昨日、春合宿の記事 を書かせて頂きました。その関連を今日は書かせて頂きたいと思います。
春合宿は体力づくりが主眼であった夏合宿とは異なり主にリーダー部なら演武・乱舞・応援の型の練習、親衛隊は旗手、鼓手の練習と言った技能面での練習がメインになります。各員が1学年ずつ昇格した訳ですので、新たな役割に応じたポジションの技能を前任者である先輩から直接、伝承頂く訳であります。
そこで思うのが、昨日、触れた危機的状況の時代の事であります。時代的には昭和60年前後の頃でしょうか。まだまだ大学應援團に活気があった時代であります。関西の他校應援團でも20-30名の團員を擁しており、事実、私共も1学年が抜ける前は同規模の人員を擁しておりました。しかし1学年が抜けてしまった弊害が大きく、一時期、春合宿時点で4名まで落ち込んだのでございます。幹部自らが練習道具を運び、何処が上座やら判然としないちゃぶ台で食事を摂る合宿の中、最大の問題は演武・乱舞・応援の型の伝承であります。人数が揃っておれば一人1題か2題、習得すれば充分だったものが、人数が少なくなりますと一人で幾つもの型を覚えねばならぬ必然性に迫られる訳であります。しかも後日、舞台等で実際に演じるのはその中の一部に過ぎず、次に入團して来る後輩に伝承するまで覚えていれば良いというものでございます。
リーダー部員はそれぞれにこだわりがあり、自分が任された演目をとことん研究し、伝授して頂いた先輩よりも華麗に演じる覚悟で取り組むものでございますが、それがただ後輩に伝承する為だけに演目が己の体を通り過ぎてゆく悲しみは当事者にしか理解できぬ事でしょう。
その時代を乗り越え、その4名の中の最後の1人が幹部になる頃には15名程度にまで團員数は回復しました。また彼の指導を直接、受けたこの時代のリーダー部員は歴代の中でも技量が抜きん出ていた様に感じます。斯様な時代を懸命に支え次代へバトンを繋いだこういった團員達の労苦の上に48代の歴史が成り立っている事を我々は忘れてはなりません。
八代目甲南大學應援團OB会
広報委員会