川越style「モナミモータース」富岡竜一、川越で最も熱い30代と呼ばれる漢 | 「小江戸川越STYLE」

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「時が人を結ぶまち川越」
川越のヒト・コト・モノ、川越物語りメディア、小江戸川越STYLE。
川越の現場で様々なまちづくり活動にも従事しています。
「小江戸川越STYLE」代表:石川真

2014年1月19日に本川越駅近くのカフェ・マチルダで開催した

第1回ドリカム新年会 」。

川越の熱い人達が集まって、交流を深めた一夜でした。

興味持ってもらえた方も多く、

ドリカムパーティーにドリカム新年会に、

この会はこれからも継続して続いていきます。

 

あの会で、一際大きな存在感を放っていた人がいました。

 

誰に対してもフレンドリーで、

すぐに友達になってしまう気さくさ。そして熱い。

「どこにお店あるの?今度遊びに行くよ。うちは霞ヶ関にあるんだ。ぜひ遊びに来てよ!」

川越の霞ヶ関に生まれ育って、川越の霞ヶ関を愛して。

『川越で最も熱い30代』と称される漢(オトコ)がいると知ったのは、

いつのことだったか。。。

噂ではずっと耳にしていたけれど、

その姿を見たのは、ドリカム新年会が初めてでした。

確かにこんな漢はなかなかいない、と

会った瞬間にすぐに納得。

「川越はまだまだ奥が深いなあ。こんな人物がいたとは!」

この熱さの正体を知りたい、

地元霞ヶ関を愛しているからこそ、

彼を通して川越を、霞ヶ関を、よりディープに感じられる予感がした。

どんな仕事をしていて、どんな生い立ちで今あるのか、人生の転機は?など

興味が湧いてくる人柄でした。
富岡竜一という漢。

その人物を掘り下げようと訪れた

川越の霞ヶ関。

川越日高線から、的場の交差点を八瀬大橋方面に入り、真っ直ぐ進んだ先、

関越の手前に自動車修理工場があります。

ここが、モナミモータース。


仕事着のツナギで迎えてくれた彼は、

こちらの姿を見るやいなや、手を振って大きな声で

「おお!ようこそ!!お茶でも飲んで行ってくださいよ!」

と、笑顔で事務所へ招き入れてくれました。

お茶を飲みながら、

男同士、いや、漢同士の語り合いが始まった。。。


モナミモータースは、30年以上続く自動車修理工場であり、

日本、アメリカ含めた中古車販売もしています。

富岡さんに、弟の準さん、お母さん、他のスタッフ合わせ、

アットホームな雰囲気のショップ。

お茶を淹れていただいたのはお母さん。

修理としては、車検、オイル交換、ブレーキパッドの消耗品など

小さいことから大きいものまで、さまざまな依頼を引き受けている。

例えば、走行中に異音がする、などといった連絡があれば、

レッカーを頼むか、

「川越市内なら僕らが助けに行きますよ」と語るフットワークの軽さです。

修理に関しては、

「どの車でも大丈夫ですよ」と、自信を持っています。

初対面でもすぐに打ち解けてしまう雰囲気があって、

 

昔からの友達のような感覚になります。

普段の時以上に、やはり職場では情熱的。

その人柄で、多くの人を引き付けている富岡さん。

いつも人の輪の中心にいるような人で、

「トミーさんに会いたいから」と

人柄を慕って自動車修理工場にやって来るという・・・

そういうことがあるんだろうか、と思っていたけど、

いや、富岡さんなら、ある。

自動車修理工場が、販売に力を入れているのもモナミならではです。

販売用車を見ると、ピックアップトラックにSUV、USトヨタなど

「漢が好きそうな、無骨な車は多いですね」

なかなか手に入らない逆輸入車を扱い、

全国から問い合わせがあるショップです。

 

 

そして、どのスタッフの気さくに話しをしてくれる。

富岡さんの下で働くと、間違いなくそうなるんでしょうね。。。


修理・販売のあとも、お客さんとは関係を続ける。

「アフターフォロー」という言葉からは、大抵マニュアル的な響きがありますが、

彼が口にすると、

人対人、一対一の深い付き合いを感じさせる言葉になります(*^o^*)

