こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

☆ こはにわ歴史堂のブログへようこそ ☆

ABC朝日放送で2013~14年に放送されていたコヤブ歴史堂にて、「こはにわ先生」を担当していた歴史教師の浮世博史のブログです。歴史の楽しい話など、色々していきたいと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。

【 お知らせ① 】

テレビ朝日Qさま「高校生学力王」(平成29年8/28)に解説者として出演させていただきました。楽しんでいただけたら幸いです。


【 お知らせ② 】

テレビ朝日Qさま「学力王」決定戦に出場させていただきました。決勝まで残らせていただき、第二位という成績でした。応援いただいた方、たいへんありがとうございました。

【 お知らせ③ 】

2015年夏、摂津市公民館にて「ここまでわかった戦国時代」の講演をさせていただきました。また2017年は2016年に引き続き「歴史おもしろ裏話」「ここまで変わった歴史教科書」の講演を実施しました。また各種、楽しい歴史の講演などの依頼も受け付けております。

【 お知らせ④ 】

書籍『超軽っ日本史』『日本人の知らなかったほんとうの日本史』が電子書籍にもなりました。
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先に誤解のないように申し上げますが、私は司馬遼太郎の小説の大ファンで、子どものときからずっと読み続けています。エッセイなどすべての著作を読んでいるわけではないですが、小説はすべて持っています。

とくに話題の映画『関ヶ原』をはじめ、『国盗り物語』『新史太閤記』『城塞』など、いわゆる戦国時代から江戸初期にかけての「物語」は、何度も繰り返し読んでいますし、幕末・維新モノも大好きです。

 

司馬遼太郎さんの著作スタイルは、最初はいわゆる時代小説的なタッチで、解説・場面描写よりもセリフが多く小気味よくストーリーが展開する作風でしたが、やがて解説・場面描写などが詳細に語られるようになり、とくにその部分で「司馬史観」と呼ばれる「歴史観」(本人にはそのつもりがない)が語られてきました。

ただ、これはご本人もよく言われていたことですが、「あくまでも小説ですからフィクションもある」わけです。ところが、史料や逸話を駆使したその説明は、素人の読者にとっては、どの部分がフィクションでどの部分が史実が、区別が付かなくなってしまっています。

 

司馬遼太郎の「功」は、それまで数多くの史料に散見されていたエピソードを、一つの小説の中に統合し、無味乾燥に近かった有名、無名の歴史上の人物をいっきに身近なものにしてくれ、その人物の言動を通じて歴史を考えさせるきっかけをつくってくれたことだと思います。

 

そして「罪」は…

と申し上げると語弊があるのでお断りしますと、わたしの言う「つみ」は、「あなたも“つみ”な人だわ」と言う時の「つみ」であって、けっして糾弾、批判するものではない、とお考えくださいね。

まず、司馬遼太郎の集めたとされる膨大な史料は、二次史料も数多く含まれ、実証できないもの、当時の人物が生きていた時代のはるか後年のもの(黒田官兵衛に関するものでは明治時代に著された本にのみしか出てこない逸話など)も含まれています。

結果、司馬遼太郎しか説明していない、つまり小説としてのフィクションの部分が、他の精密な史料に基づく説明に紛れてしまって、読者がそれも史実だと思い込んでしまうようになってしまっていることがある、ということです。

 

坂本龍馬は、西郷隆盛に新政府の人事案を示したとき、そのメンバーに龍馬がいないと隆盛が指摘すると、龍馬が一笑して、「世界の海援隊でもやりましょう~」といった話が紹介されています。「お~、めっちゃカッコいい」となりそうですが、これは大正元年に書かれた逸話です。

当時の史料では、三条実美に仕えていた尾崎三郎の回顧録が残っています。人事案にはちゃんと参議に坂本龍馬が入っていて、その案をみた坂本龍馬が喜び、「今日から実施しよう!」と「手を打って喜んだ」と記されています。

 

