貧困も病気も自己責任にしコストかかる人間を切り捨て「生きづらさ」の臨界迎える日本社会 | すくらむ

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国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 病気になるのも「自己責任」と言わんばかりの麻生首相。日本という国は、いよいよもって「生きづらさ」の臨界を迎えているように思います。


 「新自由主義社会の『先進国』アメリカでは、病気にかかるリスクの高い労働者は会社に『損害』を与えるので、解雇されやすい。もっと徹底すれば、遺伝子構造からリスクの高い人間は、将来、社会的コストをかけてしまう確率が高いので、あらかじめ排除しよう、ということにもなる」(湯浅誠・河添誠編『「生きづらさ」の臨界』[旬報社]所収「内面化される「生の値踏み」~蔓延する自己責任論」、中西新太郎×湯浅誠×河添誠の三氏による鼎談での中西教授の発言)


 本書に掲載されている横浜市立大学の中西新太郎教授の話は、ちょっと難解なので、私なりに要約して紹介します。(なので、中西教授の真意とは違う可能性もありますので注意ください。byノックオン)


 新自由主義はすべてのものを市場化・商品化しようとする。人間さえも市場化・商品化され、みんな個々で新自由主義社会に対して責任をとるべき存在とされる。社会に対して、コストとリスクを負わせる人間の存在は問題視されることになっていく。


 病気であったり、貧困であることは、社会にリスクを負わせて、コストをかけさせるから許されない存在とみなされる。本当は個人を貧困な状態にしている社会の側の問題であるのに、個人がそういう状態でいること自体が問題だと、逆転させてしまう。社会と個人の関係を逆転させてしまう。貧困は個人の問題だと逆転させ、これを徹底していき、個人に内面化させて、「私はいるだけでも社会に迷惑をかけています」という精神状況に追い込んでしまう。


 こうして雇用からの排除とか、貧困とかを社会の側の問題ではなく、個人の側の問題として、「私はいるだけでも社会に迷惑をかけています」という感覚が人間に内面化するとどうなるか。


 例えば、学力的に問題を抱える子どもに「ちゃんとできないんだったら、勉強を教えてあげようか」と言うと、「そんなことしないでください。それじゃなくても迷惑をかけているのに、私のために余計なエネルギーを使うより、ほっといて」となる。つまり、問題をカバーするとか貧困をカバーするなどの社会の働きかけは、「自己責任論」を内面化した本人からすると、ますます自分はコストをかける存在だということをつねに自覚させられる行為になってしまう。だから「もう、ほっといてくれ」という反応を呼び起こしてしまう。社会的コストがかからない人間であることを強制するためのイデオロギー的な手段として、「自己責任論」という言葉が使われている。


 問題をかかえていても、他の人に何も要求しない、社会に対して要求しない、要求しようとも思わない人間がつくられていく。他者に支援を求めること、社会に要求することは、本来であれば、貧困であったり、問題をかかえる人が発揮しなければいけない社会的責任の果たし方でもあるのに、まったく逆転した発想にしていく。


 アメリカでは、社会保障や福祉の個人会計がやられている。「全体であなたはいくらぐらいのコストがかかっていますよ」ということをはっきりさせる。まさに生身の人間が“値踏み”されているわけだ。しかし、人間というのは、ただ、そこで普通に生きているとコストをかけてしまう存在だというのは、人が社会的存在であり、相互に依存し合う存在である以上、当たり前の話だ。その当たり前の話が、個人が社会にコストをかけさせないという考えを前提にしたときに、すべてがひっくり返る。「本来、コストをかけさせてはいけないのに、コストをかけさせる人間というのはダメだから、自己責任で何とかしなさい」という話に逆転していく。その逆転を生み出す装置が「自己責任論」だ。


 「自己責任」というイデオロギーを利用して、医療と社会保障のコスト切り下げを正当化していく。「自己責任論」は、雇用と社会保障の切り捨て、新自由主義政策を正当化する機能をもっていることは明らかだ。