「感動」への「情熱」が失われたら、この仕事で生きている価値など何処にも無い! | What happened is all good

「感動」への「情熱」が失われたら、この仕事で生きている価値など何処にも無い!

 広告の仕事の本質とは、マーケティングにおける課題解決のソリューションを、クリエイティブやコミュニケーションデザインの様々な手法を用いて、クライアントに提供することであると僕はこのブログに何度も何度も書いてきた...。

 クリエイティブにおいて重要な要件とは、その商品やサービスを認知させ、その記憶に留めるということなのだけど、更に商品やサービスへの理解を促し、ユーザーやターゲットに”ファン”になっていただくために何が必要か?といえば、その商品やサービスから発信されるメッセージに対して「共感」を抱けるかどうかである。

 では人はどんな時にその「共感」を抱くことが出来るのだろうか?

 「共感」とは「感動を共有すること」である。つまり、「感動」が無ければそこに「共感」などは生まれない..。

 では人に「感動」を与えるだけのクリエイティブが発信できる人に必要な力とは一体何だろう?

 でもこの答えは非常にシンプルである。自分がどれだけ多くの「感動」に触れてきたか?である...。

 クリエイターの資質として問われるのは、「感性」とか「感受性」などという抽象的な言い回しをすりことが往々にしてあるが、「感性」、「感受性」というのは言うなればどれだけ「感動」に対して敏感か?ということである...。更に言えば、人に「感動」を与えるクリエイティブを標榜するならば、人一倍、自分が「感動」を受け入れることに対して敏感であらねばならない...。自分が「感動」を受け入れることが出来ない人間が、人を「感動」に導くことなど出来るわけが無い..。

 では感動は何処に宿るのか?それは、「絶望」や「喪失」や「敗北」を乗り越えて勝ち得た「希望」と「熱狂」と「官能」と「歓喜」にある...。

 つまり、「絶望」と「希望」、「喪失」と「再生」、「敗北」と「勝利」のいずれをも欠かすことは出来ないのである。

 忌むべきこの国の慣習には、「安定」という言葉がある。
 安らかに定まった状態に安穏とすれば、「絶望」も「喪失」も「敗北」も嘗めずにすむかもしれない。
 けれど、そこには「希望」も「熱狂」も「官能」も「歓喜」も宿ることは無い...。

 人は何かに打ちひしがれるから、強くなれ優しくなれる。

 打ちひしがれることを恐れ、倒れ掛かった橋を渡る勇気が持てずそこに留まったままならば、目的とする地にはたどり着けない。倒れ掛かった橋をつまずきながら、時として地獄へ突き落とされるかもしれないというリスクと戦いながらわたりきった英雄に人は賞賛の拍手を送る。ただそこに留まることしか出来ない人間に賞賛の拍手など送られることは無い...。

 つまり様々な困難や試練を乗り切ったその先にしか感動は無い。

 それを乗り切るのに必要のは、勇気と情熱である。

 それを持たないものが、人に感動を与え、共感を広げることをミッションとするこの仕事に、携わることなど許されるわけが無い...。