高杉晋作の「英雄的行動」も、フィクションや二次史料エピソードが多いのです。

吉田松陰の遺体を改葬するする際、将軍しか渡ってはいけないとされていた三枚橋の真ん中を通ってみせた、とか、その事件を叱責するため、長州藩に呼び戻された晋作は、白昼堂々箱根の関所を突破したとか、その帰りによった京都で、将軍徳川家茂に「いよぉ~、征夷大将軍!」と声をかけた、とか、これらは後に「明治新政府アゲ、幕府サゲ」のためにつくられたエピソードで、明治初期の講談、芝居で紹介されたフィクションなんです。

 

私の大好きな『関ヶ原』でも、気になっていることは何ヵ所もあるんですが、そのうちの一つのエピソードが、 明治時代、日本の陸軍を指導するために来日したドイツの軍人メッケルが、関ヶ原の戦いの東軍、西軍の配置図をみて、「勝ったのは石田三成だ」と断言したというものです。

メッケルも実在していますし、彼は実践主義で、机上の理論を無意味と断じて演習や実地踏査をよくおこなった人物です。

実は、海音寺潮五郎もメッケルという名こそ出していないものの、「ドイツの戦術家が関ヶ原の戦いの図をみて石田三成の勝利と言った」というエピソードを紹介しているんです。

これ… どうやら、戦争中、陸軍の学校での兵科の授業で、時々語られていたもののような気がします。

例の「長篠の戦いで織田信長が鉄砲の三段撃ちをした」という話も、陸軍の授業で教官が話していたそうで、この逸話も同じように軍隊での「お勉強」の中で紹介されていた話の一つのようなんですね。

軍人だった叔父も、ほぼ同じ話をしていた記憶があります。

メッケルがその戦術家である、というのは、けっこう色々調べたんですが、司馬遼太郎の「発信」なのではないかな… と思っています。

 

いや、こんなことを言うとなんなのですが… 教師の習性として、ついつい歴史をおもしろく聞かせようとして、フィクションとまでは言いませんが、伝承やらそれらしき話を、ついつい織り交ぜちゃうとき、あるんですよね…

それが伝言ゲームのように広がり、史実に化けていく…  虚構で無くても、誇張されたものは、伝言ゲームの中で事実にすり替わる可能性が高いものです。

 

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ずいぶん更新が遅れました。

現在勤務している奈良県の西大和学園で、現在高3と高2を担当していて、とくに高3という受験学年の日本史と世界史を担当しているため、たいへん忙しくしておりました。
ようやく定常の授業が終わってほっと一息… どころか! もう毎日センター試験の対策や二次対策の放課後講座とか、志望校別にクラスも編成され、入試にむけてまっしぐら… ほんとに予備校や塾とかわりがありません。

受験のための勉強ばかりかというと、まったく違っていて、富士山の登山はあるし、海外研修はあるし、修学旅行は選択制で、インド(前はトルコだったそうです)・カンボジア・ベトナムなどに行き、文化祭・体育祭はもちろん、球技大会なども有り…
それから、季節のイベントもあってなかなか楽しい。ハロウィンの飾り付けはあるし、今はクリスマスツリーも出ています。
外国人の先生が多く、職員室の一角は外国人の先生がずらっとおられ、英語の授業はもちろんですがなんと美術や音楽が英語で授業されている…
ペーパーレス化も進み、タブレット端末、黒板にすえつけられた映像機器など最新の取り組みもされていて、生徒たちの荷物もずいぶんと軽量化されていると思います。

もう「なんでもあり」の学校で、学園長・校長・教頭そろって、いいと思うことは何でもやろう!の進取の気性にあふれています。昨日決めて今日から変わる、というのがいくらでもある。

いやいや幹部諸氏だけではありません。先生方がみな若い! 平均年齢35歳。夜の8時や9時までみなさん残っていて、あっちこっちでああしようこうしようと真剣な討議がきこえてくる…

日々おどろきの連続。入試に力を入れていることは知っていましたが、こういう面があるとは思ってもみませんでした。

いろいろと比較できるのですが、それでも前の職場、四天王寺高等学校・中学校に、西大和学園が逆立ちしても勝てないことがあります。それは

 仏教とその理念

です。

いや、四天王寺中・高だけではありません。私立中高は、公立中高とは違う、特色ある教育がなされる機関で(あたりまえですがそうあらねばならない)、その特色の一つに(というか重要な柱にの一つに)

