のアリギエリィ家の立会人は、ダンテの異母兄弟フランチェスコとダンテの二人の息子ピエトロとヤコポであったと言われています。

 

地獄巡りに許される時間は残り6時間

 

「もうすでに月は私たちの足の下にある(già la luna è sotto i nostri piedi)私たちに許されている時間はもはやわずかだ(lo tempo è poco omai che n'è concesso)」(10~11)と、早く次の第9圏谷へ進むようにとダンテは促されました。現在、ダンテと共に私たち読者が立っている地点と時点を確認しておきましょう。ダンテが暗黒の森に迷い込んだのは聖木曜日の夜でした。そして次の日の昼ごろまで、敏捷な豹、怒り狂った獅子そして餓えた牝狼に怯えながら森をさ迷っているとき、ウェルギリウスが助けにやって来ました。そして、聖金曜日の日没のころ、ダンテはウェルギリウスに導かれて地獄門をくぐり冥界への旅に出発しました。ちょうど満月が昇ろうとしている時刻でした。

 

 

 

   次に『地獄篇』の中で時刻が明示されるのは、第20歌の終わりです。満月が西の海に沈む頃、すなわち太陽が東に昇る頃で朝6時頃、ダンテたちは第8圏谷第4濠を出ました。そして、現時点は、月は足の下にあります。ということは、現世では太陽が真上に位置している正午ということになります。これから先は、日没前に地獄を出て、復活祭の夜明けには煉獄に到着していなければなりませんので、地獄に留まることが許されるのは残り6時間だけになっています。それゆえにウェルギリウスは、ダンテを急き立てているのです。

 

 

ダンテもかかった伝染病マラリア

 

 一族のジェリィ・デル・ベルロの亡霊に出会えなかったので、後ろ髪を引かれる思いで第9濠をあとにして、マレボルジェの最後の濠の回廊(ultima chiostra di Malebolge)に辿り着きました。その濠の中に閉じ込められた亡者たちの「異様な呻き声が矢のように飛んできました(lamenti saettaton me diversi)43」。その矢は憐憫(pietà)で作られていたので、ダンテは耳を塞ぎました。その時の悲惨な情況は、次のようなイタリアで起こった疫病の蔓延に喩えています。

 

 七月から九月にかけてヴァルディキアーナ、マレンマ、サルジニアの施療院で出る悪疫をみなあわせて一つの谷につめたならば、苦患(くげん)もこうなるかと思われた、惨状はまさにそれだった。悪臭が立ちのぼる、腐敗した屍体が放つ臭いだ。(『地獄篇』第29歌46~51、平川祐弘訳)

 

 悪の溜まり場である第8圏谷には、この世で犯した罪科ごとに十種類の刑罰に分けられていました。その中で最も重く厳しいものが、疫病に冒されて身体が腐敗するという第10ボルジャの拷問です。その疫病の喩えとして、7月から9月の間の真夏の時期に、イタリアの沼地の多い地域で発症する伝染病患者を上げています。ダンテの時代には、ヴァルディキアーナ、マレンマそしてサルジニア(サルディーニャのラテン名)は沼の多い土地であったようです。しかしそれらの地域で起こった伝染病はマラリアであったと言われています。ダンテ自身もマラリアに感染して死亡していますので、中世時代のイタリアには流行していたようです。

マラリアが流行した地域

 

贋金造りの懲罰

 

 第8圏谷マレボルジェのそれぞれのボルジャ(袋、濠)には、イエスが十字架に架かって死んだ時の叫び声で橋が崩れた第6ボルジャを除いて、すべての濠の上に岩橋が架かっていました。ダンテたちは、濠の底へ下りる時は橋を渡った向こうの土手から下りました。この圏谷の全体構造が奥へ進むほど低くなっているので、必然的に堤の壁も奥の方が低くなっているからです。


 彼らが土手を下りるにつれて、谷底の様子がはっきり見えてきました。そこには「高き主に仕える絶対に誤りのない裁きをする女官が、現世で書き留めている(書物に従って)偽造者たちを罰している(la ministra de l'alto Sire infallibil giustizia punisce i falsador che qui registra)55~57」光景が見えてきました。日本でも閻魔大王が閻魔帳に記載された罪状に従って裁きを行うように、『ヨハネ黙示録』ではイエス・キリストが最後の審判の時に「命の書物」に記載された罪業に従って裁きを行います。その書物については、次のように記述されています。