そこはやはり、個人でやるショップだからこそ、

大事にしているものがありました。

修理工場がここまでやるなんて、と何度も口にしたのですが、

富岡さんは平然と、

「お客さんとは友達みたいな関係ですよ」
お客さんとはフレンドリーに密に、友情みないなもの、と語ります。

高級販売店の接客もいいけれど、

自分たちは気軽に向かえて、お茶でもどうぞ、と

フレンドリーに距離の近い感じで迎えたい、と。

 

神奈川、茨城、栃木、オイル交換だけのために

モナミに来るお客さんがいる。

近くで済ませられるものをわざわざ霞ヶ関まで来る人がいる。

遊びに来る感覚で、それは間違いなく人柄の力です。

今でこそ、笑顔が絶えないショップですが、

ここに来るまでには幾多の山あり谷ありがあった。。。

ある時、修理工場ならではの苦境に立たされ、

打開するために人生の勝負に出た時がありました。

その時のことを富岡さんは、

「新たな路線に進んでいく、人生の勝負所だと思いましたね。

点と点を結ぶ勝負の時だな、と自覚して進んでいった」

岐路に立たされた時、漢はどう考え、どう壁に立ち向かい、

越えていったのか。

その生き様を通して、生きるヒントが得られるかもしれない。

深く聞いてみます。

根底に大事にしていたのは、人との繋がり。

 

「人と同じ事やっても二番煎じにやっちゃうから、

今までなかったことをやる、挑戦ですよ」

 

立ち向かった、その時のこと。そして霞ヶ関のこと。

事務所で当時を振り返ってもらいます。

常に前向き、ネガティブな言葉がまったく出ない生き方。

仕事だけの話しで収まり切れないのが富岡さんです。

 

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*



モナミモータースというのはもともとは、

30年以上前にお父さんが始めた自動車修理工場で、

時を同じくして

お母さんが東京国際大学の前の通りに「モナミ」という喫茶店を始めた。

富岡さんが生まれる前のことでした。

当時は、霞ヶ関に2つの「モナミ」があったことになります。

日産のメカニックだった富岡さんが

 

モナミモータースに入ったのが22歳の時。

今から15年前。

そこから彼が中心となって、モナミモータースを経営していくことになった。
富岡さんは、

「小さい頃から車もバイクが好きだった」

自分で乗るようになったのは16歳の原付から。

最初に買って乗った車は

「ボロボロのいすずジェミニでしたね」

それから日産フェアレディZ、などいろんな車を乗り継いできた。

お父さんから継いだモナミを経営し、

最初は修理をメインに行っていたモナミ。

お客さんを待つ姿勢が多い修理工場で、

富岡さんの行動は異彩で積極的だった。

 

「お客さんを待つのではなく、

仕事が終わった後に、チラシを配ったりしてましたね」

 

さらに、他の町の修理工場と違っていたのは、

 

「車をそのまま置いておくより、常に綺麗な状態を見せるように」

綺麗に洗って展示し、清潔感を大事にした。

当時の工場では、そういう感覚が広まっていなかった時代。

 

そこまでした訳は・・・??

「うちみたいな修理工場って、発信源がないんです。

ディーラーさんならお客さんに葉書が届けられる。

でも修理工場が、新しいお客さんとつながれる機会ってほとんどないんですよ」

今から10年ほど前の修理工場は、

 

お客さんが来るのを待つ姿勢のところが多かった。

接客の意識もそんなに高くなく、

いくら工賃が掛かるか分からない、時価のような工場が多かったそう。

 

「それだと人はやって来ない。なんとかしたかったんです。

システムを分かりやすく、自動車修理工場に気軽に来られるように」


それまでの自動車修理工場の常識を疑っていた。

富岡さんは工賃表を作り

これはいくら、これはいくらと明確化していった。

電話での問い合わせにも「来てもらわないと分からない」という対応ではなく、

おおよその金額を答えられるようにした。

こういう対応は、今でこそ行っている修理工場はありますが、

当時としてはとても画期的なことだった。

それは富岡さんが日産のディーラーにいて、

シビアな現場を体験していたから、新しい感覚をどんどん取り入れられたんでしょう。

だんだん修理のお客さんが増え、

修理にとどまらず販売にも力を入れ始める。

販売のノウハウは最初は持っていなかったので、

一から覚えていくことに。

「最初は変なの買って失敗したこともありましたね」

当時を笑顔で振り返ります。

 