 宗教

があると思うんです。

私立中高には無宗教のところもあり、いろいろな教育理念・目標が掲げられていますが、キリスト教や仏教の理念には勝てないでしょう。
だってイエスとブッダに勝てる人、いますか? それを上回る理念で教育するのだっ と言えば、やはりそれは傲慢としかいいようがありません。

宗教教育、というと何か偏ったイメージをもたれるかもしれませんが、信仰を強制したり改宗を強要したりするようなものではけっしてありません(少なくとも四天王寺中・高はそんなことは皆無)。
宗教が道徳の授業の代替、人間教育の根幹にすえられている、ということです。
心の教育というのは「軸」というか「哲学」がかんじんで、普遍的に納得し、理解しえるものでないとなかなか成功しません。

私の友人に、ラ・サール中・高出身のやついて、学生時代からおもしろいことを言ってました。

「うそつきにくい」
「わるいことできない」
「どこかで、神さまがみてる、とついつい思ってしまうもの」

信仰、だけではなく、ざっくりとした「雰囲気」も大切だと思います。

四天王寺中・高では(おそらく他の仏教校もそうでしょうが)教室では一日おきに般若心経が唱えられ、そうでない日は教職員が教員室で朝にみんなで唱えます。
朝礼は「朝礼」とは言わずに

「朝拝」

というんですよ。

生徒といっしょに合掌して瞑想する…

すぐ隣が1400年になろうかという歴史のある四天王寺。学校から中心伽藍がみえ、お寺の鐘がゆるやかに聞こえてくる。

たったこれだけ、の「部分」が、なんというかすごく大切な、「今」ではなく卒業して、歳をとってから「花」咲き「実」になるようなところだと思うんです。
なかなか説明しにくい「空気」の部分ですし、こういう良さを在職中に説明しても「おまえ四天王寺中・高の教員だからそんなこと言ってるんだろう」と宣伝と思われちゃうし、割り引かれてしまうので、なかなか言えませんでしたが、退職して、この「部分」の大切さを実感しています。
(四天王寺中・高のみなさん、合掌・瞑想、大切にしてください。そして和光館での講話。しっかり聞いてください。他では得られない、貴重なものをみなさんは実感し、得ているんですよ。)

さて、もう一つ。
歴史の話になるのですが…

以前にも書いた「聖徳太子」のお話です。
「教科書から消えたもの」で「聖徳太子」の話をしました。

これも

「四天王寺中・高の教員だから聖徳太子はいなかったという話はできないのだろう。」

と思われてしまっていたかもしれません。
わたしの当時の立場から、かえって聖徳太子の実在論が疑われてしまっては申し訳ありません。

2022年は聖徳太子の「御聖忌」にあたります。
もはや四天王寺の関係者ではない私の立場から改めて聖徳太子のお話をしたいと思います。


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テレビ朝日の“THE博学”の解説部分の監修をさせていただきました。

江戸時代に限らず、日本は“言霊”の国で、思いを口にすること、文字にすること、などを大切にする文化があります。

まぁ、カッコつけずに言うと、けっこうダジャレが好きな民族かもしれません。

「四」は音読み「し」で、「死」に通じるから縁起が悪い… などはその代表です。

今でも、ガレージの車を入れるスペースに「4」がない駐車場、ありますよ。
もちろん病院では「4」号室や「42」号室は存在しません。

以前にさせてもらった話を改めてさせていただくと…

雅な言葉に変える、という話をさせてもらったことがあります。
「雅語」にしてしまう。

たとえば、大阪の梅田はもともと湿地を「埋め」立てて「田」にしたものですから

 埋田

だったのですが、これではちょっとダサい… だから文字通り「華(はな)」が必要として同じ音である

 梅田

にしました。

ローカルな話で恐縮ですが、うちの近所、大阪市阿倍野区に「桃ヶ池」という池があります。
かなり古い池で、飛鳥時代から存在しています。

ここに怪物が住んでいて、困った農民たちが、四天王寺に来ていた聖徳太子さまに願い出て、「どうか怪物を退治してください」と訴えました。
聖徳太子は、さっそく兵を派遣して、この池に住む怪物退治をさせたのですが、そのとき、兵たちが、足の「太もも」まで水につかって怪物を退治した、ということから

