”愛するということ”から自由になるということ~小池真理子著 『愛するということ』~
この小説を僕は月曜日の帰宅時の30分の電車の中と火曜日の通勤の30分電車の中、そして文化放送メディアプラスにあるカフェで過ごす朝の珈琲タイムの30分、そして昨日の帰宅字の電車の中の30分ですべてを読み終えてしまい、既に今週は読むべき小説が無くなってしまった...。
『愛するということ』 小池真理子 幻冬舎文庫![](https://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=kohhei1970-22&l=as2&o=9&a=4344410513)
![$What happened is all good ! ~新しい価値を創造する、ある広告プランナーの呟き~](https://stat.ameba.jp/user_images/20100417/12/kohhei1970/03/d5/j/t00730111_0073011110499849137.jpg?caw=800)
この小説には、一人の女がある妻子ある男と出会い、そして別れ、その別れがもたらす苦しみに喘ぎ、もがきながら、最後、その男を「愛するということ」から自由になる兆しを掴むまでのストーリーが描かれている...。
ミステリー作家だった頃の彼女と比較すると、僕は断然恋愛小説家としての彼女の方が好きだ。
どうにもならない女の性と苦悩と情念に満ちているのだけれど、品位の洗練も損なわれることなく、重厚且つ繊細に出会いから別れ、そしてそこから見出した希望が見事なまでに完璧なその筆致によって表現されている。
僕は思う。男と女の”恋”や”愛”には必ず終わりが来る...。例え結婚に至ったからといっても、”恋”も”愛”が永遠ではない。それでも結婚生活が続くのは当初の”恋”や”愛”から形を変えた別の”愛”が生まれ、育まれるからであると僕は思う。その別の”愛”を共に育むことが出来なければ、結婚生活だって終わりを迎える...。一度、そういう経験をしている僕にはよくわかる...。
誰かを”愛するということ”は本当に素晴らしいことであり、それは生きる糧となり喜びとなり歓びとなり悦びとなる...。
けれど、それと同じくらいの痛みや苦悩を抱えることでもある...。
僕は思う。残念ながら僕は”愛するということ”に専念できるような男ではないと...。”愛”さえあれば他に何もいらないなどと潔くはなれない。
生きてゆくのに誰かを”愛するということ”は不可欠なのかもしれない...。けれど、人間というのは社会的動物であり、負うべき責任やなすべき義務がある。その負うべき責任やなすべき義務を放棄してまで”愛”に一途になれるほど、純粋では無い...。
だからやはり、”愛するといいうこと”はとても大切だけれど、”愛するということ”から解き放たれ、自由になることも時に大切なのではないかと思う。
この小説では主人公のマヤが”愛するということから”自由になるそのきっかけを二人の男が与えることになる..。
別に僕は”愛するということ”から自由になるため、他の誰かで埋め合わせることを礼賛するつもりはない。けれど、”愛するということ”自由になり解き放たれるために、他の誰かが重要な役割を担うことを否定するつもりも無い...。
”悲しみは忘れるものではなく、埋めるものである。そこに悲しみがあったなんてことを忘れるほど深く...。”
何をもって埋めるかは、自由だと僕は思う...。
このブログを書く際のBGMに、久々にSWING OUT SISTERを聴いた。
♪ Swing Out Sister - Now You're not Here (1997)
『愛するということ』 小池真理子 幻冬舎文庫
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この小説には、一人の女がある妻子ある男と出会い、そして別れ、その別れがもたらす苦しみに喘ぎ、もがきながら、最後、その男を「愛するということ」から自由になる兆しを掴むまでのストーリーが描かれている...。
ミステリー作家だった頃の彼女と比較すると、僕は断然恋愛小説家としての彼女の方が好きだ。
どうにもならない女の性と苦悩と情念に満ちているのだけれど、品位の洗練も損なわれることなく、重厚且つ繊細に出会いから別れ、そしてそこから見出した希望が見事なまでに完璧なその筆致によって表現されている。
僕は思う。男と女の”恋”や”愛”には必ず終わりが来る...。例え結婚に至ったからといっても、”恋”も”愛”が永遠ではない。それでも結婚生活が続くのは当初の”恋”や”愛”から形を変えた別の”愛”が生まれ、育まれるからであると僕は思う。その別の”愛”を共に育むことが出来なければ、結婚生活だって終わりを迎える...。一度、そういう経験をしている僕にはよくわかる...。
誰かを”愛するということ”は本当に素晴らしいことであり、それは生きる糧となり喜びとなり歓びとなり悦びとなる...。
けれど、それと同じくらいの痛みや苦悩を抱えることでもある...。
僕は思う。残念ながら僕は”愛するということ”に専念できるような男ではないと...。”愛”さえあれば他に何もいらないなどと潔くはなれない。
生きてゆくのに誰かを”愛するということ”は不可欠なのかもしれない...。けれど、人間というのは社会的動物であり、負うべき責任やなすべき義務がある。その負うべき責任やなすべき義務を放棄してまで”愛”に一途になれるほど、純粋では無い...。
だからやはり、”愛するといいうこと”はとても大切だけれど、”愛するということ”から解き放たれ、自由になることも時に大切なのではないかと思う。
この小説では主人公のマヤが”愛するということから”自由になるそのきっかけを二人の男が与えることになる..。
別に僕は”愛するということ”から自由になるため、他の誰かで埋め合わせることを礼賛するつもりはない。けれど、”愛するということ”自由になり解き放たれるために、他の誰かが重要な役割を担うことを否定するつもりも無い...。
”悲しみは忘れるものではなく、埋めるものである。そこに悲しみがあったなんてことを忘れるほど深く...。”
何をもって埋めるかは、自由だと僕は思う...。
このブログを書く際のBGMに、久々にSWING OUT SISTERを聴いた。
♪ Swing Out Sister - Now You're not Here (1997)