うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」


~ご挨拶~


「古代史はおもろいで」といっても「どこがおもろいんやね」という人もいるやろう。それは今専門家、特にその道の〝権威〟がしゃべり、教科書や本に書いてることのほとんどは事実と違う。ウソとまちがいのオンパレードと言ってよい状態なんだ。

 

それを「そうじゃない。こうや」と本当の、というか事実に近い古代史像を探っていく、それが「おもろいんだ。」


知り合いのある若い人が僕に「歴史なんて大嫌いや。うそばっかりやから」と言った。僕は感心したな。「こいつ、できるな」って。僕が若いころそんなこと思いもせんかった。特別興味をもってなかったこともあるけど、そこまではっきりと言えるなんてすごいよな。

 

とはいっても、古代の真相を探るためには文献だけでもいけない、考古学だけでもだめ、民俗学だけでもいけない、人類学だけでもだめ。さまざまでたくさんの、間違いのない「証拠」を集めて考えなければならん。大変なんだ。

 

日本の古代史というのはそのウソの度合いがはなはだしい。なぜかというと、日本の古代史を知る文献は「日本書紀」と「古事記」なんだが、両方とも「勝ち組」が勝手に作ったもんだ。客観性ゼロ。裁判に例えれば「自供」だけを頼りに判決を下しているのと同じや。冤罪が多発してるだろ?「事実」を捻じ曲げて書いてるんだ。特に「日本書紀」は。

 

韓国や中国の政府がよく日本の「歴史認識」についてガタガタいってくる。そういう韓国や中国だって特に近現代史においてはウソを言ってる。「おまえらにだけはそんなこと言われたくないぞ」と言いたいよな。

 

人間はサルと同じじゃない。飯を食っていくこと、それが一番大事なことでいっしょなんだけど、人間は経験の積み重ねを記憶し記録することで動物よりすごい生活を実現してきただろ? もっと古代史にも興味をもてよ。「ロマン」だけじゃなくってさ。

 

ということで、日本の古代史に関してこれからさまざまな「意見」や「証拠」をアトランダムに提示していく。よろしく。反論があればじゃんじゃん言ってこいや。


大阪・河内在住の〝先生〟より


テーマ:

ブログNO.50

太宰府の都城は卑弥呼が造った?

 ―年代測定値240年が意味するもの―


 福岡県太宰府市に造られている「大宰府政庁遺跡」。この都城を守るために造られた「水城」について、九州歴史資料館が放射性炭素(C⒕)による年代測定を測定機関・パリノサーベイ社に依頼して実施したところ「とんでもない」というか、筆者を含めてこれまで誰も考えていなかった古い数値がでた。これまで当ブログで何回かお伝えしている。最も古い年代は240年±という‶驚愕〟の数値であった。

50-1 「水城」は太宰府市と、それを取り巻く大野城市、春日市、基山町、久留米市という広大な地域に展開された首都の防御施設である。博多湾から来襲する敵を防ぐための土塁(大水城。下写真=GoogleEarthから)は延長12キロ、高さは基底部から10㍍、幅は80メートルほどもある。有明海側からの敵を防ぐための基山町、久留米市の「水城」は一部だけがまだ残っている。元来は太宰府を取り巻く数キロにわたって造られたものであろう。最近発見された筑紫野市の土塁も「水城」と関 連する施設と考えられる。

 
50-2 この「水城」は同資料館のこれまでの発掘調査で、
3回にわたって改築されたことが分かっている。土塁を築くために付近にあった木の枝をもぎ、土層と木の枝の層を交互に積み重ね、叩きしめて地盤を強化している(11層・敷ソダ工法)。

240年±」の測定値は最下部、すなわち最も古いソダ(粗朶=木の枝)の測定値である。ソダは木からもいですぐに敷設したものらしく、長い年月が経っているのに木の葉はまだ青々としたままである。地底深くで酸素にふれず、水気たっぷりの状態であった。