 股ヶ池

という名前になりました。でも、地名で「股(もも)」というのはダサいやろ、となって、これまた「華」が必要として同じ音である

 桃

をあてがいました。実際、桃ヶ池は桜がきれいな公園ですが、桃の木があるわけではありません。

縁起を担ぐ、というのもまた、日本人は大好きです。

武士たちは、とくに命をかけて戦うもの。
勝って生きて帰ったとき、その身の幸運を神仏に感謝するだけでなく、勝ったときに身につけていたもの、勝ったときにしていたこと、を「縁起がよい」ということで、もう一度身につけたり、もう一度同じことをしたりします。

さてさて、江戸時代の武士たちも、平和な世の中になったとはいえ、武門の家柄。伝統的な行事に縁起をかつぐものやら習慣やらがありました。

たとえば、魚。

コノシロという魚を食べません。

「この城を食う」という意味になり、なにやら謀反のにおいがするからです。

ま、言ってしまえばダジャレなんですが、天下も泰平となると、余計なことに気をつかうようになります。

マグロも食べません。

マクロはシビとも言います。シビは「死日」に通じるから、というわけです。

関西はウナギを腹から裂きますが、関東は背中から裂きます。
腹から裂くのは切腹に通じる、ということから、武士の人口が50%あった江戸では「腹開き」のウナギはタブーとされました。

食べない、といえば

 キュウリ

キュウリの何がこわいねんっ となりそうなのですが、キュウリの断面が、徳川家の家紋、

 葵の御紋

に似ているのでおそれおおい、というわけです。

ちなみに、キュウリの迷信は西日本にもあります。

祇園社の御紋が「木瓜(もっこう)」で、キュウリの断面に似ている。
ですから京都市内では祇園祭の期間、キュウリを食べない習慣を持つご家庭がいまだにあります。
また、祇園山笠で有名な博多も同様で、博多ではこの時期、小学校の給食からねキュウリが消える、という話です。

江戸時代の武士の迷信については、『慶長見聞集』という文献にみられるので、興味がある方は一度読んでみられてはどうでしょうか。
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すっかりご無沙汰しております。
実は15年間勤務した四天王寺高等学校中学校を三月末に退職し、四月から新しい学校で教師をしております。
新年度の準備やらなんやらで、たいそう忙しくしてしまい、すっかりこちらへの投稿ができずにおりました。

長く教師をしていると、正直、学校サイドと考え方が違って歯がゆい気持ちにならなかったか、というともちろんそんな時もありましたが、とくに生徒たちにはたったの一度も不愉快な思いをさせられたことはなく、ほんとうによい生徒にめぐまれ、幸せな日々でした。

退職にあたっては、一部の保護者の方々には送迎会も開いていただき、また卒業生たちとも楽しくお話ができて、たいへんありがたく思いました。改めてこの場でお礼申し上げます。
それどころか、退職することになってもっとも迷惑や心配をかけてしまったのが生徒たち…
みなさん、ほんとうにごめんなさい。
また、以和貴会(同窓会)の方々からもお餞別までたまわり、たいへん感謝いたしております。

退任式の前日には、学校に行き、クラブできていた一部生徒たちとも会え、同僚とも歓談し、これもまた楽しく最後の後片付けもできました。
教頭先生(当時・現在は私と同じく退職)には、終始「体が元手だから、くれぐれも健康には注意してくださいね」と、ずっとやさしい言葉をいただいておりました。この教頭先生がまたいい人で、実は以前に同じ担任団で仕事をしたこともあり、たいへん信頼している人物です。もう少しお続け願いたかった先生です。
また、新しい中学教頭は、副校長が兼任されているとも後で知りました。この副校長がまたご立派な方で人格者。四天王寺中高で私がもっとも信頼している先生のお一人です。

一部の保護者の方には、「先生がいなくなったら四天王寺中学の社会はどうなるんですか」というお言葉も頂戴しましたが、四天王寺中学のみなさん! どうかご安心ください。四天王寺高等学校・中学校には私などよりもずっずっと優秀な先生がたくさんおられます。また担任団もとても信頼できる先生方ばかりですから、何も心配はいりません(といってももう六月も終わろうとしているので、そんなことはみなさん百も承知なさっているはずですね)。

