ブログNO、24「東日流三郡誌」④ | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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 ブログNO、24「東日流三郡誌」④
 

三内丸山、荒神谷の伝承も記録


 『和田家文書』は現在、日本の縄文遺跡として発掘され、そのすばらしい内容によって超有名になった三内丸山遺跡や、数多くの銅剣、銅矛、銅鐸が出土して話題になった島根県・荒神谷遺跡についての伝承も記録している。

 まず三内丸山遺跡についてみてみよう。

≪北斗抄≫十三-16

 糠部(ぬかべ)より宇曽利、東日流下磯より上磯、合浦より外濱、古人の人跡なる遺跡ぞ多し。地語、他称にて知らるるは下磯、大森、三輪、大浦、稲架、汗石、忿茶木、板之木、平加。上磯にては十腰内、神威丘(亀ヶ岡)、石化美、十三(とさ)、相内、尾別ぞ要たり。合浦外濱にては宇鐵、今別、後潟、大濱、奥内、三内、入内、孫内、安潟、宇涛、高森、内萬部ら要たり。

 糠部にては名久井、多南部、怒干怒布、相内、是皮(是川)、戸来、澗別。宇曽利にては大間、佐江、皮内ら古代なる人跡ぞ、かしこに存在せるなり。
24-1  神を祀りき跡ありきも、是ぞ特にて人住に離れき処に築き、神なる石神、亦は大樹にヌササンを設したり。東日流にては、火の神ホゴチ、水の神ガコ、シガマ、イガリ、シラシゲら水のいっさいを四神にて、木の神ホゲ、ジンタツ、ヌイ、ジャラ、カポシの五神たり。

  天の神イシカ、地の神ホノリは一称たり。イシカの神を祀る人住の処には、大柱を高棲に築きて神司せり。ホノリの神を祀るは海辺に長円の石を円裂建立なして、ヌササンとせり。ヌササンとは祭壇と曰ふ意趣なり。聖地に建立されたるは日輪門、七星石、北極星石の石神築き、更にして塔石築きぬ。

 語部録に記ありて上図の如し。

  享保二(1717)年六月一日           帯川祐介

≪北方新社刊『和田家文書 4』から。()内筆者≫

 
24-2 三内丸山(さんない まるやま)遺跡(写真=ライブドアブログより)は日本を代表する縄文時代の遺跡である。紀元前
3000年ごろを中心にした縄文時代前期半ばから中期に築かれた。縄文人、『和田家文書』に従えばアソベ族やツボケ族が生活し、神を祀った聖地だ。発掘調査の結果、遺跡の中心に「大柱を高棲(楼)に築いたイシカの神司」とみられる巨大楼閣跡が見つかっている。

 青森県内には縄文時代の国指定史跡が八ヵ所あるが、このうち『和田家文書』に大森、亀ヶ岡、三内、是川の四カ所が記されている。他の四ヵ所も遺跡の名は変わっているが、おそらく記されているだろう。

 

24-3 小森遺跡や同じく国指定遺跡・小牧野遺跡(写真左=青森県教委)では
  『文書』が記す「ホノリの神」を祀る「長円の石を円裂(列、か)なしてヌササン(祭壇)とせり」という遺構も見つかっている。今はまだ発見されてはいないが、『文書』に記された他の「縄文人の聖地」はいずれ発見されるだろう。

 秋田孝季らが日本全国を巡って集めた話の中に出雲・荒神谷の銅器の話が出てくる。

 

『東日流六郡誌大要』26(八幡書店刊)


24-4 荒覇吐神一統史

 出雲神社に祀らるる玄武の神、亀甲とイカヒの神は荒覇吐国主三神にして古来より祀らるるも、世襲に於いて川神とて遺りぬ。出雲荒神谷神社は、大物主の神を祀りし処なるも、廃社になりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献じるを禁ぜしより無用と相成りぬ。

倭領に荒覇吐神に て一統されしは少かに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め、神をも改めたる多し。孝元天皇をして荒覇吐神布せにしも、開化天皇をして是を改めきは 奥州に大根子王を建宮せるに依れるものなりと曰ふ。開化天皇、鉄の武器を好みて神器とし、銅なる神器を埋めたり。神をば天地八百万神として荒覇吐神を廃し たりと曰ふ。

寛永二十年八月二日          大邑土佐守


荒神谷遺跡は出雲市斐川町神庭で1984年に発見された。銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個がきちんと並べられた状態で見つかった(写真=銅矛と
24-5 銅鐸、島根県教委)。それまでに日本の弥生時代に作られ、発見された銅剣の総数を抜いてしまったという謎の遺跡である。

 『大要』で廃社になったと伝えられる荒覇吐(あらはばき)神の「荒神谷神社」は今、現地に「三宝荒神社」と名を変えて遺って いる。遺跡は島根県の調査員が「古墳時代の須恵式土器」を拾ったのが遺跡発見のきっかけだという。しかし、「開化天皇」が銅器を祀ることを禁じたのが遺跡 の初め、かどうかはわからないが、出雲の人々は、少なくとも江戸時代まではこの遺跡についての話を伝承していたことがわかる。

 「寛永二十年」という年はない。おそらく書写の際、「寛政二(1790)年」?を誤ったのではないかと思われる。

 この話も大正、昭和初期に作った紙であることを証明する紙問屋の印鑑が押された大福帳の裏紙に書かれている。もちろん、筆跡は書写者の和田末吉のもので間違いない。この一文を見た時は本当にびっくりしたものだ。(201512月)