自殺と貧困から見えてくる日本 - 生きていてもいい。つながりから広がる私たちができること | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 3月10日の反貧困ネットワークとNPO法人ライフリンク共催のシンポジウム「自殺と貧困から見えてくる日本~生きていてもいい。つながりから広がる私たちができること~」の後半のシンポジウムの要旨を紹介します。(※先のエントリー「自殺と貧困から見えてくる日本 - 過労自殺へ追い込む長時間過重労働・人権侵害横行の職場環境」 の続編です。by文責ノックオン。ツイッターアカウントはanti_poverty)


 シンポジウムは、ライフリンク代表の清水康之さんと反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さん、精神科医の香山リカさんの3人がシンポジストで、コーディネーターは僧侶で反貧困ネット・自殺対策ワーキングチームの中下大樹さんです。


 清水 いま日本では12年連続で年間自殺者3万人以上という異常事態が続いています。これは交通事故で亡くなる方のおよそ6倍です。東京都に限って言えば13倍にもなります。人口10万人当たりの自殺者数である自殺率で比較すると、日本はアメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍という高さです。


 とりわけ中高年男性の自殺が問題視され、40代から60代の男性の自殺が全体の4割を占めています。しかし、中高年男性の自殺だけが問題というわけではありません。20代と30代の死因のトップは自殺で、これも他の先進諸国にはないことですし、80代の自殺率31.4は全世代平均の25.3を大きく上回る状況になっています。


 また自殺者に占める男性と女性の割合は7対3となっていて、男性の自殺が多いわけですが、諸外国と比べると、男性の自殺率は8位ですが、女性の自殺率は世界で第3位となっていて、女性の自殺も非常に深刻な問題になっています。


 (※ここで、東京マラソンの映像がうつし出されました)

すくらむ-東京マラソン


 今年の東京マラソンも数週間前に行われましたが、いまご覧いただいているのは、一昨年の2月に開かれ3万人が参加した東京マラソンの映像です。スタート地点となった東京都庁から1.5キロの地点の新宿の雑居ビルの屋上から私自身が撮影したものです。


 「3万人」というのは、文字にしてたった3文字ですが、実際にはこれだけの数の人たちが12年連続で自殺しているのです。3万人というのは、この映像のように道路をうめつくす状態が20分間も続くのです。そして、走っている方それぞれにゼッケン番号があるように、亡くなった方一人ひとりには、家族や友人がいて、それぞれかけがえのない人生があったわけです。年間3万2千人、毎日90人が自殺するという、とりかえしのつかない異常事態が続いているのです。


 香山 精神科医として25年ぐらい臨床の現場にいる中で、治療中に自殺された方や自殺未遂された方、家族を自殺で亡くしたことでうつ病になった方など、自殺の問題にもかかわってきました。そうした中で実感しているのは、自殺に追い込まれる方というのは、まったく特別な存在ではないということです。むしろ責任感が強く、まじめでいい人たちばかりです。


 清水 遺族や、自殺当事者と関係がある人から最もよく聞く言葉は、「まさか」という言葉です。「まさか自分の家族が」「まさか自分の友人が」「まさか自分の同僚が」「まさかあの人が自殺するとは思わなかった」と多くの方がそう言います。香山さんも指摘されたように、自殺は決して特別なことが理由になって、特別な人にだけ起こる問題ではないということです。ですから、みなさんがいま自分の周りに自殺しそうな人がいないから、自分には自殺の問題はまったく関係ないことだとは決して言えないのです。この「まさか」を「もしかしたら」にとらえなおして、自分たちの問題にしていく必要があります。


 そして、もうひとつの言葉は「ごめんね」という言葉です。自殺で亡くなるときに、当事者は「こんな駄目な父親でごめん」「こんな駄目息子でごめん」と自分を否定しながら亡くなる方が非常に多い。しかし、当事者が謝らなければいけないようなことをしているわけではないのです。まじめで責任感の強い人たちが自殺で亡くなっているのです。人生最後の言葉、人生を閉じる言葉が「ごめんね」「こんな駄目な自分でごめん」と謝って亡くなっていかなければならない。どれだけ無念だったでしょうか。そして、自分を否定しながら亡くなった方の遺族の悲しみの連鎖も広がってしまっているのです。


