さて、(1)~(5)の歴史の範囲をざっくりとふりかえってみましょう。
小学校や中学校で習う内容は、最低限知っておかないといけない“教養”としての歴史です。ということは、中学入試問題などは「大人の復習」には最適かもしれません。
【女子学院中】
アメリカの動物学者モースは、1877年、大森貝塚を発見しました。この遺跡がどの時代のものか考え、この時代のことではないものをア~エからすべて選び、記号で答えなさい。
ア 縄を使って模様をつけた土器を使用し、海での漁も行われた。
イ ブタや牛、馬の飼育を行っていた。
ウ 日本列島は大陸と陸続きで、ナウマン象やオオツノジカを狩って暮らしていた。
エ 土製の人形や動物の像や、土製の装飾品を作っていた。
どうでしょう?
大森貝塚は「縄文時代」の遺跡です。当時の人々の生活の痕跡。ゴミ捨て場であると考えられてきました。
「ア」は縄文時代の記述です。
○ 縄目の模様の土器の使用
○ 漁をおこなっていた(骨や角でつくった道具、あみを使用)
「イ」は次の弥生時代の説明ですらありません。
3世紀の日本の様子を記した『魏志倭人伝』には、
○ 「牛・馬・羊はいない」
と記録されています。
「ウ」は旧石器時代の説明です。
○ 大陸と地続き。
○ ナウマン象やオオツノジカが日本にわたってきていた。
○ 狩りはしているが弓矢は使用していない。
というのが旧石器時代のポイントです。
「エ」は縄文時代。この像は「土偶」と呼ばれるもの。古墳時代の「埴輪」と混同しないでくださいね。
呪術と自然崇拝(アニミズム)の時代です。
縄文時代の終わりごろ、再び寒冷化が進み、食料が激減しています。このため、人々は狩りでの獲物がたくさんとれることなどを「祈念」するようになるわけです。
“不安の時代”だからこそ占い、まじないがおこなわれていた、と、考えます。
【女子学院中】
次の文を読んで、( )にふさわしい語句や数字を入れて問いに答えなさい。
人が鉄を本格的に使用し始めたのは3500年以上前にさかのぼると言われ、青銅は6000年以上前とも言われています。日本列島では、①弥生時代に青銅器や鉄器が( 1 )から伝わりました。歴史書『魏志』には、当時倭と呼ばれた( 2 )世紀の日本についての記述がありますが、それによると倭人が( 1 )南部から鉄の地金を求めていたことがわかります。②青銅器では剣や矛、銅鐸が日本各地で出土しており、出土品を博物館で見学したことがある人も多いでしょう。
問1
下線①は、集落同士の戦いが始まった時代ですが、それは当時の集落のどのようなつくりからわかりますか。
問2
下線②で、青銅器はまとめて埋められた状態で発見される例が多くみられます。このことから考えられることとして、最もふさわしいものをア~ウから1つ選び、記号で答えなさい。
ア 青銅器は集落にとって何らかの意味を持つものとして扱われ、各個人の所有物ではなかった。
イ 青銅器はみなヤマトの政権から与えられたもので、紛失して処罰されることを恐れて、まとめて保存した。
ウ 各地で3世紀に銅剣が流行し、4世紀に銅鐸が流行する現象が見られ、流行が終わったものは次々に捨てられた。
中学受験問題もすてたもんではありませんよね。作成者の方が優秀だと、ほんとうによい問題が出されます。
この問題文で、かるく金属の歴史もおさえられます。
○ 鉄の使用が3500年前から
○ 青銅の使用は6000年以上前から
金属器の伝来は、朝鮮半島経由で伝来したと考えられます。銅戈などは、朝鮮半島南部のものとよく似ておりますし、当時、朝鮮半島南部が鉄資源の産地であることが色々な文献から確認できます。
『魏志倭人伝』は、前にも申しましたが『魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条のこと。ここで3世紀の日本の様子が読み取れます。
さて、集落同士の争いがあったことは、環濠集落の存在でわかります。「まわりが濠で囲まれていた」というわけです。
佐賀県吉野ヶ里遺跡などがその代表例です。
さて、問2なのですが、島根県荒神谷遺跡から、大量の銅鐸・銅矛が発見されたことにより、このような説が唱えられるようになりました。
「はじめは武器として使用されていたが、やがて祭りの用具として用いられるようになった」と書かれている教科書もあり、「何らかの意味があるもので、個人の所有物ではありませんでした」と教科書に掲載されるようになっています。
「私」の物ではなく「公」の物…
青銅器は「儀礼」の「公器」であったと考えられている、という説明が小学校の教科書や中学校の教科書でもみられるようになりました。
この問題がわからなかったあなたは、おっさん、おばはんの世代(荒神谷遺跡の成果を知らない世代)といえるでしょう。