リーダー部列伝【6】(5) | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

第6回 柱石 松田豊彦(三十三代目甲南大學應援團副團長)【5】


前稿で「リーダー部列伝」としてお伝えすべき事はほぼ網羅出来ておる様に感じますが、松田副團長の場合、まだ書き足りない気が致しますので、今少しお付き合い頂きたくお願い申し上げます。


再三、書かせて頂きましたが、松田副團長が我が團に在籍していた昭和59~62年は團史の中においても危機的状況として特筆すべき時代でありました。30代目=0名、31代目=2名、32代目=4名、33代目=2名、34代目=1名、35代目=1名、36代目=3名、これが松田副團長が関わった年代の團員数であります。29代目以前は1学年に5~10名程度の團員が居た事が嘘の様な低迷ぶりでありまして、應援團業界でも当時としてはかなり所帯の小さい團でございました。


当時はバブルの足音が近づいていた社会全体に活気がある時代でありまして、大学におきましても学生数の増加が進み、大変、華やかな時代でもありました。各團共に20~30名の團員を擁していた時代に、斯様な状態でありましたので、OBの間でも消滅を危惧する声もございました。事実、昭和50年代に諸般の事情で解散する應援團は決して少なくなく、他人事ではなかったのであります。


松田副團長が在籍した4年間は遂に團員数が二桁になる事はありませんでした。特に先代幹部が引退し、副團長に就任してより新入生が入ってくるまでの3学年のみでの構成の時分には総勢4名という危機的状況にあり、春合宿では食事は何処が上座か分からぬちゃぶ台で摂り、練習用具の持ち運びは幹部も持たねばならないという有様でございます。


そこで松田副團長は思い切った組織改革を行い、團員が定着し易い環境作りを推進されました。秋霜の如き様々な規則を緩めるという事は一見、簡単そうに思われがちですが、実際に運用するのは至難の業であります。最低限、應援團員として必要なものは何かを見極め、その部分は徹底し、逆に優先順位は低いものは思い切って目を瞑るというメリハリが要求される為でございます。

匙加減を誤ると、規則を緩めたにも拘わらず團勢は回復しないという状況を招来致します。そういう意味において33代目幹部の運用は玄妙を極め、團勢回復の礎となりました。その志を継承した34代目、35代目幹部はそれぞれ1名ずつという困難な状況の中、團勢回復の難事業を見事に推進し、遂には36代目になると團員数は二桁に回復するに至ります。


結果論ではありますが、この33~35代目の再建活動は團史でも特筆すべき事績である事は間違いございません。数代後の未だ顔すら見えない後輩の為に粉骨砕身する事は報われるところも少なく、まさに應援團の根底である縁の下の力持ちを身を以て体現したと言えるでしょう。

その柱石となった松田豊彦副團長の名は我が應援團の名が何らかの形で残っている以上、語り継がねばなりません。


【松田豊彦副團長】
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八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会