 

 死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。数々の書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これは命の書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれていることに従って、裁かれた。(『ヨハネ黙示録』第20章12)

 

 ダンテの詩句の中には「書物」という単語は使われていませんが、「ここで彼女が記帳している(qui registra)」という表現は「命の書」を暗示しています。ダンテはさらに『天国篇』(第19歌113~114)においても、「彼らの恥ずべき行為がすべて記載された書物(quel volume … nel qual si scrivon tutti suoi dispregi)」と「命の書」を明確に表現しています。そして、上述の「絶対に誤りのない裁きをする女官(la ministra infallibile giustizia)」とは「正義」の比喩であると解釈できますので、マレボルジェの第10ボルジャの懲罰は「命の書」に記載された罪状に従って行われると予告しているのです。

 

ペストのパンデミック(大流行)

 

 1321年にこの世を去ったダンテには知る由もなかったのですが、1346年にアジアで発生したペストがシルクロードを伝って、1348年にはヨーロッパ中に大流行(パンデミック)して、海を隔てたイギリスでも黒死病と呼ばれて大量の感染者と死者を出しました。ダンテよりも一世代後のボッカッチオは、まさしくそのパンデミックの真っ只中にいて、『デカメロン』の中でその有様を鮮明に描いています。ダンテの描く第10ボルジャの悲惨な光景と重なるところがあるので、少し長くなりますが、その概要を下に載せておきましょう。

 

 神の子が肉体に結実してから1348の歳月を数えたときのこと、イタリアの美しい町々のなかにあってもひときわ秀でた花の都フィオレンツァに、死の疫病ペストが襲いかかってきた、天の球体の運行のなせるわざか、あるいは私の罪業に怒りを覚えて神が死すべき人間たちに正義の裁きをくだされたためか、その数年前に東方の各地に発生して、かの地において無数の人びとの命を奪い、とどまるところを知らぬ勢いで、つぎつぎにその行先を変え、やがては恐ろしいことに西洋へ向かって、それはひろがってきた。これに対して人間の側にはろくな才知もなく、何の予防も甲斐なく、もとより都市は特別の係り官を任命して、彼らの手ですべての汚物を浄めたり、城壁の内部へ一切の患者の立入りを禁止したり、衛生を保つためのありとあらゆる措置を講じたり、加えてまた敬虔な願も一再ならずかけられ、行列も整然と組まれて信心深い人びとの群れがひたすら神への祈りを捧げたが、それにもかかわらず、前述した年の春早くには、身の毛もよだつばかりの苦患の効果が現れはじめ、目を覆うばかりの惨状を呈しだした。ただし、東洋におけるごとくに、避けられぬ死の徴候として初めに鼻から血を出したのとは異なって、病気の初期の段階でまず男女ともに鼠蹊(そけい)部と腋(わき)の下に一種の腫瘍を生じ、これが林檎大に腫れあがるものもあれば鶏卵大のものもあって、患者によって症状に多少の差こそあれ、一般にはこれがペストの瘤と呼び習わされた。そしていま述べたように、身体の二箇所から、死のペストの瘤はたちまちに全身にひろがって吹きだしてきた。その後の症状については、黒や鉛色の斑点を生じ、腕や腿や身体の部分にも、それらがさまざまに現れて、患者によっては大きくて数の少ない場合もあれば、小さくて数の多い場合もあった。こうしてまず最初にペストの瘤を生じ、未来の死が確実になった徴候として、やがて斑点が現れれば、それはもう死そのものを意味した。(『デカメロン』第1日の序、河島英昭訳)

 

机上のペスト・パンデミック

 

 ダンテは、ボッカッチオのように本当に激しい疫病の大流行を体験していません。彼が現実に知っている疫病は、ヴァルディキアーナ、マレンマ、サルジニアなどで流行したマラリアで、しかも病死者は施療院(spedale: ospedaleのトスカナ語)の中に溢れている程度でした。ボッカチオが目撃したような路上に屍体が転がっている光景を、ダンテは実際に観ることはなかったようです。ダンテが描いているペストの惨状は、肉眼で観たのではなく、机上のものでした。ダンテが獲得した疫病の情報源は、ギリシア・ローマ神話だったのではないでしょうか。彼はオウィディウスの『転身物語(Metamorphoses)』から素材を取った直喩を、疫病で苦しむ亡者たちの次の描写に使用しています。

 

