教科書から消えたもの 「聖徳太子」 | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

あ、それは聞いたことがある、という人もいるかもしれません。
一時、

「聖徳太子はいなかった」

という学説が話題になりました。

まず、最初に申し上げておきますと、小学校の教科書にも、中学の教科書にも、聖徳太子の記述は明確に書かれています。
けっして「消えたもの」ではありません。

が、しかし、高校の教科書からは「聖徳太子」という語句は消えつつあります。

「聖徳太子」ではなく「厩戸王」という語句になり、場合によっては「厩戸王(聖徳太子)」というような書き方になっています。
おそらく近いうちに「厩戸王」という表現だけになるかもしれません。

ただ、「聖徳太子はいなかった」という関連の本や論文を読めばわかりますが、聖徳太子がまったくの架空の人物である、というものは少数派で、かつ「聖徳太子は実在しない」という説は、現在では否定されているものです。
中には、しっかりと厩戸王の業績が書かれているにもかかわらず、題名は「聖徳太子はいない」みたいなものになっているものあります。

ようするに、これは出版社の意向が大きく反映されていて、「そう書いたほうが売れる」という意味もあるからです。

高校の教科書から「聖徳太子」という書き方が消えたのは、「聖徳太子」が歴史上の人物であることを越えて、信仰の対象となってしまっているので、

信仰の対象 =「聖徳太子」
歴史上の人物=厩戸王

ということを明確に区別するためにそういう表記にするようになった、ということが第一の理由です。
小学校の教科書や中学の教科書で「聖徳太子」が消えない理由は、やはりはじめて知る歴史上の人物も教科書には多いことから、親しみのある、学校で習う前にどこかで聞いたことのある名称を使用(利用)しようとしているからです。

そして、何より、やはり正史の『日本書紀』に書かれている内容を否定する、というのは、それなりの反証と傍証と労力が必要なわけで、聖徳太子の存在を架空のものであると言うために『日本書紀』そのものが捏造だ、とまで言わなくてはならない、というのはかなりの無理がある、ということです。

「聖徳太子」はいないが、厩戸王は実在している、ということが現在では定説。

また、「十七条憲法」や「冠位十二階」の制度などもなかった、「摂政」という表現も当時もなかった、と言ってしまうのも暴論です。

十七条憲法について言えば、当時のモノは、後世に書かれているような“表現”ではないだけの話です。「役人の心得」を説いたモノが確実に存在していて、奈良時代に表現を今のように変えられただけで、「飛鳥時代には存在しない表現で書かれているからそれはなかった」としてしまうのは明らかに変です。

現在の小学校の教科書に、五ヶ条の誓文の第一項は、

「広く会議を開いて話しあいで決めよう」

と書かれていますが「こんな表現は明治時代にはしていない、だから五ヶ条の誓文などなかったのだ」と言い張っているのと同じくらい変です。
『日本書紀』が書かれた奈良時代、「聖徳太子の地位は今でいったら摂政だよね」として「摂政」と記されているだけで、「当時、摂政という表現はなかった。だから聖徳太子はいない」という言い方はやはりおかしいといわなくてはなりません。

上杉謙信は武田信玄に塩をおくっていない。
上杉謙信と武田信玄は川中島で一騎打ちをしていない。
だから、上杉謙信も武田信玄も実在があやしい。

という飛躍した理論に似ています。

「冠位十二階」にいたっては、中国の『隋書』倭国伝の中で、日本に来た裴世清が、しっかりとその存在を記録しているので、日本の記録にも中国の記録にもあるモノです。

推古天皇-厩戸王-蘇我馬子

の時代に、それまでにはない新しい「改革」があったことは間違いありません。

聖徳太子“伝説”も、ありえない話しだからウソだ、と、説明するのはかえって科学的判断ではありません。「伝説にはそれが伝説となるそれなりの理由がある」ということです。

たとえば、「十人の話を聞き分けた」という話があります。
そんなわけね~だろっ と言ってしまえば終わりですが、たとえばこう考えてみてはどうでしょう。

当時の難波は、国際貿易港でした。
飛鳥時代は、朝鮮や南北朝時代の中国から仏教や仏像、すぐれた文化が伝来した時代です。
中国からも人が来ていたでしょうし、朝鮮半島からは百済の人も高句麗の人も新羅の人も来ていたかもしれません。場合によっては、シルクロードを通じて西域の人やペルシア人も来ていたかもしれません。

だとすると、「十人の話を聞き分けた」という伝説の意味はわかりませんか?
そうなんです。

「いろいろな国の言葉が理解できた」

と、考えてみてはどうでしょう。
国際的な飛鳥時代にふさわしい解釈になるとは思いませんか?

でも、「聖徳太子はいなかった」という学説が投じた意味は大きかったと思います。だから、より等身大の、そして虚飾の無い「業績」を残した、歴史上の人物「厩戸王」の輪郭をはっきりと浮かび上がらすことができたからです。