在日のタブー「朝鮮進駐軍」の悪行三昧(その1) | 日本人の進路

日本人の進路

左翼全体主義(共産主義)国家化が進む日本。マスコミはどこを向いても左翼ばかり。これでは日本国民が洗脳されてしまうのはくやしいけどどうしようもない。ただあきらめてしまったら日本の明日はない。日本の中、露、朝への属国化が現実のものとなってくる。

人気ブログランキングへ














在日のタブー「朝鮮進駐軍」の悪行三昧(その1)














在日のタブー☆朝鮮進駐軍☆について【どうか見てください】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9269969























************************






日本が好きな人のブログより

http://mamorenihon.wordpress.com/2010/07/27/nhk%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%81%8C%E5%A0%B1%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%81%E5%9C%A8%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC%E3%80%8C%E6%9C%9D%E9%AE%AE/








NHKなどマスコミが報じない、在日のタブー「朝鮮進駐軍」の悪行三昧(朝鮮人から謝罪されるべき日本人)










在日のタブー朝鮮進駐軍


*朝鮮進駐軍(ちょうせんしんちゅうぐん)
在日朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、終戦と同時に”朝鮮進駐軍”を自称し、日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。また、朝鮮半島においても同様の行為が多発した。









終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃

---------------------
「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていいため米軍憲兵隊に応援を頼んだ。そこで米軍憲兵隊と「 朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。戦後の在日朝鮮人は戦勝国民だと「朝鮮進駐軍」と名乗る武装集団が三万人も全国主要 都市に出現し暴れまくった。

彼らは武装解除された日本軍の武器と軍服を着て武装し「 朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人集団は無差別に多くの日本人市民を殺害した。GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。


戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日は土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くしていた。「朝鮮進駐軍」は個々に部隊名を名乗り各地で縄張りを作り暴れた。これら「朝鮮進駐軍」 元締めとして「朝鮮総連」、ヤクザ組織などになっていった。

国有地も都心駅前一等地周辺も軒並み不法占拠されそのまま、パチンコ屋、飲み屋、風俗 等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき暴利で財を成したのは彼らであった。「朝鮮進駐軍」の朝鮮総連本部。財を成したのは彼らは分派し政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し政界にも進んだ。








戦後当時の武装した朝鮮総連本部


$日本人の進路-朝鮮進駐軍02



今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」
武装集団在日朝鮮人集団「朝鮮進駐軍」総本部。
全過酷各地で武装した在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」と名乗る集団の総本部である。

朝鮮総本部を警備する短銃を所持する在日朝鮮人警備隊。










要は民団と総連の実行部隊だった訳ですよ。息巻いていたのは最初の二年くらいで後はヤクザと同じで地元に根ざしたヒロポンの生産等悪さの限りもやっていたという警察の記録もある当時は日本人の有志による地元の治安維持部隊(地元ヤクザ)台湾人、そして朝鮮人の三つどもえの所場争いだったので結集する理由は一応あった。

1950年のGHQ撤退の時にマッカーサーが当時の朝鮮人団体と朝鮮学校の閉鎖を強行した。そして大暴れして警察で手に負えなくなり、戦後初の戒厳令がひかれて軍隊によって鎮圧され投獄されるが例の竹島事件の時に釈放要求で解放されたそして朝鮮戦争が始まり日本で生きるしか無くなってしまった最大の謎は誰が指令でまとめて運用されていたかが全くの不明、李承晩が指令を出していたと解ればそれこそ国家侵略を画策した事になるので大歓迎


通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行、無銭飲食などは当たり前、また白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦など日常茶飯事に繰り返された。在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り町をのし歩いた。

腰には拳銃をさげ、鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行、略奪の限りを尽くした。終戦後の警官は一切の銃器の所持が許されず、丸腰警官を殴りド突き回した。警備用の木刀や飾りのサーベルはヘシ曲げられた。
 










戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。 



$日本人の進路-朝鮮進駐軍03






彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
 






*朝鮮マーケット 戦後の混乱に乗じて、駅前の一等地などを三国人が”不動産の即時取得”で土地を入手してできたもの。現在でも都内各所に散在する。 








【昭和26年03月22日衆議院法務委員会】

 ○押谷委員 お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の鮮人に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。

終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買へなかったが。そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。そりゃ儲かるだろう。
 


取締を横目に犯罪のし放題。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪うのだから。それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。

(録取者註 当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした)
 


東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。

この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。かくて南関東から、牛はいなくなった。
 


家畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!と追い立てた。

それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。孫共はこれを知らんのだろう。直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。
 


今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。それでも警察は手が出せなかった。歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長両大臣以下、自然廃官になった。まこと、敗戦は悲しからずや。たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。

それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。この時、連合軍総司令官ダグラス・マックアーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。だから、外国人差別用語なはずは無い。彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。
 


