僕は山本太郎がこの参院選に勝った事実を認めたい~山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?に思う事~ | What happened is all good

僕は山本太郎がこの参院選に勝った事実を認めたい~山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?に思う事~

昨日、僕の部下と一緒にご飯を食べて、一緒にお酒を飲んだ。





その際にも、話題に上がったのが、「山本太郎は絶対に当選すべきではなかった!」という太郎バッシング....。





うーん、僕のF.Bフレンドも太郎の当選に対して、疑問の声、否定の声、「選挙違反をしているのだから当選を無効にすべきだ説」など、まぁ、太郎当選に対するバッシングの声が後を絶たない...。





でも、ちょっと待って欲しいと僕は思う....。







太郎バッシング派の方々の主張は、概ね、「脱原発を唱えながらも、本質的な主張は脱被曝であり、数字的な根拠もまったくないにも関わらず現況に対する不安を必要以上に煽り、更に被曝から逃れるための権利が保証されることを唱えるなんて、被災地で暮らす人々を冒涜している。更に、過去の経緯も踏まえることなく安易に脱原発、脱被曝を訴えるのは無責任」ということに集約される。







方々の主張に対して、何の異論もないし、まさにその通りだと思う。だから、僕も太郎に票を投じることはしなかった。でも、太郎は当選してしまった....。







僕は彼の政策や主張云々は置いておいて、この選挙戦に勝ち抜いたその戦術、戦略というのを、ただ単純に評価したいと、そう思うのである....。






正直、今回、太郎を支持した人たちが、太郎の主張の100%を支持したとは到底思えない。けれど、「太郎なら何かやってくれるんじゃないのか?」、「太郎であればこの閉塞感だらけの政治の世界に何か風穴を開けてくれるのではないか?」という期待感が、50万人以上の人々の心を揺り動かしたのだと思う。









太郎の選挙中の主張は、脱原発の一点張り。それ以上のことは何も言っていない。けれど、何をしたいのかがさっぱりわからない、維新の小倉よりはよっぽどわかりやすかったし、グロバリゼーションに通用する人材の教育を唱えるみんなの桐島ローランドよりも、太郎が上げた課題は喫緊であり、実にわかりやすく重要なテーマだったように思う。






自民でもダメ、維新でもダメ、みんなでもダメ、共産、社民、緑の風でもダメ...。
そんな人たちの受け皿は太郎以外になかったのではないかと、そう思う...。







つまり、正直、太郎の言っていることはよくわからないけれど、既存政党や他の候補者に入れるくらいなら太郎のほうがまし!という選択を60万人以上もの有権者が行ったのである。











そんな中、あるF.Bの友人によって、こんな記事がシェアされた。






山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?



以下本文抜粋

”山本にとって脱原発とは被曝リスクをゼロにするために必要なものと位置づけられている。その立場は同じように311の原発事故後にわかに被曝リスクゼロを強く願うようになった都市圏の脱原発指向と共振・共鳴し、投票行動を促した。低線量被曝による晩発性障害の発生が完全に否定できないと聞いて、できるだけ被曝を避けたいと願う心情を持つに至るプロセスは十分に理解できる。だが、そうした心情をそのまま現実の投票行動に結びつけられるのは、原発立地から遠く離れた都市圏の特権であることもまた事実だろう。過疎化に苛まれる原発立地地元では電源三法交付金や原発関係の雇用なしには立ち行かない構図が既に固定的になっており、被曝リスクどころか原発事故のリスクまでをも、それらが現実の被害に転じないことを祈りつつ、引き受けることなしに生き残る道が用意されない。”









この文章を執筆されたジャーナリスト武田修氏は実に理路整然と、太郎の首都圏生活者としての傍若無人ぶりと、過疎化に苛まれる原発立地の事情を切実に訴えておられる。









この主張にも深く共鳴する...。






ただ、僕は敗戦からの復興モデルに依存した”過疎化に苛まれる原発立地地元では電源三法交付金や原発関係の雇用なしには立ち行かない構図”から地方はいち早く脱却しなければならないのではないか?と僕は思う。








つまり、その既得権益に依存することでしか地方の延命は図れないという構図では、いつまでたっても地方は大都市の受け皿でしかない。地方が自主自立するためには、中央は権限、財源を移譲し、地方が自由闊達に競争に参加し、自立できる状況を創りださないことにはこの議論に終わりは見えない。









そのために、福島は福島第一原発の廃炉と除染、そして再生可能エネルギー開発(太陽光や風力、波力)を並行して行うことで、活力のある再生へと踏み出さなければならないのではないか?と僕は考える。









太郎の首都圏生活者のエゴともいうべき、脱被曝に関して、果たして政治家になった太郎が本当にその公約が実現できるか?といえば、政治はやはり数であり、劇団ひとり状態の彼の主張を、官僚機構やそのほかの政党が受け入れてくれるとも思えない。









ただ、なんとかしたい、なんとかしてほしいという思いの666684票が、太郎を永田町に向かわせることになった。









太郎の主義主張や姿勢とは別の問題として、このことを否定する理由が僕には見いだせないでいる...。