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先日、弁護士でタレントで起業家で宗教家で言論人のアメリカ人が静岡でこういった事を述べていたそうです。
●【静岡「正論」友の会】ケント・ギルバート氏講演「日本国憲法は穴の空いたチノパン」「日本が大国として自立する第一歩が憲法改正」 - 産経ニュース
http://www.sankei.com/politics/news/160813/plt1608130019-n1.html
ギルバート氏は冒頭、「日本は大国か」と会場に質問を投げかけ、挙手した聴衆の少なさにため息を漏らした。そして、江戸時代の鎖国から開国を経て、敗戦により連合国軍総司令部(GHQ)が日本の仕組みを変えていった流れを説明した。
その中で「GHQによって優秀な教員が追放され、多くの共産党員が学校の先生になった。彼らが日本教職員組合(日教組)を組織し、戦後の子供たちに自虐的な教育を行っている」と、教育現場に自虐史観がはびこる要因を解説。GHQによってつくられた日本国憲法についても、「洋服に例えると、百貨店のオーダーメードのスーツではなく量販店の既製品のチノパン」と皮肉を飛ばし、「よくみるとそのチノパンには穴がいくつも空いている」と揶揄(やゆ)した。
日本の歴史にお詳しいようですが、そこで弁護士でタレントで起業家で宗教家で言論人のギルバートさんにお聞きしたい事があります。
戦前の日本は「脱亜入欧」と「亜細亜主義」という二つの矛盾した主義、イズムを抱えていました。
その二つの矛盾を抱えたまま、大東亜戦争、そして日米戦争へ突っ込んでいき、敗れたんです。
この二つの矛盾はどうして起きたのか?
なぜこの二つの異なる方針が残ったまま近代化を為されたのでしょうか?
そして、なぜ方針を決めきれなかったのか?
大東亜戦争は「脱亜入欧」「亜細亜主義」どちらの方針に基づいて行われたのか?
そこをお聞きしたい。
恐らくギルバートさんには答えられない。
日本は近代化した時からこの二つの矛盾を抱えていたのですが、それを日本人自身が何も認識をせずにここまできた。
欧米からのアジアの開放という大東亜戦争の目的の一つは亜細亜主義に基づいたものですが、大陸への進出は欧米列強の帝国主義的な側面があるというのを否定はできない。
欧米列強と違って植民地として扱わなかったという言い分でも出てくるでしょうが、日本が今までの国境を超えて大陸に進んだのは本土防衛の側面があったとしても、日本が帝国主義的な考えを持って、大陸に進んだのは否定できない事実です。
僕は別にギルバートさんが言ってた「戦後自虐史観」というのを肯定しているわけではなく、歴史というのは別の側面からも見ないといけないと言いたいんです。
そして日本はそれをやらずにここまできた。
そこを見ずして簡単に「GHQによって優秀な教員が追放され、多くの共産党員が学校の先生になった。彼らが日本教職員組合(日教組)を組織し、戦後の子供たちに自虐的な教育を行っている」などと言ってしまうのは浅はかですし、そうなると敗戦してから7年間の占領政策で当時7000万の日本国民が180度考えを転換させたことができたなんてあり得ないんです。
そして、ギルバートさんが皮肉った日本国憲法ですが、前文が国連憲章やアメリカの権利の章典に非常に酷似している部分がある。
そして、これはギルバートさんの宗派ではなかったと記憶してますが、クエーカーの宗教的原理主義的な思想も織り交ぜられている。
クエーカーの教義に「武器を手に取ること それが自体が罪である」という教えです。
クエーカーが当時のGHQにいたのははっきりしています。
GHQの副官であったボナ・フェラーズ准将、今上陛下の家庭教師を務めたエリザベス・ヴァニングです。
この二人はクエーカーであるのは明らかになっています。
これをもってクエーカーの陰謀などという事は言いませんが、単にGHQにコミンテルンがいたから共産主義的な工作があったなどというのが流れているようなので、そんな単純なもんではないという意味で出しました。
ギルバートさんに言いたいのは
「歴史なんて見方が変われば景色も変わる」
ということです。
お気楽極楽に語る前に見方も変えないといけないし、連続性というのも見ないといけないということです。
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