退任式はいささか緊張いたしました。
校長・教頭・副校長、そして常務理事。事務の方々そろって退任式をしていただきました。
常務理事というのは学園の実際の「経営者」にあたるわけですが、この方は「経営者」というよりまさに「教育者」。採算ももちろん考えてはおられるのでしょうが、長い目でみた教育、ということに力点を置かれている方です。一度食事をご一緒させていただいたことがあり、そのときに、(たいへん失礼だったのですが)「常務理事は、ほんとは理事とかではなく校長とか教育現場のお仕事がしたかったんではないですか?」と言ったところ、にっこり笑われて「よくわかりましたね」とおっしゃったくらい、教育ということに情熱を注いでおられる方です。

「退任されても、四天王寺は先生の“母校”です。」「今度は外から四天王寺学園をどうか見守ってください。」「機会があればどうか定期的に連絡を取り合いたいものです。」「先生は学園にとってかけがえのない先生でした。」と、非才な我が身に過分なお言葉を重ねていただき、感激いたしました。もちろん機会があるわけでもなく、連絡をとってお話しする、ということはさすがにできてはおりませんが、ほんとうにいろいろお世話になり、またわがままを聞き入れていただき、ご迷惑もおかけしたのに、とずっと申し訳なく思うとともに感謝しています。

さて、退職するにあたり、いろいろな思いがありました。
一年はゆっくりしよう、旅行、というよりもう一度史跡などめぐって過ごそうか、という気持ちと、新たにまったく違う新しい何かをしてみたい、という、矛盾とは言わなくても、そんな複雑な気持ちでおりました。
私が退職することを知った知人(私がたいへん信頼している人物)の仲介で、現在の西大和学園の学園長とお会いする機会を得ました。お会いしていろいろ私の思いなども伝えたところ、しばらくしてお呼び出しがあり、出かけていきました。「先生のお力を是非お借りしたい!」と言われました。いやいやいやいや、こちらが頭を下げてお願いするところでしょう、と恐縮してしまうと同時に、なんと言えばよいのでしょう、人に魅せられる、というところでしょうか。わたしの思いをしっかり受け止めていただき、非才の身にあまる言葉をいただき、西大和学園の講師となることになりました。(なにやらデマや誤解が流れているようですが、正確にはわたしは西大和学園の専任教諭ではありません。)

いきなり高校三年生を担当することになり、驚きましたし、同時にたいへんやりがいを感じました。四天王寺中高でも素晴らしい生徒たちに出会えましたが、西大和学園でもまた素晴らしい生徒たちに出会えました。
自分の幸運というのに驚くばかりです。

それにしても、“縁(えにし)”というものはあるものだとつくづく感じました。
新任校の西大和学園がある地、奈良県の王寺は、実は聖徳太子ゆかりの地で、達磨寺という寺院が近くにあり、聖徳太子御遺跡の一つなんです。
王寺のキャラクター「雪丸」という犬は、聖徳太子が飼われていた犬なんですよ。

なにやら聖徳太子のお導きというか何というか。
もちろん人とのつながりのなせるわざなのですが、人為を超えた何かを感じざるをえません。

また、このブログを再開していきたいと思います。
楽しい歴史のお話を続けて参ります。
私事をだらだらと書いてしまい、申し訳ありませんでした。
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最初に、教科書の「近代」のとらえ方が20年以上前と変わっている、という話をいたしました。
開国から近代が始まっている…

