第7回 孤塁 中村昭則(三十五代目甲南大學應援團團長)【2】
前回、記述させた様な只中に中村團長は我が應援團の門を叩いたのでございます。勿論、入学間もない頃には他の新入團員もいた訳ですが、紆余曲折を経て最終的に残ったのは中村團長一人だけであります。一つ上にあたる小川團長も同じく一人だけの代でありまして、2年続けて團員が学年に1名しかいない状況が訪れたのでございます。
結果論ではありますが、この時、最後の一人である彼らが辞めていたらどうなっていたのか、という可能性を考えると肝が縮む思いが致します。以前も書かせて頂きましたが應援團という団体ほど新人が辞める団体はないでしょう。
平成に入ってからのデータで言えば10~15名の入團者を得ても最終的に残るのは3~4名程度であります。故に仮に應援團OBが100名いたとしますと、應援團リタイア者は500名はいるという計算になります。
この多くの中途で挫折した者達と同じ様に、この時の團員達が辞めていたら…という想像は決して荒唐無稽な可能性を論じている訳ではないという事がお分かり頂けると思います。辞めていたとしても決して不思議ではない状況の中、彼らは4年間を全うしたのであります。
以前に33代目 松田副團長 の稿で書かせて頂きましたが、松田副團長の英断で33代目当時、随分と團運営の見直しが行われました。少人数でも團務がこなせる様、合理化が図られた訳でありますが、決して緩む事がなかったのが練習であります。
練習と応援や舞台等の本番は厳しく、その他は極力、下級生の負担を軽減する策が施行されたのであります。人数が少ないとほぼマンツーマンの指導になる訳でありますから、自ずとキツくなる訳でございます。
特に中村團長が入團した時は32代目 村上團長の治世でありまして、時のリーダー部長は芹生リーダー部長
であります。練習はキツいながら、流麗な芹生リーダー部長の演武に魅せられた中村團長はリーダー部への意欲を燃やします。一つには中村團長を勧誘し入團に導いたのは他ならぬ芹生リーダー部長であり、人一倍、思い入れも強かったのであります。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会