連合国軍総司令官は日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。

終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けたと言う。当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。これを受けて述べたのがマッカーサーの「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。
 


1950年にGHQは日本占領を終結し解放し実質的に戦後は終わったとされていますその際に朝鮮人は日本籍を剥奪され韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しましたすると在日朝鮮人は何を「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし革命を叫んで公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました警察では対処できなくなりGHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は日本の歴史からスッポリ抜けています、死人も出ている事件なのに日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。勿論、被害者側としてであり立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する抗議として日本人として在日朝鮮人の危機感は常に持つべきですね。


言っておくが日本国内だけではない、朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか? 多くの日本人は、朝鮮人に襲われ無念にも命を落とされ、帰れなかった人は数知れない。彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。このことを誰も伝えようとしないが事実は決して消える物ではない、朝鮮人の日本人に対する犯罪は触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。 









●なぜ日本にだけパチンコ屋があるのか?

今から70年ほど前、日韓併合後に朝鮮人は自らの意思で日本に渡ってきた。その後日本は第二次世界大戦で連合国(米・英・オランダ・支那・オーストラリア)と戦争に突入。英・オランダ・支那・オーストラリアには勝ったものの米に敗北しポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏した。すると朝鮮人たちは「我々は戦勝国民」であると主張し、「朝鮮進駐軍」を名乗り、各地で暴れ始めた。

日本の男たちは戦場に駆り出され、残っていたのは
女、子供、老人ばかり。朝鮮人はやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に襲撃され占領された。もちろん、そこに住んでいた日本人女性は容赦なく強姦され追放されたのです。当然、日本人は朝鮮人を強く憎むようになった。そのため、在日朝鮮人は日本名を名乗るようになった。朝鮮名を名乗ることは自分が犯罪者だと宣言しているようなものだったからだ。
 


その後、朝鮮人達は共産主義者と組み、マスコミを使って歴史の捏造を始めた。『強制連行されて来た』『土地を奪われて仕方なく来た』等、そして強姦・殺人犯罪を謝罪するどころか、土地を占拠し続けながら、『俺たちは何も悪いことをしていないのに差別される』『不当な差別を受けている』などと宣伝し始めた。朝鮮進駐軍を知らない若い世代の日本人たちは在日に対して、罪悪感を持つようになった。

そして在日たちは日本人から奪い取った一等地で商売を始めた。それがパチンコである。今でもパチンコ業界の8割が在日が経営者である。パチンコ業界は今や30兆円産業と言われている。なんとあの日本が誇る自動車産業より上なのだ。

だが自動車産業とは違いこのパチンコ業界は日本が誇るどころか日本が恥ずべき業界なのだ。なぜならパチンコ業界は経営者の脱税と北朝鮮への不正送金・犯罪の温床など日本人にとって極めて不利益になる事ばかりをしている。
 


 『日本のパチンコがある限り我が国は安泰だ。』(金正日)日本の政治家や警察にもパチンコの金が流れている。だから『パチンコ・パチスロはギャンブルではない娯楽だ。』などという、馬鹿げた論理がまかり通っているのだ。

しかし祖母や曾祖母が朝鮮人に強姦された場所で
今の奴らはパチンコやスロットを打つとは・・・・・これは「日本人」以前に「人間」として恥ずべき行為ではないのか?
 


在日朝鮮人が経営するパチンコ屋が駅前に多いのではなくて、パチンコ関係の会社の経営者は在日朝鮮人が殆どです。それぞれの企業の代表者を調べれば中国式(朝鮮式)の名前です。名前が日本風であっても通名である場合もあります。そしてその他の風俗店、焼肉屋などにも多いですね。なぜ強制的に連れて来られたと騙っている彼らが、差別が酷かったと騙りながらも、今のように駅前で莫大な富を生み出す違法な賭博場を開けるまでになったのでしょうか…。終戦直後、駅前には闇市が出来上がり商売に適した場となりました。

当時、自分達を三国人と称して、自分達には治外法権が認められていると勘違いし、日本の闇市を席巻していたのは朝鮮半島出身者達でした。彼らは「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成し、その組織の力をバックにやりたい事をやりまくりました。警察署でさえ武器を手に持ち押し入って、留置所から仲間を連れ出すことさえやってのけました。(全ての朝鮮人がそうであったとは言いません。
 


しかし、同胞の不正に目を瞑っているというのは酷い事です。)他の方も書いておられますが、悲しい事にこの勢力に対抗できるのはヤクザしかいませんでした。

この事を、今のマスコミも教科書も伝えませんが、こんな酷い話を載せる事を編集者は怖がります。それが元で憎悪が広がりかねませんから。そしてマスコミも教科書もこの事を書けないのは、常に朝鮮系の圧力団体(朝鮮総聯や韓国民潭)や政治的な圧力団体からの圧力があるからです。教科書などはいつも圧力団体の抗議にさらされていますね。こういった事実を書くと、必ず「それは民族差別である」という方が居られます。