板金塗装も独学で覚えた。

自分で一から積み重ねたことで、

今までの業界にはない発想が生まれたのもあったかもしれません。

ただ、それでも修理メインにはかわりない。

それだけでは商売としてビリ貧になっていくのも

一方で感じていた。

周りを見れば、修理ならガソリンスタンドなど競合はたくさんあって、

少子高齢化で車に乗らない人が増えている。

同業者はみんな、これじゃあ食べていけないと口にし

でも現状のままの工場がほとんどだった。

このままじゃダメだ。。。何か打開策はないかと模索している時に

ある話しが弟の準さんからもたらされた。

 

準さん♪

今から5年前のこと。

モナミの転機となった時です。

町の修理工場からの飛躍。

大学卒業後、アメリカに3年いた準さんが、

現地での整備の仕事を通して、いろんな人と出会い、

ある時出入りしていた日本人のバイヤーから

こんなことを言われた。

それがターニングポイント

「逆輸入車を日本で販売したら??」

逆輸入車を日本に送って販売してみたら、と勧められた。

そうか・・・!と、興奮しつつ

日本にいた富岡さんに話すと、

「それは面白い!日産にいたから、

インフィニティとかUS日産のトラックとか

他ではやってない車をモナミでやってみようか」

日本で手に入らないアメリカの車を弟さんのコネクションを使って買い付け、

兄弟で霞ヶ関で販売する。

町の修理工場から、新境地に進んでいく第一歩になった。

 

「新たな路線に進んでいく、人生の勝負所だと思いましたね。

点と点を結ぶ勝負の時だな、と自覚して進んでいった」

日産のディーラーで働いていたから、

日産の工場長や整備の人との人脈も知識もあった。

日本に帰ってきた弟さんと、

アメリカで買い付けた中古車を始め、

日本、アメリカ含め中古車販売に乗り出していくことになった。

買い付けから船に積んで日本の港まで、全部自分たちで管理、

一社で全部担当する例は珍しいそう。

「自分たちで全部やれば、手間はかかるけど良い状態でお客さんに渡せる。

うちで売る逆輸入車は、クレームがないのが自慢です」

特に力を入れるインフィニティ、US日産が、

川越でここまで手に入るのはモナミくらい。

US日産はなかなか手に入らないので、問い合わせが多いそう。

全国的にも、修理工場が

ここまで逆輸入車に力を入れるところも少ないです。

販売だけでなく、それを修理できることが何より強み。

 

「販売はしても直せるところが少ないから、

全国から問い合わせがくるんですよ」

売りっぱなしではなく、

アフターフォローに特に力を入れていきました。


今では販売から修理に、新しいお客さんも増え、

いい循環を感じていると言います。

岐路に立った時の決断は勇気がいったと思いますが・・・?

「修理工場がダメになってから動いても遅いと思うんですよ。

ダメになる前に早めに動かないと」

弟さんのアメリカの経験から、いろんな人と繋がり

それをきっかけにして世界を広げていったモナミモータース。

今でも弟さんが定期的にアメリカに買い付けに行き、

逆輸入車車を霞ヶ関に運んでいます。

(世界最大規模の車の祭典、ラスベガス・SEMAショーより一枚)

自分で買いつけ、横浜港に辿り着き、霞ヶ関にやってきます。

お店にない車は、現地オークションにてニーズに合わせたものを探し出し、

日本に運んでくれるそう。

ドレスアップの相談にも乗ってくれます。

富岡さんの語り口からは、

順風満帆なようにここまで来たように感じたけれど、

実は・・・と聞いてみると、その後も山あり谷ありだった。

「逆輸入車は、最初の一年は一台しか売れなかったですよ」

0から1にする難しさ。

大変な時期だったけど、

苦労を平然と語る強さがあります。

最初に売れたFX35には感慨深いものがある、と当時の思い出を語ります。

2年、3年、4年と続けてきて、広まってきた手応えを感じている。

待ちの姿勢ではなく、

「大事にしているのは情報発信」と、

富岡さんは積極的にブログで自身の姿を公開しています(*^o^*)