第10ボルジャの錬金術師の刑罰

(14世紀のフィレンツェの細密画、パリ国立図書館所蔵)


 アイギナの島で人々がみな病に倒れた時、瘴気(しょうき)は空中にみち、獣はもとより小さな虫けらにいたるまでみなばたばたと倒れた。詩人たちの言によると、先住の民はその後、蟻の卵から蘇ったのだという。だがその時の悲惨な様も、この暗い谷間で亡者たちが気息奄々(きそくえんえん)と折り重なって倒れている光景には、とうてい及ばなかったに相違ない。ある者はうつ伏せに、ある者は仰向けに、ある者は人の上に横になり、またある者は四つんばいで悲惨な道を匍って行く。(『地獄篇』第29歌58~69、平川祐弘訳)


 ダンテが採用している「アイギナ伝説」は、『転身物語』(第7巻453~660)に描かれたギリシア・ローマ神話の中でも疫病で有名な物語です。その概要を述べておきましょう。

 

 その神話に登場する王の名はアエアクスです。彼は、大神ユピテルとアソプス河神の娘アエギナとの子でした。因みに、トロイア戦争の二大豪勇アキレウスとアイアースはアエアクスの孫に当たります。その王は自分の治めるオエノピア島を、母に因んで「アエギナ」と改名しました。ユピテルの正妻神ユノは、彼女の恋敵アエギナの名前の付いた島を憎みました。ユノ女神は、アエギナの島中に疫病ペストを蔓延させました。国民は最初は医術で対処しようとしましたが太刀打ちできませんでした。4ヶ月の間、濃い霧と暑さで地上を覆って人間の体力を消耗させました。沼地からは瘴気が漂い、大量の蛇が棲息して水を毒で汚染しました。家畜だけでなく野獣までも倒れて、森や田畑や道にまで動物の屍が溢れました。そしてその屍体は腐敗して毒気を遠くまで漂わせました。
 ついに疫病は人間にまで感染するようになりました。まず最初の被害者は農夫たちでした。そして城壁の内部まで疫病が蔓延ってきました。病状は悲惨で、まず内臓が熱に焼かれ、皮膚が赤く焼かれ、舌は荒れて腫れあがり、唇は熱で乾ききって有害な空気を吸うばかりでした。感染者たちは、ベッドも被り物を嫌いました。顔を直に地面につけて熱を冷まそうとしましたが無駄でした。とうとう医者たちまで疫病に感染して倒れていきました。もはや疫病を癒やす手段はただ死ぬことだけでした。感染者たちは川や泉や井戸に横たわり水を飲み続けましたが、喉の渇きはいやされることはなく、水の中で命が果てました。そして死体の浮かんだ川の水を飲む者もいました。ユピテル大神への祈祷も効果はなく神殿の中にも死体が積まれました。そして死者を弔う葬儀さえ行うことができなくなり、死体が国中に放置されるようになりました。ついにアエアクスの王家の者を除いてアエギナの国民はすべて死に絶えてしまいました。
 疫病の猛威が終わった後の物語は、ユピテルによるアエアクス王の民の復活劇です。アエアクスは、父であるユピテルに「偉大なる父よ、私のもの(民)を返してください、さもなくば私も墓へ埋めよ(magne pater, aut mihi redde meos aut me quoque conde sepulcro)617~618」と祈りました。するとユピテルの神木である樫の木に無数の蟻が群がっているのが見えました。そこでアエアクスは父ユピテルに「同じだけ多くの民を私に与えよ、そして空っぽの城壁内を満たせ(todidem ・・・ mihi da cives et inania moenia supple)627~628」と懇願しました。するとその蟻たちは大きくなって地面から立ち上がり人間の姿になりました。そしてまた、アエギナの国を民で満たしました。蟻のことを『転身物語』ではラテン語で書かれていますので「フォルミーカ(formica)」となっていますが、本来はギリシア神話なのでギリシア語で「ミュルメークス(myrmēx)」となります。アエアクス王は自らの民のことを蟻から生まれたので「ミュルミドネス(Myrmidones)」と呼びました。アキレウスがトロイア戦争に連れて行ったプティーア民族を「ミュルミドーン(Myrmidōn)」と言いましたが、二つの国民は同一視されています。

 

 ダンテが『地獄篇』で描いたアイギナの疫病の描写よりも、オウィディウスの『転身物語』の描写のほうが遥かに残酷な情景が描かれています。その原因は、ペストに感染して死んでいった大流行の惨状をダンテが肉眼で観ていなかったからでしょう。実際のペストのパンデミックを体験したボッカチオとは異なり、ダンテにとってペストの流行は机上の惨劇だったのです。


