本日11月4日は三十二代目甲南大學應援團リーダー部長 芹生長門 甲兄の祥月命日であります。芹生甲兄が所属していた32代目は昭和62年卒業にあたるので、存命であれば今年で48歳になります。
彼が鬼籍に入ったのは平成16年11月4日の事でした。享年41歳。余りにも早過ぎる死に多くのOB会員が呆然としていたのがつい昨日の事の様に思い出されます。
故人に対するコメントは多かれ少なかれ美辞麗句で飾られるものでございます。しかしながら芹生甲兄に関しては、そんなものは全く必要ではない、という事を声を大にして最初に申し上げたいのです。その一本気な性格と、底抜けに明るい人柄は、絵に描いた様な應援團員でありまして、斯様な快男児は二度とは現れまい、と思ったものです。
さて、そんな彼は人呼んで「最後のリーダー部長」。リーダー部長とは應援團にある約10程の役職の一つであり、応援や演武の指揮を執る責任者でございます。1学年10名は團員がいる時代ですと、各々の適性を鑑み役職を順番に決めてゆき、演武や乱舞のリーダーを演じる事が最も卓抜している者がリーダー部長に任命されます。つまり相対評価なのでありますが、彼以降、絶対評価になった感があります。
理由の一つとしては團員数の減少があります。全ての役職を埋める事が出来なくなり、團務遂行に必要な團長、副團長、幹事長、本部長といった役を優先的に決めざるを得ず、リーダー部長を任命できる人数的余裕がない訳であります。
しかし仮に人数的に余裕があった場合でも一定の技量がなければリーダー部長に任命出来ないという暗黙の了解が出来上がった様に感じます。そしてその基準こそが芹生甲兄であった事は明白であり「芹生長門に匹敵するだけの気構えと力量があるか」がリーダー部長の条件だった訳であります。そして遂に芹生甲兄を越える者を得る事無く今日に至っている次第でございます。
2年前が芹生甲兄の7回忌でございました。このままでは甲南大學應援團という存在と共に、芹生長門という快男児が確かにこの世にいた、という事実も風化してしまう、そんな想いに駆られた同期・村上雅樹32代目團長の呼びかけで應援團本部で7回忌を挙行させて頂きました。
この32代目というのは実に結束が強い代であり、遠路、横浜から日帰りの日程で参列する者がいたり、生前の芹生甲兄の人柄を偲ばせる会になりました。
弊会の関会長にもご多用の中、ご臨席賜り、故人を偲ぶと共にOB会員の絆を再確認し、應援團再建を進める傍ら、甲南大學應援團が神戸の街で確かに力の限り活動していたこと、そしてそこには芹生長門という快男児が確かに活躍していた事を語り継いでゆく責務が我々にはある、と出席者に訴えました。
その為にも必ずや應援團を再建し、芹生甲兄を越える様な團員を養成する事が何よりの供養になると思います。今年も芹生甲兄の祥月命日を迎え、そんな想いをより強くした次第でございます。
八代目甲南大學應援團OB会