昔かいたmixiの日記を転載してみます。
無職だったからこそ、書けたこの文量!

いまではこれっぽっちでも原稿が書けません。
あ、依頼があればジャンジャン書かせていただきますよ!




 古本屋の100円棚で投げ売られていた昭和53年刊『下町』(朝日新聞東京本社社会部)を読んでいたら、「電気ブラン」の項で面白い記述を発見した。

「明治、大正、昭和初期と、浅草の代名詞とされたこの酒が、戦後いち早く復活したのは、場末の闇市、あいまいバーで、であった。メチルウイスキー、カストリ焼酎、どぶろく、ばくだん。戦後の混乱期に、これらに混じって、電気ブランの名前があった」(以下、特別な注釈がなければ『下町』より引用)

 電気ブラン。この一風変わった名前の酒は東京浅草生まれ。「明治十三年、神谷信弥現社長の大祖父、神谷伝兵衛がこの場所でこの酒を売り出」した。「わたあめを、電気あめと呼んだ時代に電気ブランとしたネーミングの良さ、得体の知れない秘密めいたアジ。いまも一杯百五十円という安さ」で評判を呼び、「浅草の代名詞」とされるまでの存在となった。いまでも、地下鉄浅草駅近く、レトロな外観が目を引く神谷バーをはじめ、全国各地の居酒屋で飲むことができるし、たしかネットで通販もやっていた。

 アルコール度数の高さから、飲み口はまるで舌がびりびりと痺れるよう。そこから「電気」という名前が付いたという説もある。電気ブラン発売当初の度数は45度。そのため、「ジョッキを右手でくうっとやってから、左手で朝顔型の小さなグラスをひと口。じっくり味わう」「強い酒で胃がやられないため、ビールで差し水しながら」飲むのが当時のスタイルだったようだ。「ビールで差し水」というフレーズが、下戸の自分には目もくらむようだ。「茶色の、妙に甘くて、変にとろみがあって、薬草のにおいがする。奇っ怪な酒である」。

 そして興味深いのが、最初の引用に続く次の箇所。

……「中身は、本物とは似ても似つかぬしろものだった。とにかく、安くて、飲めば酔う、その手っ取り早さが受けた。まったくわけのわからぬ、酒といえるかどうかさえ定かでないものに、三杯以上飲むと頭がしびれる、という伝説までつけ加えられて登場したのである。都内ではなく、このころにせ電気ブランは北海道にまで広がっていた」

 「にせ電気ブラン」。賢明な森見登美彦読者の諸氏であれば、このフレーズにピンとこないものはいないであろう。氏の小説の中で、赤玉ポートワインとともに印象的な名脇役として登場するこの酒。たとえば、こんな具合に。

「洛中にその名も高き『偽電気ブラン』は、狸界で広く愛飲され、人間の中にも隠れ常飲者が多いといわれる。東京浅草の電気ブランをまねて造った、大正時代より伝わるこの秘酒は、夷川発電所の裏手にある工場でこっそり造られているのだが、その製造の秘法を一手に握る夷川一族が製造販売を統括している。下鴨家から婿入りして夷川家の頭領となり、今や洛中の巨魁といわれるまでになった夷川早雲は父の弟であった」(『有頂天家族』より)

 その珍妙な名前とミステリアスな成立背景に魅かれて、本物の電気ブラン求めて浅草に赴いた者も多いはずだ。かくいう私も浅草演芸場で落語を観た帰りに面白半分で神谷バーに立ち寄り、周囲のダンディな紳士淑女の目線を気にしながら、慣れない手つきでその琥珀色の液体をすすったものである。

 それにしても登美彦氏も妙な酒をしっているものだ、狸に偽の酒を造らせるなど怪しげな発想をするものだと思っていたら、戦後日本に実際に「にせ電気ブラン」といいえる酒があったという事実は興味深い。というよりも、当時のスタンダードはむしろ「にせ電気ブラン」であったらしいのだ。再び引用。

「そうした時代を生きてきた人びとにとって、電気ブランとはにせものこそが本物、なのである。ヘッド・ロッカーを、ビールで薄めたりはしない」

 ヘッド・ロッカーとはヨーロッパ各国に存在する45度以上の強い酒のことで、いずれも「ビールを飲みながら、合間にちびちびやる」スタイルがとられた。いわば本場の電気ブランは浅草のヘッド・ロッカーであったと本の著者は語る。この飲み方には酒を味わう余裕、贅沢が感じられる。しかし戦後の物資不足の中で、味わうなんて余裕はなく、おそらく食べるだけ、飲めるだけがマシであった。質が悪くても手っ取り早く酔える、それこそが最上の価値であったのだろう。時代に即した酒を開発する際、アルコールの強い電気ブランのイメージが採用された。と、私は推測する。

 電気ブランは、当時「正確な成分は秘伝として公開されなかった」。公式ホームページを見たところ、現在でも材料や配合法は秘密にされているらしい。ブラックボックスに隠されている以上、後に神谷と合併した合同酒精株式会社が作った電気ブランでなければ、すべては「にせ電気ブラン」であった。しかし、そんなことは問題ない。むしろ“にせもの”であることに、ある種の誇りを持っていたのではないか。

「浅草六区の外れの居酒屋にも、電気ブランがあった。油虫のはう棚に、業務用の一升びんが置いてあった。びんの肩は、ほこりと油でくすんでいた。ここにくる客は、絶対に神谷バー流の飲み方をしない。水も飲まず、電気ブランだけを一気に飲む。空になったグラスをじっとのぞき込んで、また。おれたちは違うんだ、といった。よけいなことは聞かないでくれ、という拒絶の響きがあった」

 さらに『下町』を読み進めると、戦後の盛り場を生き抜いたある老女の回想録が記されている。どこからやってきたのか、浅草に流れ着いた女性は夜の世界に生きながら、その稼ぎは悪い男に吸い上げられていた。その代わり、酒は飲めた。焼酎、メチルよりも、ほんの少しの甘みをたたえた、にせ電気ブランを好んだ。悪い男が消えた後、女性は街を去った。そして、ある日ふらりとまた浅草に戻ってきた。口は不自由で、酒はもう飲めない体になっていた。「レンキ(電気)に当たったのだ」と説明するもう六十を超すほどの彼女は、浅草に酔いを求めてやってきた客に食事をおごってもらい、そうやって生きている。

「彼女にとってレンキこそ、すべての酒の代名詞だった」

 このフレーズを聞くと、やはり登美彦氏著『有頂天家族』の赤玉先生を思い出さずにはいられない。かつて狸たちの尊敬を一身に買ったが、ある事件をきかっけに勢威をすっかり失い、いまでは小さなアパートに隠居しながら、赤玉ポートワインをなめなめ、小さな虚栄心を温めている老天狗。名前の通り、こよなく赤玉ポートワインを愛する彼は舶来のワインを見てこう言う。

「こんなものは偽物だ。おまえはワインというものを知らないか。本物のワインには、赤玉ポートワインと書かれてある」(『有頂天家族』より)

 「にせ電気ブラン」の味は本物より本物らしかったのかもしれない。あの当時の味に親しんだ先輩方は、現在のオフィシャル電気ブランを飲んで何と言うであろうか。

「赤玉先生が愛飲する赤玉ポートワインは実に哀しく甘い」(同上)