この世の悪銭が皮膚病のかさぶたになった亡者たち

 

 ダンテとウェルギリウスは、身を起こすこともできない病人を眺め、呻き声を聞きながら(guardando e ascoltando li ammalati che non poean levar le lor persone)、 言葉も交わさないで一歩一歩(passo passo sanza sermone)進みました。すると次のような光景が目に入ってきました。

 

ウィリアム・ブレイク作「錬金術師の刑罰」


  頭から爪先まで斑目にかさぶたにおおわれた男が二人、〔黒焦げの〕底と底を重ねて暖める二つの鍋のように、互いに背中あわせに坐っているのが見えた。主人がお待ちかねというので〔急いで〕馬に櫛を入れる馬丁や、徹夜は真っ平と思って〔急いて〕いる男にしても、この二人が、どうにも救いようのない痒さのあまり、怒り狂ったようになって爪で疥癬(かいせん)のかさを掻き落とす様には及びもつかなかった。爪が疥癬のかさを掻き落とす様は、鯉やその他の魚の大きな鱗を包丁でかき落とすのとそっくりだ。(『地獄篇』第29歌73~84、平川祐弘訳)

 

  普通は考えつかないのですが、第8圏谷マレボルジェの十種類の刑罰の中で最も重い体罰は「どうにも救いようのない痒さ(la  gran rabbia del pizzicor)」(直訳:「物凄く激しい痒み」、現代イタリア語では‘la grande rabbia del pizzicore’)なのです。煮えたぎる瀝青の中に漬けられる刑罰毒蛇に咬まれる刑罰身体を切り刻まれたり首を切り落とされたりする刑罰などよりも、ダンテにとっては「痒さ」という刑罰の方が重いと感じられたのです。
 中世時代は、ノミやシラミが身体に付くことは普通で、痒さとの戦いは重要だったことでしょう。またダンテ自身が、何らかの痒さを伴うアレルギー性の疾患を持っていたかも知れません。疥癬とまでは言わないまでもアレルギー性皮膚炎でも痒くなれば掻きます。掻きすぎると炎症を起こし、治癒すればかさぶたが張ります。そのかさぶたが「鯉の鱗や、それよりも大きな鱗を持った魚の鱗(di scardova le scaglie o d'altro pesce che più larghe l'abbia)」のような形になり、それを爪で掻き剥がすという行為は誰もが体験することではありますが、精神的にも肉体的にも激しい苦痛をともないます。

注:「鯉(スカルドヴァ:scardova)は、現代イタリア語では「スカルドラ:scardola」と言います。また英語では「ブリーム:bream」と呼ばれます。ヨーロッパの河川に棲息するコイ科の魚で50㎝前後で、最長では90㎝にもなります。
   ダンテは「かさぶた(瘡蓋)」を「スキアンツェ(schianze)」という用語を使っていますが、現代では廃語になっています。現代イタリア語では「クロスタ(crosta)」と言います。

 

痒さに悶える二人のイタリア人

 

痒さに悶える二人のイタリア人の生活の場所

 

 ダンテは、二人のイタリア人と話すために、「君たちについての記憶(memoria)が最初の世界(primo mondo=現世)で人々の脳裡(mente)から消え去らないで、多くの年月の間(sotto molti soli)、生き続けることができるように、君たちが誰で、どこの家の者(di che genti)か私に言ってくれ(103~106)」と話し掛けました。天国と煉獄にいる霊魂たちが、現世の者たちに自分たちのことを覚えていてほしい、と願うのは理解することができます。しかし地獄に落ちた亡者たちまでもが、現世に自分の記憶を留めていてほしいと願うのは、『地獄篇』の難解な問題です。(「『神曲』地獄巡り41」の「自分の首を提灯にしてぶらさげた男」の箇所を参照。)
 

 醜悪で嘔吐しそうな刑罰(sconcia e fastidiosa pena)を受けているにもかかわらず、一方の男が「わしはアレッツォ出身だった(Io fui d'Arezzo)」と言いながら近寄って来ました。彼の名前は、作品中では最後まで名乗られることはなかったのですが、早くから「グリッフォリーノ(Griffolino)」という名の魔術師のことである、と指摘されてきました。さらにその男は、「錬金術師」だとも言われています。その根拠は、ダンテがその男を第10ボルジャに堕として、しかもダンテ自身もその男に「わしが現世で行っていた錬金術のために(per l'alchimia che nel mondo usai)119」最後のボルジャに堕とされたと言わせているからです。そのグリッフォリーノは、ダンテに次のように告白しました。

