71 極左暴力革命家が大好きな「民族系政治家」石原慎太郎 | 日本人の進路

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71 極左暴力革命家が大好きな「民族系政治家」石原慎太郎








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石原慎太郎

 「民族系」 

石原は共産党とも通謀していないし、KGB系でもないし、北朝鮮とも関係していない。この点では、いかがわしい他の民族系論客に比すれば、評価される。  


石原慎太郎01















福田和也

北朝鮮人の血統

慶応大の中核派に席を置くこれまた過激極左暴力革命家、幸徳秋水系のアナーキスト

札付きの全共闘のマルキスト


福田和也01
















宮台真司

北朝鮮人で麻薬の常習者で中核派の過激暴力革命家

札付きの全共闘のマルキスト



宮台\001

















猪瀬直樹

信州大学全共闘委員長で社青同(現在の革労協)のゲバ学生

札付きの全共闘のマルキスト



猪瀬直紀01
















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71 極左暴力革命家が大好きな「民族系政治家」石原慎太郎

2010年01月22日 19:37







 石原慎太郎といえば、一時は、日本の「保守」を束ねられそうな、そのリーダーの一人に嘱目されていた。「石原新党」などとの、石原サイドが流した嘘情報に、政界の一部と無教養な民族系の人々が色めきたっていた頃を思い出せば、石原人気がかつてはそれなりのものだったことが思い出のように確認できよう。

 しかし、オリンピック招致に失敗し、自民党が惨敗して政権を追われた二〇〇九年八月末以降の石原慎太郎は、枯れ尾花のようであり、薄汚くなった負け犬のようであり、石原裕次郎とまではいかないが、そのイケメンの顔からオーラが消えた。
このような石原について、そろそろ総括する時期であろうから、ここで少し論及したい。だが、石原慎太郎を論じるのは、この連続論考のモチーフであるインテリジェンスやカウンター・インテリゲンスからは脱線するので、トピックとしては、少し適当ではない。特に、石原は共産党とも通謀していないし、KGB系でもないし、北朝鮮とも関係していない。この点では、いかがわしい他の民族系論客に比すれば、評価される。
 
 


しかし、「民族系」と括られる、俗に言う「保守」人士がいかに“保守”ではないか、いかに知的水準が低いか、それを証明するサンプルとして、石原慎太郎の「幼児的な無責任と無教養」のひどさを明らかにしておくのは、無駄ではあるまい。

 石原は、2010年1月4日付けの産経新聞での連載コラムで、福田和也の『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』に言及して、日本を嘆いていた。が、石原が嘆くべくは、まず石原自身の幼児的な思考と目を覆う無教養さではないのか。
 福田和也は、北朝鮮人の血統であり、その体には頭を含め、日本人の血は流れていない。   


 この福田の本も、一読すれば、在日の「反日の外国人」が、日本人の質的な劣化を軽蔑し嘲笑し、それをさも嘆いているかに見せる文芸であるのはすぐにわかるはずである。福田和也が日本に対して抱く、本当の信条は、次のように、「日本国をこの地球から消し去り、祖国を喪失した日本人がすべてを失って虫けらのようにこの地球上を放浪し這いずりまわっている」光景に、貶めたいのである。次の文章は、福田が侵略してきた外国人としての「北朝鮮人」であるとは示しても、日本人だとであると示唆するニュアンスはひとかけらもないが、こんなこと誰にでもわかる。   


   「日本(=国ではなく、日本列島のこと)は漂泊者(=日本人のこと)たちの家郷である。侵略、夜逃げ、押し売り、強盗、脱走は、日本人の特技である。日本人は罪を知らず、日本人は倫理も哲学も知らない。」
「失え、日本人よ。失い、失い、空の空たる虚無の中で、その温かい腸から、静かに歌(=屁)を響かせろ」(『グロテスクな日本語』、1995年)。
 



 要は、福田の正体を見抜けない石原慎太郎ら文学者は、本を書く商売だが、ほとんど本を読まないからだろうが、それにしても、福田は「石原慎太郎は幼稚だ」と嘲笑しているのに、逆さ読みした、産経新聞での石原の福田評は、お粗末も限度を越えていよう。石原慎太郎の読解力には欠陥はなはだしい問題があり、この意味では石原の実態は、幼稚で劣悪な無教養人だといってもよい。それとも石原は、自分を「ヨイショ」する“ゴマスリの名人”には、コロリと騙される、そのような軽薄な人物なのだろうか。  


 福田和也には、石原慎太郎に阿諛し追従する、その一手に絞った石原慎太郎論がある。『石原慎太郎の季節』(飛鳥新社、2001年)である。これは当時の石原の人気を活用して、自分の論壇で力を得ようとする福田和也流の世渡り術のひとつである。

福田は常日頃、自分のゴマスリは、標的にしたものを必ず一発で仕留める、誰にも負けない才能があると豪語するが、確かに彼のこの自慢は、事実においてオーバーではない。いっさいの学問業績なしで慶応大学にもぐりこむ時、福田は、「オレのゴマスリで落ちない教授などいない」と嘯いていたが、その通りであった。
 


話を石原慎太郎に戻せば、石原は、あの信州大学全共闘委員長で社青同(現在の革労協)のゲバ学生である猪瀬直樹を副知事にした。猪瀬直樹は、転向などしていないし、今も過激な社会主義者である。ソ連邦が崩壊したあとの一九九〇年代を通じ、「日本を社会主義国にしたいなー。そうしたいのだ!」とぶつぶつぼやいていたが、それをうんざりするほど聞かされたものが数多い。福田和也は、慶応大の中核派に席を置くこれまた過激極左暴力革命家であり幸徳秋水系のアナーキストである。  

これらの事実は、石原慎太郎が、共産党だけは識別ができるのだろうか付き合いはしていないが、中核派や革労協とは昵懇であるという事実である。もう一例あげよう。それは、北朝鮮人で麻薬の常習者で中核派の過激暴力革命家である宮台真司とも石原は付き合いがある問題で、こうなると「極左の過激暴力革命家好きの石原」との定式化は可能である。この宮台との交際の証拠のひとつは、『VOICE』2007年9月号の「守るべき日本とはないか」での、石原・宮台の対談があげられよう。

また、福田和也、宮台真司、猪瀬直樹と、札付きの全共闘のマルキストとの交流は事実である以上、石原は「民族系らしく、北朝鮮人が大好き」との、もう一つの定式化もなしうる。 「民族系」は例外ひとりとしてなく、決して正しい用語の「保守」には分類できないが、このことはこのように石原一人を事例にするだけでわかる。

石原慎太郎を保守だとか、保守のリーダーにしようという十年前の民族系の熱気は、日本には「保守」が消えてまったく存在しない、おぞましい事態の、その深刻さの証左であろう。そもそも反米にいきがって『NOといえる日本』などを書いて悦に酔うような軽薄人に、日本国を守ってその永続を考える知力や智慧などあろうはずもない。
日本の国益に照らしての石原の功罪、いずれあらためて検証せねばならないだろう。
 













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