和泉さん「もともとトラックの運転手をやっていて、
人と接するのは得意じゃなかったけど、
ああいう事があって、
人と繋がる大事さに気づいたっていうかな、
避難所にいても情報入って来ないし、
放送する所に入れば情報もらえると思ったんだよ。」
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
南三陸町、国道398号線沿いにある繁華街
「さんさん商店街」は、
食べ物屋さんに、「キラキラ丼」を提供するお店があり、
スイーツのお店、お茶屋さん、床屋、美容室、クリーニング店、
整骨院、電機店、衣料品店、花屋、化粧品店、写真館と
なんでも揃う、まさに町の商店街です。♪
これだけのお店が集まると活気があります。
それに、この商店街にあるお店は、
南三陸町で昔から営んできた商店も多く、
形は仮設でも
並んでる商品やサービスは何十年と続いているものが多い♪
一昨日の「弁慶鮨 」さんは、
南三陸町で30年やられているお店でした。(*^o^*)
いろんなお店に入って買い物してきましたよ~!
(南三陸styleの「さんさん商店街」は、
川越styleの「一番街」並にちょくちょく出てきますからね(*^o^*))
この商店街には広いフードコートもあって、
ゆっくり座ることができます。
そして、
そのフードコートで会う事ができたのが・・・
FMみなさんのメンバーの一人、和泉さん。
芳賀さんに続いて会う事ができました!、
映画「ガレキとラジオ」では、
チャーミングで愛すべきキャラクターでしたね。♪
(和泉さんの「~っちゃ」という方言好きです!)
『FMみなさん。
震災から二ヵ月後、
南三陸町に2011年5月14日に開局した、
期間限定のFM局。
放送は、防災無線の代わりとして、
行政情報に道路情報、行方不明者の情報など、
情報が絶対的に不足していた
被災者の方に届ける目的で始まりました。』
映画では、和泉さんが漁港を取材してる
仕事ぶりのシーンがありました。
その取材シーンを息子さんが見て、
「向いてないなあ」と呟くシーンもあったりして。(*^o^*)
(ダンプの運転手から一転、放送する仕事の父の姿に
ギャップを感じていたよう)
まず、和泉さんには・・・
今回、僕たちが南三陸に来た経緯、
埼玉の川越で、今週「ガレキとラジオ」が公開される事になり、
自分たちも『ラジオぽてと』という放送をやっていて、
この映画をたくさんの方に観てもらおうとイベントを考えている、
事などをお話ししましたた。
(川越スカラ座のスタッフの一人が、
こちらに親戚があると話をすると、
『そうなのかあ!』と喜んでいました。(笑))
それにしても、
立て続けにFMみなさんの方に会える事に、
こちらがびっくりしてます。(-^□^-)
南三陸町に行こう!と決めたはいいものの、
なんのツテもなかったですから。。。
「話しを聞きたい人には協力するよ」
FMみなさんのメンバーは、
みんなとても親切に話をして下さいました。!
個人的には、
FMみなさんのメンバーで一番会ってみたかったのが
この和泉さん!
映画の中で、めっちゃいいキャラクターだったです。。。(*^o^*)
実際会ってみたら、
やっぱり親しみやすい方でしたよ。♪
何でもオープンな方で、
何でも話してくれて、
こちらが
『ちょっと聞きづらいな・・・』と思う事も、
自分からどんどん話しをしてくれる方でした。
和泉さんが
FMみなさんに入ろうと思ったのはまず、
放送する立場なら
いろんな情報が手に入ると思ったから。
「避難所にいても情報がまったく入らない」
「情報が欲しい」
それが動機の一つだったようです。
(「情報がなかった」
「何が起こってるのか分からなかった」
「情報が欲しい」
この言葉は南三陸町滞在中、いろんな方の口から
何度も聞きました。)
ただそれまで和泉さんは、
人と接するのがあまりなかったし、得意ではなかったそう。
(会った感じは、そう見えなかったんですけど。。。(*^o^*))
震災後に改めて、
人との繋がりの大事さを実感して、
その手助けになればと誘われ、
FMみなさんに入りました。
と、話を聞いてる時に・・・
和泉さんの口から突然・・・
「うち来る??」
と。。。
え・・・うちって、和泉さんのお宅だと思うけど、
いや、でも全て流されてる状況で、
和泉さんのうちは残ったんだろうか・・・
頭の中がグルグルしてると
あ、仮設住宅の事だ。。。と
分かりました。
「せっかくだから見においで」
と、和泉さんの仮設住宅に
招き入れていただく事になりました。
ここで、さんさん商店街から車で移動します。
(21日の寒さは、地元の和泉さんも『寒い。。。』と言っていました。(*^o^*))
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398号線から細い道を入り、
坂道をぐんぐん上っていきます。
宮城は今、桜が満開!