 

 アルベロ・ダ・シエーナが俺を火あぶりにした。だが処刑されたのと同じ理由でここへ落ちたのではない。俺が話しながら冗談に「空を飛ぶ術を心得ております」といったのは事実だ、すると好奇心は強いが常識の乏しいその男がその技の実演を俺にせまった。俺はダイダロスのように飛べなかったばかりに、奴は息子扱いにしている男に命じて俺を焼き殺した。だが十ある濠の最後の濠に俺は落とされた、現世で贋金造りだったという理由だが、ミノスの判決だ、間違いはあるまい。(『地獄篇』第29歌109~120、平川祐弘訳)

 

 実際には、グリッフォリーノという人物に関しては、『神曲』に登場するほとんどのイタリア人と同様に、歴史的に残る著名人というわけではありません。ダンテの次世代の歴史家ベンヴェヌートや『無名のフィレンツェ人たち(Anonimo fiorentino』などに、グリッフォリーノについての逸話が紹介されています。どの話もダンテの上の詩行が先入観となって書かれている要素も多いのですが、それらの著述を総合して、その概要を紹介しておきましょう。


 グリッフォリーノは、ダンテと同時代人で、アレッツォの工匠たちの師匠(magister:イタリア語, magistero)でした。彼は自然科学にも錬金術にも精通していました。また彼は、狡猾な男でしたので、シエナの司教の養子になっていたアルベロに近づいて、抜け目なく親交を結びました。そしてグリッフォリーノは、アルベロから金品を絞る取る方法を知りました。グリッフォリーノは、卓越した話術を弄して、軽薄なアルベロを信用させてから、人間でも鳥のように空を飛ぶ方法を知っていると申し出ました。富裕なアルベロは、グリッフォリーノに空の飛び方を教えてくれるように頼みました。その様なことはグリッフォリーノにもできるはずもなく、彼は冗談だと言い訳をしましたが、馬鹿にされたと思ったアルベロは激しく怒りました。父親の司教に頼んでグリッフォリーノを宗教裁判にかけてもらいました。その裁判で、グリッフォリーノは、アルベロを馬鹿にして侮辱しただけなのに、魔術を使う異端者として火刑に処せられました。

 

 以上がグリッフォリーノとアルベロに関した逸話です。しかしダンテは、グリッフォリーノが火刑になったことには納得していないので、その亡者の罪を「魔術・魔法」を使ったのではなく、狡猾な錬金術師の「虚偽・偽造」の罪により、地獄の第10ボルジャに落しているのです。


ダイダロスとイカロスの物語

 

 因みに、ダンテが空を飛んだ者の喩えとして上げている「ダイダロス」は、ギリシア神話中の最も優れた名工として知られた人物です。迷宮ラビュリントスを建造し、またノコギリや斧や接着剤のニカワや船のマストなどの発明者と言われています。ダイダロスの最も有名な発明は飛行機です。ダイダロスは、クレタの迷宮に住むミノタウロスを退治するために来たテセウスを助けたために、ミノス王の怒りに触れて息子イカロスと共に迷宮内に幽閉されました。しかし、ダイダロスは、自分自身と息子のために、鳥の羽を麻糸と蝋で接着した翼を造りました。そして二人は飛び立ちましたが、息子イカロスは高く飛び過ぎて、太陽に近づき過ぎたために、接着剤が溶けて翼が壊れてしまい、海に落ちて死んでしまいました。ダンテは第7圏谷から第8圏谷へゲリュオンに乗って下りる時、イカロスの神話を次のような直喩に使っています。

 

 可哀想なイカロスが、蝋が熱せられて腰から羽が抜け落ちていくのを感じていると、父親が「お前、間違った進路を取っているぞ」と大声で叫んだ時も、この怪獣(ゲリュオン)を除いてすべてが視界から消えて、周囲が大気だけになっているのを感じた時の私のもの(=恐怖:paura)ほどではなかった。(『地獄篇』第17歌109~114、筆者訳)

 