240年±」の測定値はもちろん、当初「水城」が造られたのはこの時期であるということである。魏志に記録された有名な「邪馬壹国の女王・卑弥呼」の時代だ。卑弥呼は247年ごろに死亡したと記録されているからどんぴしゃりである。

卑弥呼がどこにいたかは古代史学界では決着がついていないとされる。だが、魏志の記録を詳細に検討すれば、どこにいたかは明らかだ。魏志に記す鉄、絹の出土状態、吉野ヶ里を含む弥生終末期の遺跡の内容をみれば北部九州であることは容易に判断できよう。これでまだ「わからない」などというのは「アホか」と言うしかなかろう。

この件は拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(ミネルヴァ書房 2007年)で詳しく扱った。「水城」については『太宰府は日本の首都だった』(同 2000年)で扱った。ぜひ読んでほしい。

では卑弥呼が太宰府を建設した蓋然性はあるのか。もちろん「大ありだ」。この問題も『卑弥呼と神武が明かす古代』で扱った。その当時はある程度の自信はあったが、確実とは言えない状態であった。

それはこのブログの読者なら「ああ、あのことだな」と思いつく「卑弥呼と呉越との関係」である。

煩雑だが復習しよう。中国と日本の史書には「呉王夫差が越王勾践に敗れて自殺した。その時(紀元前473年)、夫差の周囲の人々は船に飛び乗って日本列島に逃れた」「倭人は自ら太伯の子孫であると言っている」という意味の記述がある(『通鑑前篇』『魏略』『晋書』『松野連(「松」のむらじ=姫氏)系図』など)。

太伯」は元来、周の国の皇子であった(姫姓)。皇位争いに敗れて南に逃げ、呉の国(紀元前の「勾呉」)を作った。「夫差」はその第25代の王である。

(『魏志』はこのことに触れていない。紀元3世紀の三国時代、魏の最大の敵は「呉国」であったから、はるか昔の「呉」ではあるが、同じ「呉」出身の卑弥呼を味方につけて喜んだことは体裁が悪く、書きにくかったと考えられる)

拙著では「卑弥呼が用いた政治体制は呉国、あるいは周の国の体制だっただろう」としてその例として「大率」「大夫」などの冠位の名をあげた。夫差の親族が九州に逃げてきてから600年余り経っているが、卑弥呼らはその出自に誇りを持ち、政治体制も言い伝えの通りにしようとしたのではないか、と。しかし今回「大宰府」の名称自体、そうであったらしいことが「240年±」の年代測定値によって考えられるようになったのだ。

『史記』や『呉越春秋』などによれば、夫差は「大夫・伯嚭(はくひ)を太宰に任じた」と記録している。「太宰(たいざい)」は総理大臣格の職務である。これが直接的には「太宰府」の名称になったと考えられるのだ。「府」とは役所のことである。もちろん、「勾呉」は周の国の分国?であるからその名称官位は周にもあった。

実は筆者はこれまで、「太宰府」の名称は5世紀の「倭(ヰ)の五王」時代から始まったのではないかと考えていた。中国の皇帝に後ろ盾を頼み、「都督(天子の名代)」の位を切望し、忠節を誓った「倭の五王」が、自らを中国政府の「太宰」、すなわち総理大臣格の者であるとしたことによる、と。太宰府の別称「都府楼=都督の府の高い建物」は間違いなくこの頃からの名称だろう。

だが、年代測定によってその名の淵源ははるかに古かった、と考えられるようになったのだ。卑弥呼は自らを「魏の太宰」となぞらえたのか、あるいは自らは別の所にいて、直属の部下を「太宰」に任じ、その居城とさせたのか、どちらかであろう。そして「中層」の測定値「430年±」は「倭の五王」時代にほぼ完成したことを示している。