しかし、在った事を書けば差別で、見て見ぬ振りをすれば差別ではないのでしょうか?これは民族差別ではなく、犯罪者差別です。
 


日本人には民族という概念は薄く、犯罪者を嫌う、という感覚が有ると思います。むしろ民族、民族と口やかましいのは外国人であったりします。最近まで、北朝鮮の拉致はでっちあげだと言っていた人たちがいます。マスコミは拉致事件を大きく取り上げませんでした。同じように、パチンコの問題も嘘で塗り固められ、マスコミは沈黙したままです

で不法占拠に関して言えば、駅前一等地をどんどん奪っていったというわけではなく、空襲などが激しくて殆ど元住人がいなくなった地区単位で丸ごと奪ったという例を(神戸のある地区や柏市など朝鮮人部落などと評された地域のことを)よく聞きます。

なぜこういった不法占拠が既成事実化してしまうところまで放置されてしまったのかは、弱者であることを強みにして暴力や脅迫などで民闘連を推し進めてきた成果でしょう。新聞でちらっと書くだけで脅迫・暴行の対象になる訳ですからましてや教科書なんかには残るはずもない話であります。
 


ぶっちゃけ、在日朝鮮・韓国人は不幸の民でもなんでもないよ。あいつらは元々半島で差別を受けていた白丁という奴隷階級。日本との併合で白丁たちは解放されたけど、それでも差別が強かったためにろくな職業につくことができず日本へ渡ってきた。強制連行でもなんでもない。 しかも大半が密航で。

関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を投げたとかいうデマが広がって、あいつらはいまだにそのことを恨んでギャアギャア騒いでるけど、なんの根拠もなくそういう噂が広まったわけじゃない。朝鮮人は、震災で倒壊した建物から金品を盗み出したりしていて、それを戻ってきた住民に見つかって問い詰められると「ココワタシノイエ!」などと開き直って家主を唖然とさせた。

それまでの東京は、家に鍵を掛けなくても泥棒なんて滅多に入らないほど治安がよかったけど、それからはみんな家に鍵を掛けるようになった。
 


戦後に到っては、戦勝国でもなんでもないのに(*大韓民国臨時政府は国際的に正式な臨時政府と認められていませんでした。つーか日本と韓国は当時同じ国だったからあいつらも敗戦国)「独立だ!オレたちは朝鮮進駐軍だ!」とのたまって、各地でレイプや略奪を繰り返していました。

田舎に疎開していた人たちが家に戻ってくると、いつの間にか家が朝鮮人に乗っ取られていて「朝鮮勝った!おまえら負けた!この家はおれのものだ!」と言って、元の住民は、ここが自分の土地だと証明する書類も戦争でなくしてしまい、どうすることもできなかったそうです。

駅前って、パチンコ屋だの金融業者が多いじゃないですか。あれって、大半が戦後に在日朝鮮人が不法占拠した土地なんですよ(*パチンコ屋と金融業は8~9割が在日企業)。在日は民潭や総連など暴力団ともつながりのある組織とつながっているため、元の地主は取り返すことができず、田舎でほそぼそと暮らしているらしいです。
 


さらに許せないことは、戦後の混乱しているときに朝鮮人は神風特攻隊の飛行服を着て悪逆非道を行っていたということです。わざわざ国のために死んでいった人たちを貶めるためにね!これは現在の街宣右翼と呼ばれているひとたちも同じで、彼らの目的は愛国心=軍国・民族主義と一般人に刷り込むことです。

考えてもみてください、威圧的な車に乗って軍歌を大音量で流してるような人たちを普通の人が見て、こころよく思うはずがありませんよね。

彼らの大半も、日本の弱体化を狙う在日や中国人です。あげく、最近の在日は、自分達にも参政権を寄こせとか言ってくる!

外国人に地方参政権なんかあげたら最後、韓国が領有権を主張している竹島や対馬に集団で移り住んで自治宣言→韓国領に編入されてしまいますよ!
 









+++++++++++++++++++++++++++++++




・大阿仁村事件(1945年10月22日)

秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
 



・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)

兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。
 



・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)

信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】
 



・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)

1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。 



・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)

1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。 


・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)

1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。
 




・坂町事件(1946年9月22日)

羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。
 




・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)

1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。 



・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)

宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。 



・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)

1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。
 






 (続く) 





*****************************





民主党、社民党、公明党、共産党、みんなの党、大阪維新の会 は日本を破滅に導く売国奴であり、シナ人、朝鮮人の日本乗っ取りを助長させていると思われる方はクリックをお願いします 
人気ブログランキングへ悪事千里を走る