 ダンテのみならず中世以後の詩人たちのダイダロスとイカロス親子の神話の原典は、オウィディウスの『転身物語』です。その作品の第8巻の183行目から235行目まで53行が、その逸話の箇所です。迷宮に幽閉された父と子が飛行の翼を考案して脱出しますが、周知の悲劇が起こってイカロスだけが海へ墜落して死亡します。父によって最寄りの島、後にイカロスの名に因んで「イカリア」と呼ばれるようになった島に埋葬されました。

 

もう一人の錬金術師


 アレッツォ出身のグリッフォリーノがシエナ人アルベロを評して言った「好奇心は強いが常識の乏しいその男(quei ch'avea vaghezza e senno poco)114」という言葉は、ダンテ自身がシエナ人たちに抱いていた個人的感情でした。さらにダンテは「今までにシエナ人ほど虚栄心の強い民族がいたでしょうか(fu già mai gente sì vana come lasanese?)121~122」と悪口を言っています。ユリウス・カエサルの時代からすでに、世界で最も虚栄心の高い民族と言われていた「フランス人でもまったく到底及ばない(certo non la francesca sì d'assai)123 」ほどシエナ人の虚栄心は強い、とダンテは言っているのです。現代では「おしゃれ」といわれる服装が、当時は「虚栄心」とか「見栄張り」と考えられていたようです。歴史家ベンヴェヌートによれば、カエサルは、しばしば、フランス人(ガリア人)は首の周りにネックレスを巻き、腕にはブレスレットを着け、先の尖った靴をはき、短い衣服を着ていたり、その他にも多くの虚飾を張っている、と言っていたようです。

 

 ダンテがシエナ人の悪口を言っているのを聞き付けて、グリッフォリーノと背中あわせに坐って身体を掻きまくっていたもう一人の男が話し掛けてきました。その男の名はカポッキオ(Capocchio)と言いました。彼もまたダンテが採り上げていなければ歴史に名を残すような人物ではありません。彼は、シエナ出身という説もありましが、フィレンツェ人であったとするのが通説です。ただカポッキオの場合は、シエナ国立文書館(Archivio di Stato in Siena)に保管されている1292年8月3日付けの記録文書に、1293年に錬金術の罪でシエナにおいて火刑にされることになると書かれています。真偽の程は定かではありませんが、ベンヴェヌートは、ダンテとカポッキオとの驚くべきエピソードを紹介しています。カポッキオはフィレンツェの有能な工匠でした。とくに金属を使って模造する技術に長けていました。ある聖金曜日のこと、修道院の回廊で独り、指の爪にキリストの受難の物語を描いていました。そこへやって来たダンテは、その出来映えの見事さに感嘆しました。すると即座にカポッキオは、その絵を舌でなめて消してしまいました。その絵が余りに素晴らしかったので、それを消したカポッキオをダンテは叱りました。このエピソードは、ダンテがカポッキオを高く評価していたことを示そうとしています。しかしもしこの話が真実ならば、ダンテがカポッキオを地獄の第10ボルジャに堕としていることに疑問を感じます。
 
 ダンテのシエナ人たちへの悪口に同調して、カポッキオは皮肉を込めてシエナ人の贅沢な生活振りを次のように言いました。

 

 ストリッカは別だろう、あいつは金づかいがひどく几帳面だったぜ、ニッコロもちがう、あれは丁香(ちょうじ)の贅沢な効能を最初に発見した男だ、その種は〔シエーナの〕菜園に根をはっている。それから例の一行も別だ、カッチャ・ダシアーノは森や葡萄畠を売り払い、アバリアートは才智のほどを示した。(『地獄篇』第29歌125~132、平川祐弘訳)


 ストリッカ(Stricca)という亡者が誰なのかは同定されていませんが、いろいろな人物の名前が推測されてはいます。シエナの教皇派の有力貴族トロメーイ家の者であったとか、シエナの皇帝派貴族のマレスコッティ(Marescotti)家の者であったとか言われています。しかし最も有力な説は、1276年と1286年にボローニャの司法長官(ポデスタ)を務めたシエナのストリッカ・ディ・ジョヴァンニ・デ・サリムベニ(Stricca di Giovanni de' Salimbeni)という人物です。また彼は次に名指しされているニッコロ(Niccolò)とは兄弟で、共にジョヴァンニ・デ・サリムベニ(Giovanni de' Salimbeni)の息子であろうと推測されています。

 

浪費家クラブ員ニッコロ

 

