『 精神文明と奇跡 』
第3章 肉体と生命体
◎ 私の前世となつかしき土地 ①
昭和の初めころの流行歌の中にある一節
鳴くな信濃の山がらす 鳴けばお山に雪がくる
を子供のときに覚え、六十歳を越したいまでもなつかしく口ずさむことがある。
また、加賀の国も子供ごころに好きであり、人では新田義貞、楠木正成、そして後醍醐天皇等であり、歴史中の人物で特に印象強く覚えている。
また小学読本の中で、新田義貞が、稲村(いなむら)ヶ崎の海へ自分の刀を投げいれその力によって海を渡ったこともよく覚えている。
そのように特になつかしい土地や、親しみを持つ人達が、何百年か前の自分の前世に関係のあったことが、天玉尊先生の神示録によって明らかになった。
子供のときから懐かしく、こがれていた信州へスキーに行くことになった。
それは筆者が四十五歳のころであり、場所は信州の熊の湯であった。
それ以降二十年近く、毎年年末年始は熊の湯の
『国鉄山の家』
で過ごすようになった。
そして昭和五十三年、天玉尊先生による前世供養によって、六百五十年前、私は畑時能(はたときよし)という武人であり、新田義貞、仁礼頼仲と共に信州にいたことが判明した。
天玉尊先生の神示録
南北朝時代(一三三五)
畑六郎左衛門時能
武蔵の国の武将 … 後に信濃の国に移る
新田義貞の要望により脇屋義助に従って加賀越前を攻める
たかすの城で流れ矢に当たって死す
乗馬、武芸に長じ、がんこ一徹で、人気もので、陣取りがうまい。
そこで歴史名鑑を調べたところ次のように天玉尊先生の神示とまったく同じ記事があった。
畑 時能(はた ときよし) -----
?~一三四一年十月二十二日(興国二年、暦応四年十月二十二日)南北朝時代の武将、通称は六郎左衛門、武蔵の人、のち信濃の国に移る。
一三三五年(建武二年)新田義貞の挙兵に呼応して吉野方に味方し、脇屋義助に従って奮戦し、ついに加賀、越前を攻略した。
その後越前の湊千手寺(みなとせんずじ)城を守り、また、斯波高経(しばたかつね)の大軍が北陸の諸城を陥落させた際も、彼ひとりとどまって鷹巣山城を守った。
一三四一年十月二十二日高経らが兵七千をもって攻めたとき、戦ったが利あらずして流れ矢に当たって陣中で没した。
彼は多彩で乗馬、水泳に秀で、武芸に堪能で謀略に長じていた。
と記されている。
未知の地名を懐かしく思う心の根源には、自分の生命体の前世の記憶によるものかも知れない。
天玉尊先生のいわれる福井へ行けば、私の前世の墓所が見付かると思い続け、探しに行くつもりでいたある日、昭和五十五年五月に東京プリンスホテルで浅田アメの社長夫婦と初めてお会いしたとき、お話の最後に、私の六百五十年前は畑時能だったのですというと、社長が、
『六郎左衛門と違いますか』
『そうです。
私の名は畑六郎左衛門時能です』
と答えると、大変びっくりして、
『それではあなたは、私の家のご先祖様です。
私の家の系図の最初にその名があり、私は歴史が好きで、よく調べたものです』
日本の人口一億の中で、このように自分の六百五十年後の子孫と会えたことは偶然とは考えられず、余りの因縁の深さに驚いたものであった。
昭和五十六年九月、石川県から北村氏が来阪し新製品開発の依頼のあったとき、仕事の話が終わってから、私の前世は畑時能であり、石川県と福井県境の細呂木(ほそろぎ)城主であったことを話した。
それから数日後に同氏から送られてきた郷土史等により、六百五十年前に、間違いなく自分の居たことを確認させて頂くことになった。
北村氏に深く感謝することである。
----- 以下郷土史料書
『功業不麻』
非売品・昭和44年11月発行 日置謙頒功碑建設委員会発行より
● ハタトキヨシ
畑時能(はたときよし)吉野朝の武将。
六郎左衛門と称す。
容貌魁偉(ようぼうかいい)、謀略に長ず。
又多力よく泳ぎ、撃刺騎射皆精妙ならざるはなく、戦う毎(ごと)に未(いま)だ曾(かつ)て敗れずと称せられた。
もと武蔵(むさし)の人、のち信濃(しなの)に移る。