山の上にあったが志津川(しづがわ)中学校。
ここのグランドが仮設住宅になっています。
グラウンドの一部をアスファルトで固めて、
仮設住宅が建てられていました。
半分がグランド、半分が仮設住宅。
実はここは、
和泉さん住む仮設ではないのですが、
自分のうちに行くまえに
「見せたいとこある」
と、南三陸町の様子をいろいろ案内してくれたんです。。。
なんていい人。!
仮設住宅は、
一箇所に造られているわけではなく、
小さなまとまり、大きなまとまりで
町のあちこちにあります。
ここは90軒くらいある大きな仮設住宅でした。
家には、花が植えられていたり、
靴が置いてあったり、
犬の声が聞こえてきたり、
当たり前だけど日常の生活風景がありました。
ただ、「仮設」である場に、
長く手入れされている花を見たりすると、
とにかく苦しくなります。。。
「中学のグランドの隣なので、
子供たちもボールが飛んでいかないように
気をつけてるんだよ」
そういう話しもしてくれました。
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次に案内してくれたのは、
南三陸町の気仙沼線 志津川駅。
駅といっても今はありません。
駅に立って、駅前の街並を見てみます。
右の建物は、農機具の会社だったそうです。
和泉さんは、生まれも育ちも南三陸町。
「何度泣いたか分からない」
苦笑交じりに話しをしていました。
こんなにあちこち案内してくれて
申し訳ない気持ちになったのですが、
こうして話す事が和泉さんは
「恩返しのつもりなんだ」。
そう言っていました。
たくさんの温かい支援があって、
それに恩返ししたいと。
聞いてくれる人にはこうして案内したり話しをしているそうです。
ここから一緒に車で
、
「ここが自宅があった場所」
海から2キロ離れた
和泉さんの元の自宅があった場所を案内してくれたり、
なんにもありません。。。
「ここまで津波が来たんだよ」
という海から3キロ離れた所にある看板、
「船がこんな陸まで上がってきた」
そしてこの後・・・
和泉さんの仮設住宅にお邪魔することになりました。
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志津川高校の近く、高台に建てられた
「南三陸町竹川原地区応急仮設住宅」。
山肌がいまだに剥き出しです。
仮設住宅に住んでいる方に話を聞けたら、と
行く前は思っていましたが、
でもそんな図々しい事どう頼めばいいんだ?と思っていました。。。
まさか住んでいる方から直接
「うちにおいで」
と言ってもらえるとは。。。
和泉さん、本当に感謝です。m(_ _ )m
仮設住宅の入居の抽選にずっと外れていて、
避難所からここに来たのが2011年7月。
中は2DKでした。
ちょっと居た分には普通の住宅でしたが、
それは、あくまでちょっと居ただけの感覚。。。
通気が悪いのか、湿気で布団にカビが生えやすいそう。
断熱材はなく、寒いです。。。
ここに住んでいて一番の問題は
やはり「音」だそう。
壁といっても板のような薄さです。
プライバシーは皆無じゃないでしょうか。。。
ちょっとした事でケンカになる事がある、というのも
分かる気がしました。。。
和泉さんの好意で、こうして
仮設住宅を拝見し伝えられることができました。
今の被災地の姿と、今の被災者の方の生活を、
こんなにリアルに伝えられたのは、
和泉さんの人柄のおかげです。
映画でも和泉さんの奮闘ぶり
ぜひ見てくださいねヽ(゚◇゚ )ノ
それにしても、昨日の芳賀さんに和泉さん、
FMみなさんの方はみんな親切です。!
和泉さんのお宅を後にしたあと・・・
車中で再び電話が鳴り。。。
「少しだけなら時間作れますよ」
それはFMみなさんの元リーダー
工藤さんからでした!
工藤さんが今いるのは宮城県登米(とめ)市。
僕たちが南三陸町にいた時は、
一分一秒でも無駄にしたくない気持ちで、
話が聞けるならどこへでも!という勢いでした。
という事で398号線を
今度は西へ西へを急行しますヾ(@°▽°@)ノ