 (※シンポの会場には、自殺に追い込まれた方の事例がパネルで展示されていて、上司のパワハラで自殺に追い込まれた27歳の男性のケースでは、上司によるパワハラの実態が次のように紹介されていました。「タバコの煙を顔に吹きつけたり、すねを5~6発蹴り付けながら、『わかってんのかよう!』と叱責される」「朝、定時より2時間も早く出社しても『来るならもっと早く来い!』」「退職を願い出ると『根性ねぇな』と取り合ってくれない」――こうしたパワハラを受け続けた男性は、「あいつにも家族がいるだろう、親がいるだろう。殺したら悲しむだろう。我が家もそれは同じだから、あいつを殺せば犯罪者になり、俺の家族に迷惑をかける。自殺を決意してわかったこと、家族を愛していた。死ぬほうが私にとって楽になります。理解できないだろうけど、ごめんなさい」と綴っていました。58歳で自殺した男性は、「仕事ができないでごめんなさい、かんにん。私はスカ。ごめんなさい、かんにん、ごめんなさい…」と20回ほど会社の住所録の裏に書き残し、新婚時代に過ごした町へ行き、電車に飛び込み自殺しました)


 湯浅 過労死や過労自殺など、人の命さえ奪ってしまう過酷な労働条件や横行するセクハラやパワハラから、個々の労働者を守る仕組みもなければ、守る人たちもほとんどいないため、当事者は孤立していって、うつ病になり、自殺に至ってしまう。このプロセスというのは、日本社会の形をそのまま示していると思うのです。


 職場でも社会全体でも非常に競争主義的になっていて、「人の横に人がいない」「自分の横に相手が存在しない」ので、「人の上と下にしか人がいない」「自分の上と下にしか相手が存在しない」ような状況です。自分より上の相手からは「お前なんてまだまだだ」と言われ、下の相手には「お前なんてまだまだだ」と言い、「自分の横に相手が存在しない」という状態は、全員がお互いそれぞれを否定しあって成り立っている職場や社会になっていると思います。そんな社会ですから、多くの人が展望を見い出せなくなる。こうした職場・社会で生きていく意味が分からなくなる。多くの人が、何のために生きているのか分からなくなってしまっているのではないでしょうか。


 貧困の問題が自殺の問題と共通していると思うのは、社会の側が「そんなのは本人の問題なんだからほっとけ」と言い、当事者たちも「ほっといてくれ」と言う。野宿の人たちの中にも、「俺はこの生活がしょうにあってるんだ。ほっといてくれ」と言う人はたくさんいます。でも本当にそうなのかというと、そうじゃありません。「ほっといてくれ」と言いながら、じつは何かを訴えているのです。それは私たちのところに相談に来たりとか、いろいろかかわりを実際はもってきたりすることが示していたりするのです。そのときに、「ほっといてくれ」と本人が言ってるんだからと放っておこうとする社会の冷たさを転換しない限り、自殺も貧困も解決していかないと思います。


 よく、「そんなに困っているんだったら何でもっと早く相談に来ないんだ」とか、「なんでそんなになるまで放っておいたんだ」とか当事者を責め立てます。相談に来ること自体が、当事者にとってはとても高いハードルを越えて、ようやく出してきた「SOS」なのに、それをあしげにするような振る舞いをする。そうすると、当事者はますます「SOS」も出せず、事態は深刻化していくのです。また、生活困窮者に少しでも問題行動があれば、徹底的に責め立てる。そうしたことが日本社会は多すぎると思っていて、そのことでそれぞれがみずから「生きづらさ」を加速させ、誰もが「生きづらい社会」にしてしまっています。こんな状況にある社会をひっくり返していかないといけないと思うのです。


 日本のセーフティーネットは「島」だと言っています。セーフティーネットといういくつかの「島」がある。「雇用保険の島」と「生活保護の島」があり、その間に最近、第2のセーフティーネットが作られましたがそれは「群島」みたいなもので、小さな島が集まったものを無理に「第2のセーフティーネット群島」と呼んでるようなものです。その上、このそれぞれの「島」と「島」の間には、橋がかかっていないのです。船もないので、基本的に、当事者は「自力で泳いでいけ」と言われる。それで泳ぎつけなかったら、当事者は泳ぐつもりがなかったんだねで済ましてきました。セーフティーネットの問題ひとつ取っても、貧困や自殺の問題は放置され続けてきて、何も手つかずできましたから、私たちがやらなければならない課題はたくさんあります。福祉分野では、「アウトリーチ」と言いますが、当事者に対して社会が手をのばしていかなければ問題は解決しないと思います。