ブログをやっていることで、「トミーさんに会いたい」と

10代、20代の若い人も新しくやって来るようになった。

修理を頼むなら、ディーラーでもガソリンスタンドでもできる、

そこでどうモナミを使ってもらうか、

情報発信としてブログを更新し、自分がどういう人間か知ってもらう。

「ブログも続けることで、

『この人楽しい人だ』『ここはこんな修理ができるんだ』と、ここに来てくれるんですよ」

修理は、「どの車でも大丈夫」と自信を持ち、

「他の業者さんからも『できる??』と仕事の依頼がくるんですよ」と。

2トン以上あるタイタンを、持ち上げられるリフトがあることが強み。

価格もディーラーに頼むより安くしているそう。

そうして縁あって繋がったお客さんとは、

BBQを開催したりして、関係を続けていく。

すぐ近くが入間川なので、河川敷がちょうど良いBBQ会場です♪

ふと、面白いものがあると言い、

富岡さんが歩いて行きました。

「これ見てくださいよ。素敵でしょ??」と、案内してくれたのが、

ログハウス風の建物。

これは・・・?と不思議に思っていると、

「ここをおしゃれな待合室にしたいんです」と。

「だんだんと中も形になってきたところなんですよ」

今ある事務所は、スタッフも奥で事務作業している場なので、

15分くらいで比較的早く終わるお客さんに使ってもらう一方、

お客さんの中には1時間、2時間待つ方もいる。

なによりモナミは、遠方からわざわざ来るお客さんも多いので、

ゆっくり過ごせる場所を用意したい、と

思いついたのがこのログハウス。

「テレビを置いて、本を置いて、リビング的に使ってもらいたいな」
シンガポールなどに知り合いがいるので、

 

ゆくゆくは海外の雑貨を置いて販売もしたいそう。
雑貨販売という発想も、

人の繋がりから「じゃあ、一緒にやろうか」と、生まれたもの。

そこまでするんだ・・・とも思うけど、

なんの仕事でも最終的にサービス業ですからね、と語る表情が印象的でした。

そして、こっそり教えてくれたのは、

他の修理工場にこっそり覗きに行っているんだ、と。

他はどんな接客をしているのか、自分の目で見に行って、

いい所悪い所、学べるところがあればどんどん学ぶ。

ここは、町の自動車修理工場という言葉では

括りきれない器の大きさがありました。

こんな熱い修理工場見た事ないですよ、とつい言葉が出た(*^o^*)

 

「最初から商売商売という姿勢だと人はついてこないんですよ。

 

仲良くなれば、じゃあ車検お願い、と後からついてくるもの。

球一つ交換300円ですよ?でもどんな小さな仕事も嫌な顔しないでやる。

話をすることで打ち解けて、次に繋がるじゃないですか。

それの繰り返しですよ。

事件に大きいも小さいもないように、修理だって人と人ですから、

大きいも小さいもないんです。

一生懸命やっていれば、人は見てくれている」

 

今まで大変な時期があって、

これからもあると思うけど、大事にしなくてはならないものは譲らない、

確信を込めた表情で、仕事への想いを語ってくれました。

仕事に熱い方ですが、

それだけの枠に収まりきらないのが富岡竜一。
彼の熱さはそれに留まることなく、

地元でまとまり、どう霞ヶ関を盛り上げるか、まで広がっていきます。

ご存知の方も多いと思いますが、

川越まつりの山車は、市内の全ての町にあるわけではなく、

それは霞ヶ関も例外ではありません。

川越まつりの山車が自分たちの町にあること。

 

それは川越市民にとっての、一つのステータスのように受け取られるけれど、

川越の霞ヶ関には山車はない。

(あったとしても、街の中心部まで巡行するのは大変過ぎます。。。)

他の町なら、仕方がない、と諦めるところだけど、

彼は違った。

「霞ヶ関に山車がないなら、自分たちでオリジナルの神輿を作ろう!」
中学、高校時代の友達を誘い中心となって、

「霞笑和会(かすみしょうわかい)」を組織した。

神輿に乗せるのは、川越の地酒鏡山。

神輿を喜多院の駐車場で組み立て、

20人以上の漢たちがワッショイワッショイ!担いで町の中心部に進入。

祭りの間を練り歩いたのでした。。。

それが、2013年7月27日。

毎年、川越百万灯夏まつりの日に、

大正浪漫夢通りなど川越が祭りで賑わう最中に、

神輿を担ぐ漢たちの姿は今や恒例となっています。

特に去年の祭りは夕方から大雨。。。

それでも担いだ漢たち。

「2013川越百万灯夏まつり 霞笑和会より」





 

 

そして富岡さんは霞ヶ関愛が高じて

地元に美味しいラーメン屋が欲しい、と

東京国際大学の前にラーメン屋「麺屋すん」をオープン。(現在は閉店)