歴史のとらえ方は、おおざっぱに言えば「連続論」か「断絶論」なんですよね。

邪馬台国が北九州にあったならば、ヤマト政権と邪馬台国に連続性は少ない。
邪馬台国が近畿にあったならば、ヤマト政権と邪馬台国に連続性がある。

ちなみに、近現代史で言うならば、満州事変・日中戦争・太平洋戦争は一貫した日本のアジア進出であると考える「十五年戦争」という考え方は連続論になります。

かつては、江戸時代の幕末と明治維新は「断絶」論的な立場で説明されてきました。
鎖国が暗黒、維新が夜明け…

この考え方は現在では否定されており、教科書にもそれが反映されていて、入試でもこの立場での作題が増えてきました。
とくに「文明開化」の説明において顕著です。

従来は、江戸時代が未開、明治時代が開化、という枠組みでとらえられていました。
しかし、文明開化は幕末から始まっていたのです。

ペリー来航以後、いやそれどころか、来航前からすでに幕府・諸藩は欧米の文化・技術の取り入れを始めていて、それぞれ近代化を開始していました。

・砲台の建設
・反射炉の建設
・洋式大砲の製造
・洋式帆船の建造

などがそれに該当します。

伊豆国韮山の代官に

 江川太郎左衛門

という人物がいました。
というか江川家は、みな「太郎左衛門」を称していましたからいつの太郎左衛門やねんっ となりますので、いちおう詳細に説明させていただきますと、36代目の

 江川英龍

のことです(号は坦庵)。19世紀ですでに36代目、といいますから古い武家で、10世紀くらい興り、頼朝の挙兵を助け、執権北条氏に仕え、足利尊氏にも協力し、さらには後北条氏にも従い、豊臣秀吉の小田原攻めのときには豊臣方に寝返り、さらには徳川家康に従って伊豆の代官の世襲を認められる、という実に「世渡り」の巧みな家がらです。

この江川英龍によって幕府の「文明開化」が始められました。

伊豆の韮山代官としてすぐれた民治をおこなっただけでなく、まずは実用的な蘭学の導入を積極的に始め、

 海の守りこそ肝要!

と幕府の海防策の基本的なプランを作成します。
ちなみに、日本で初めてパンを焼いたのもこの人物です。パン、というとそれこそ明治になってから、と思っている人が多いのですがすでに19世紀前半に江戸時代では国産されていたのです。
反射炉も製作し(完成は息子の英敏のとき)、長州の奇兵隊より先に、農民など庶民による軍隊を構想していました(農兵隊の組織は息子の英敏のとき)。

ようやく教科書にもこの人物が掲載されるようになりました。

ペリー来航後では、幕府は「文明開化」を進めていきます。

・外交文書翻訳、洋学教授のための蕃書調所を設置する。
・洋式砲術の調練のために講武所を設置する。
・長崎でオランダ人による海軍伝習を開始する。
・長崎に工作機械を導入した造船所を建設する。

このあたりは入試でも重要なポイントなのですが、

・ペリー以前は西洋の産業革命以前の技術導入
・ペリー以後は西洋の産業革命以後の技術導入

となります。まぁ、ざっくり言うと「機械」を使ってモノを作る技術があるかないか、というところです。

1860年、通商条約の批准では、海軍伝習を受けた勝海舟らが咸臨丸で太平洋を横断しています。
この時期、幕府はもちろん薩摩や長州も「海外留学」を積極的に進めています。

西周、津田真澄はオランダへ、福沢諭吉はアメリカに渡っています。
長州藩では伊藤博文、井上馨が、薩摩藩では森有礼らがイギリスに留学しました。

さらに幕府はフランスと接近し、近代的な技術を導入していきます。
横須賀に造船所を建設、さらには西洋式の陸軍を編成、フランスの軍人から訓練を受けています。

意外に思われるかもしれませんが、幕末、京都に組織された新撰組って、洋式の軍事訓練もしている組織だったんですよ。時代劇や小説では、なんか前時代的な「武士道精神」の集団のように描かれていますが実際は違うんです。

開港地には当然、外国人がやってきて居留しました。
キリスト教の宣教師はもちろん、新聞記者たちもやってきて日本に積極的に欧米文化を紹介してくれました。
ヘボンやフルベッキなどはこのことを積極的に進めてくれた宣教師です。

尊王攘夷のうち、尊王はともかく、「攘夷」の考え方は、実はこうした人々の文化紹介でしだいに人々の心の中から消えていくことになりました。
欧米をみならって(日本には「お手本」にするという文化があります)、近代化を進めていこう、という「空気」が庶民から広がっていきました。

とくに交易に携わる商人たちは、資本提供を背景に武士たちに近代化を説いていきます。

 あんさんたち、そんな古い考え方しとったら、お金、出しませんでぇ~

ついつい「上からの近代化」ということに視点が置かれがちですが、「下からの文明開化」がそれを支えていた、ということ、そしてそれはすでに幕末から始まっていた、ということを忘れてはいけないと思います。

(幕末史 完)


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