建武の初め新田義貞の義兵を挙ぐるや、時能従って王事に勤め、また脇屋義助に従い、船坂山を抜き、義貞の越前杣山城に移るや、時能細呂木に築き、遂(つい)に加賀越前を略し、義貞に声援す。
延元三年義貞の死後、義助の命によりて越前湊(えちぜんみなと)城を保ち、よくこれを守る。
たまたま義助の足利高経を足羽に攻めんとするや、時能、金津、金碕(かねさき)等の諸城を陥(おとしい)れ、進んで足羽を攻めて高経を奔(はし)らす。
既にして高経大軍を以(もつ)て杣山を攻め、義助敵せずして越前に走るや、加賀、能登(のと)、越中(えっちゅう)、若狭(わかさ)等北陸の官軍多く守を失う。
ただ時能独り募兵を以て鷹巣城を守りて南朝のために気を吐く。
高経、高師治と共に北陸道の兵七千を以てこれを攻めて利あらず、時に時能の甥(おい)僧快舜(かいしゅん)、家僮(かどう)悪八郎為頼(ためより)ら皆驍勇(ぎょうゆう)にしてよく戦い、特に時能の愛犬犬獅子(しし)と名づくるもの、よく人意を解し、戦に出(い)ずるに当たって敵状を察せしめた。
若し敵に備えなければ、時能に向かって尾を掉(ふ)った。
よってこれに従って敵を襲うに、一として誤ることなく、高経大いにこれに苦しんだ。
而(しか)も時能の衆快舜以下また多く死し、時能も数創を蒙り、流れ矢に中(あた)り幾許(いくばく)もなく陣中に歿(ぼっ)す。
贈正四位。(太平記大日本史花見)(大人名事典P169)
● ホソロギ
細呂木村。
福井県越前国坂井郡の北部。
北は吉崎村、東は坪江村、南は伊井村及び金津町、西は北潟村に接す。
全村小山を以(もつ)て囲まれ砂地多し。
ために甘藷(かんしょ)の栽培良く行われ、製茶業と共に郡下一〇称あり、其他、瓦(かわら)・繭等の産も多し。
また北潟村との境にある北潟湖にはモロコの産ありて特に名高し。
省線北陸本線はほぼ村の中央を南北に縦断して細呂木駅(明治三十年設置)を置く。
平常は寂しき駅なるも毎春吉崎の御忌には一列車毎(ごと)に数千の乗降者あり。
この地は旧北国街道の細呂木宿のありし所。
中世、河口庄に入り、細呂木郷と称し春日神領なりき。
延元元年、加賀の人、敷地・山岸・上木等の人々、畑時能に降(くだ)りてこの地に城を構え、津葉五郎を加賀大聖寺の城に攻め、国中を押領す。
天正三年、上杉謙信は加賀松任城を陥(おとしい)れ、信長の軍に肉迫す。
信長、即(すなわ)ちこの地に退く。
慶長五年七月、前田利家、大聖寺城を陥(おとしい)れ、八月、進んで此(この)地に至り西軍の北ノ庄城主、青木一矩及び敦賀城主大谷吉隆の聯合軍に当たりしも、吉隆の計に陥(おちい)り軍を引き戻(もど)せり。
[春日神社]大字細呂木にあり。
村社。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭る。
昔、坂上田村麿の信仰せし保曾呂伎(ほそろぎ)神社なるべしと云う。
しからば式内社(しきないしゃ)と云うべし。
然(しか)るに寛弘八年、押領使斎藤伊博は春日十社を勧請(かんじょう)し春日明神をこれに合祀せりと。
然(しか)れども天正年中兵燹(へいせん)にかかり、由緒詳(つまびらか)ならず。
[照厳寺]清王にあり。
県下真宗大谷派唯一の大坊にて檀家千五百と称す。
嘉暦元年行覚法眼(覚如上人の真弟)が越中国射水郡永見に一字を建立し、正慶二年、覚如上人(かくにょしょうにん)より照厳寺の号を給(たも)う。
慶守七年、二世覚順は越前国吉田郡久末(今の幾久)に移転し、一向一揆(き)の大将として朝倉始末記等に久末の照厳寺として喧伝(けんでん)せらる。
然(しか)るに天正三年、織田信長の一揆(き)征伐の悲運に会い、加賀国江沼郡二梨村へ引っ越し、慶長五年八月、兵燹(へいせん)にかかり再び越前に立ち帰り、坂北郡柿原に移転し、更に堂宇を建て一如上人の末頃(ころ)、院家地となり、宝暦十年同村飛地字岡の峯へ移転す。(日本地名大事典P5146)
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