 中下 先日も公園で自殺をされた方のお経を読ませていただきました。こうした路上生活者の命が放置されている中で、この間、私は100人ほどのお経を読ませていただきましたが、そのうち8割は貧困が直接の原因になった自殺でした。最近では、「派遣切り」され、仕事も住まいも同時に失った30代の女性が自殺に至ってしまった事例があります。この女性の「派遣切り」はあきらかに不当解雇のケースであったので、相談さえしてくれていたらと残念でなりません。


 清水 支援策があるのに、当事者に支援策が伝わらないという問題では、アウトリーチが大切になっています。自殺対策支援が支援として機能するためには、2つあって、まず使い勝手のいい支援策がきちんと存在すること、そしてもう1つがその支援策があるということを当事者にきちんと伝えきることです。自殺に至る寸前の当事者は、「夜の海で溺れている」ような状態なのです。当事者は、なんとか助かりたいと思って岸をめざして泳いでいるのですが、暗い夜の海で岸がどこにあるのか分からない。だんだん疲れてきて、もしかしたらもう自分は助からないかも知れない、本当は助かりたいのだけど、岸が分からない。そういう状態にある人たちを助けるために、浮き輪を投げたり、ボートをこぎだして助けに行く。でも夜の海は暗いですから、ただ浮き輪を流しただけでは当事者に分からないし、ただボートをだまってこぎだしただけでも駄目です。ちょうど映画「タイタニック」の最後の方の場面のように、ボートは積極的に助けに行き、かすかな吐息でも耳をすまして当事者の声をキャッチしなければ「夜の海で溺れている」当事者を助けることはできないのです。


 最後に日弁連会長になったばかりの宇都宮健児さんが読み上げた集会の宣言文を紹介します。


 貧困と自殺から見えてくる日本
 ~生きていてもいい。つながりから広がる私たちができること~


               宣言文


 今、私たちの社会では「もう生きれない」「死ぬしかない」と、自らの命を絶たれる方が12年連続で3万人以上いらっしゃいます。


 私たちは自殺で亡くなった、多くの方々に心より哀悼の意を捧げたいと思います。


 自殺にいたる方のすべてが生活困窮者ではありません。しかし、自殺者の多くが中高年以上の男性無職者であること、生活困窮していたことを考えると、貧困問題と自殺問題の根っこは同じであると考えることができます。「自殺は社会構造的問題であり、社会に強要された死だ」とも言えます。


 派遣切りや雇用環境の悪化、社会保障費の一律の削減によって、雇用・年金・医療・介護・生活保護等の現場は疲弊し、より弱い立場におかれた人にその歪みが集中しました。人間らしい雇用・生活よりも優先された規制緩和、マーケット至上主義がエスカレートしていくと同時に、自殺に追い込まれる人も増え続けました。市民の生活は待ったなしの状況が続いています。雇用、社会保障を質量ともに大胆に充実させていくことが、何よりの自殺・貧困対策であり、生きる希望につながるのではないでしょうか。


 一方、自殺・貧困問題に関しては、ただ社会が悪いというだけでなく、私たち一人ひとりの側にも責任があるように感じています。あたたかい人と人とのつながりやともに感じること、日々のささやかな暮らしの営みをあまりにも軽視してきた私たちの社会、私たちの生き方そのものを象徴しているのではないでしょうか。自殺は弱い人がするもの、自己責任であると無関心を装ってきた結果、12年連続で3万人を超えてしまったのではないでしょうか?


 貧困問題と同じく、自殺問題を正面から考えることは、私たち一人ひとりが「どのような社会を望み、どのような生き方をするのか」という問題でもあります。そして、繰り返される悲劇を引き起こしている社会のありようを根本から見据え、私たち一人ひとりがどんな状況になっても「生きていてもいいんだ」と自分の生を肯定できる社会、どんな人でもそれぞれが尊重される世の中、人間らしい暮らしのできる社会にしていきたいと強く願っています。どんなに苦しく、困難な状況にあっても、人間には他者に思いをはせる力があります。私たちは、さまざまな人の声を聞きながら、それらの人たちと垣根をこえてつながり、貧困や自殺のない社会をめざし、活動を継続していきます。


 最後に、不安や痛み、倦怠感を抱えながら日々の生活をおくる仲間たちに。時には一息つきながら、ぼちぼちいきましょう。決して一人ではありません。ここには同じように想い、悩む、仲間がいます。「生きていてもいい」。一人ひとりではちっぽけな存在で、微力です。しかし無力ではない。すべてのことを一人では抱えきれません。つながりから広がっていく、できることを、ともに探していきましょう。
                            2010年3月10日