 ストリッカの兄弟ニッコロ(Niccolò de' Salimbeni)は、シエナの「浪費家クラブ(Brigata Spendereccia 英語Spendthrift Club)」などと名乗って、贅沢三昧を自慢していた道楽者の集団に加わっていました。このクラブ(ブリガータ、brigata)は、13世紀後半の一時期、贅沢することを主義とした12人の金持ちの若者によって構成されていたと言われています。社会からは冷ややかな視線を浴びながらも、贅沢の極みを尽くしました。そのクラブは、月に一、二回豪華な宮殿を借り切って、豪勢な宴会を催しました。彼らは、あらゆる種類の珍しい料理を楽しみました。そして、宴会が終わったら、そこで使用した金銀の食器や装飾品を窓から捨て去りました。そのクラブ員の中でニッコロの名を高めたのは、ダンテも書いているように「ちょうじの贅沢な使い方を最初に考案した(la costuma ricca del garofano prima discoverse)」ことでしょう。現代でも漢方薬として使用されている高価な「ちょうじ(丁子、丁香、英語ではclove、ダンテではgarofano)」を燃やした火で、キジやその他の鳥をローストして調理したといわれています。またいろいろな香料を調合して新しい味を作りだした食通でもあったようです。ニッコロのことは、ダンテと同時代の詩人フォルゴーレ・ダ・サン・ジミニャーノ(Folgóre da San Gimignano, 1270~1332)が賞賛しています。その詩人もまた、「浪費家クラブ」に加わっていたといわれていますので、現存している彼の詩の多くはシエナの享楽的な生活を賛美する内容で満たされています。そして「浪費家クラブ」を詠った最初のソネットで、ニッコロを称えて「この王国で、私はニッコロに王冠を与えよう、彼はシエナの国の花だから(In questo regno Nicolò incorono perch'elli è 'l fior della città sanese)」と歌っています。(フォルゴーレについては、河出書房出版の平川祐弘訳『神曲』の中で、平川先生が詳しく解説されています。旧版(世界文学全集2)は389頁から392頁に、新版(河出書房新社)は629頁から632に書かれています。)

 

 カポッキオの亡霊が次に名をあげたのは、カッチャ・ダシアーノ(Caccia d'Asciano)という男でした。確かに彼は、いろいろな記録文書に名前が載ってはいるようですが、詳細な人物像は不明です。ダンテが書いているように、葡萄畑と土地財産に大金をつぎ込んだと言われています。
 次に上がった名前は、アッバリアート(Abbagliato)でした。この名前は、イタリア語の「目を眩ます」という意味の動詞「アッバリアーレ(abbagliare)」から作られた「浪費家」を呼ぶときのニックネームだったと言われています。彼の本名は「バルトロメオ・フォルカッキエリ(Bartolommeo de' Folcacchieri)」で、個人名から「バルトロ」を省略して通称「メーオ(Meo)」と呼ばれていました。彼もまた浪費家クラブの会員で、シエナの高い官職に就いていました。ダンテは、彼のことを「アッバリアートが思慮分別のあるところを示した(Abbagliato suo senno proferse)」と言っていますが、その真意は明らかではありません。彼は1278年に居酒屋で酒を飲んで罰金を払った、という記録が残っていると言われています。居酒屋での飲酒は、浪費家クラブ員には違反行為なので、罰金はそのクラブに払ったのではないでしょうか。その行為を指して、ダンテは皮肉を込めて、「一般庶民と同じ思慮分別を示した」と表現したのではないかと解釈されます。

 シエナ人の虚栄心の強さを皮肉っていたカポッキオも、彼自身のことを「わしは自然を使った何と立派な猿だったことか(com'io fui di natura buona scimia)」と言って、彼の言葉を閉じています。古今東西、「猿(scimia,現伊ではscimmia)」という動物は「物まねをする動物」という意味を持っていましたので、「立派な猿」とは「偽造の達人」と同義だと解釈できます。第10ボルジャのこの区画にいた亡者たちは、貴金属という自然物質を偽造した罪科で刑罰を受けていました。すなわち、錬金術師や贋金作りだったのです。

 

 ブログの主な参考文献:
チャールズ・シングルトン編注の『神曲:地獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)と、パジェット・トインビーの『ダンテ辞典』です。
原文:C.S. Singleton(ed.) “Inferno”2:Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols, Princeton U.P.
P. Toynbee (Revised by C.S. Singleton) “A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of Dante”Oxford U.P
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