オーナーという立場で関わり、

霞ヶ関史上初、行列のできるラーメン屋を作り出しました。


その前には、霞ヶ関にある角栄商店街を活性化するためのNPOを作ったり、
積極的に活動している富岡さん。

彼の生い立ちは、

まさに霞で産声を上げ、霞で育ち、ここで生きてきたこれまででした。

角栄幼稚園から霞ヶ関北小、

霞ヶ関東中学から川越南高校へ進学し、

整備の勉強のため大宮の専門学校に通った。
霞ヶ関にこだわるのは、生まれ育ったのもあるし、

昔の活気を知っているからでもあるんでしょう。

そんなに商店街の活気、凄かったんですか??と訊ねると、
「今はシャッター通りになってしまってるけど、
昔はめちゃくちゃ栄えていて凄かったんですよ。

通りは自転車の嵐。

車もいたけど、自転車で埋めつくされていたんです」

今の商店街の姿を確かめるために、

随分久しぶりに角栄商店街を訪れました。

(この時は、空が万国旗で埋め尽くされていました!)

 

商店街にあった黒田書店は、

僕自身学生の時にアルバイトしていたお店。

本が好きで、川越で本屋と言ったら黒田書店という時代。

クレアモールに新宿町に、霞ヶ関に2店と、

川越だけで4店あって、最も隆盛を誇っていた時期でした。

角栄の書店の隣には当時、

かろうじて角栄ストアが残っていたのを思い出します。

自分にとっても、霞ヶ関は思い出の詰まった地。

富岡さんのお母さんが、40年以上前に

モナミという名の喫茶店を開いたのは、

東京国際大学のすぐ近くだった。



(今はうどん屋さんになっていました)
改めて角栄商店街見渡すと、

地域に密着した商店が通りに並んでる雰囲気が

むしろいいな、と。

富岡さんも、ここに魅力を感じています。
「専門店がひしめき合っていて、人情も専門性もあるし、

改めて見るといい場所ですよね」
例えば、下町の商店街が人気のように(台東区のおかず横丁のような)、
川越郊外の新たな魅力として、

角栄商店街を見直してもいいのでは、そんな夢も膨らみます。



留学生が多い国際大学もあるし、

国際色を出した通りにしてもいい、語り出したら止まりません(*^o^*)

そして、富岡さんのこれからは、
「まだ先の話しになると思うけど、世界中に散らばった友達がいて・・・」
これ全部友達なんですよ、と壁に掲げられたボードを指差します。

昔からの友達が今、世界中で働き活躍している。
例えば、マレーシアでラーメン屋を始めてもいいし、


「このネットワークで、何かみんなでできないかなって思ってるんですよ」


富岡竜一という漢は、
会った瞬間から熱さを放って、まったく人見知りしないし、
友達に恵まれてるなあ、と思いました。

でも話しを聞いていると、恵まれているのは

なにより繋がりを大事にしているからなのだと思い直しました。

 

「全部、繋がりの中で広がっていった感じなんです。

 

修理工場から販売を始めたのもそう。

ただがむしゃらにやるんではなく、

人との繋がりで、点と点が線になって、線が繋がって円になる感じ。

そうやって始めるものなら大体上手くいく。

だから逆輸入車の販売も勝算あると確信していました。

円というと、この前のドリカム新年会みたいな感じですね(笑)」

 

モナミモータースの魅力は、
なにより富岡さんの人柄、そして会社のスタンスも明確なところでしょうね。

 

「うちにしか書けないブログで情報発信し、

 

うちにしかない車を売る、なんでもオンリーワンじゃないと」

 

周りの工場は、

いろんなアイディアを口にするけど、行動に移さない人が多い、と。
忙しいは理由にならない、
そこをスマートにやりくりしてこそ、結果につながる、熱く語ります。

話を聞いていると、名言がたくさん出ますね(笑)

目標を立てること、繋がりを大事にすること。

好きな言葉を聞いてみたんです。
「継続な力なり」

即答でした。
誰でも会社は作れるし社長になれるけど、

継続には大きなパワーがいる、

でも一生懸命やっていれば、必ずお客さんはついてくる、と。

お客さんとモナミになって、仲良くなる

モナミは、フランス語で「友達」という意味です。

 

モナミモータース富岡竜一、

確かに川越で最も熱い30代というのは、

間違いありませんでした。。。!

 

「モナミモータース」

 

川越市的場981-7

8:30~18:00

049-233-8035

日、祝、第二土曜休(フェアの時は土日営業)






 

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