そうだとすると「水城」は当初、何を目指して、というかどんな役目を負って造られたかもはっきりしてきた。

拙著『太宰府は…』で「水城は土塁の中に水をため、敵が攻めて来た時に、底部に設置された複数の木樋から水を一斉に放出して敵を退散させる(溺れさす)ための施設であろう」とした。九州歴史資料館は「外側に濠が設けられているので、濠に水を貯めた」と言っていた。これでは後の城と同じだ。わざわざ「水城」と名付けられた理由がわからない。

卑弥呼時代に建設されたとなれば、神話的伝説・「満珠、干珠」伝説によって造られた可能性がますます確実になったといえる。

山幸彦が無理難題を押し付ける海幸彦を、海神からもらった満珠、干珠という二つの玉を用いて溺れさせ、降参させたという話だ。北部九州の多くの神楽で演じられる。『日本書紀』は「卑弥呼は神功皇后だ」、と読者に思わせようとして、『魏志』の文章を神功皇后紀に引く‶いかさま〟を試みている。その‶神功皇后〟が「三韓征伐」に行った折、干珠を投げて潮を引かせ、出てきた敵を満珠でもって満潮にして退治したという話もある。


「水城」は同資料館や関係自治体の発掘調査などによって「7世紀後半に太宰府と同じ時期に建設された」と考えられている。いかがわしい史書『日本書紀』がそう記述しているからだ。太宰府の都城は大和政権の出張所「大宰府政庁」の遺跡だという同資料館の誤った認識もここから生まれている。が、世界で最も確実な年代測定法とされる「放射性炭素による年代測定」がまたしても『日本書紀』のウソをばらしたのである。

九州歴史資料館は発掘報告書にこの測定値がでた事実だけは記載している。が、その書き方は誰が読んでも何のことだかさっぱりわからないように‶工夫〟して公表している。この測定値が最下部のソダの測定値であることも書いていない。九州人にいかがわしく卑屈な歴史観を押し付けている九州大学の元教授の‶指導〟によるものなのだろうか?(20172月)

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
ブログNO.49

太宰府 理化学的年代測定値 余話

 マスコミとタッグ組んで隠す

 

これまでの当ブログでよく「九州倭(ヰ)政権」が置いた都のひとつとして福岡県・太宰府がある、と書いてきた。新しいデータを加えてもう一度見てみよう。

 筆者がこの事に気付いたのは、もう二十年ほども前のことになる。たまたま故古田武彦氏の著作『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)を読む機会に恵まれ、提示されたデータの数々にふれて、これは間違いないことではないかと思った。

 当時の古代史学界、考古学界はもちろん「古来、日本の政権と言えるものは大和政権しかない」という「一元史観」に凝り固まっていて、他の如何なるデータも受け付けない状態であった。

 そこで筆者は実際九州に住んでその事実を確かめたいと思い、社に転勤願を出した。幸い太宰府に空きがあった(のか、前任者を無理に転勤させて空きを作ったかはわからないが)、そこで取材する機会を得た。

 その結果出来たのが『太宰府は日本の首都だった―理化学と「証言」が明かす古代史』(ミネルヴァ書房 2000年)であった。

 九州の考古学界も藤原不比等が作らせたいかがわしい歴史書『日本書紀』を、本当の古代史と思い込み、九州人にとってはまさしく「卑屈でニセの古代史」を真実の古代史であるかのように喧伝していた。そして弥生時代についてはいくばくかの先進性を認めながら、古墳時代については「畿内大和の後進地域」であるとして九州のあらゆる遺跡や遺構の年代を判断していた。

 「本当に九州の遺跡の年代は正しいのか」と考古学研究者に聞いて回ったが、「矛盾はない。間違いない」という答えばかりだった。

 一つの大きな「壁」が破れたと感じたのは、若手の研究者(埋蔵文化財研究会)らが集めた全国の最新の理化学的年代測定集『考古学と実年代』であった。そこに記され測定値の数々を見て「やっぱりか」と思った。そこには古参の研究者らが「間違いない」と強弁していた「推定年代」よりうんと古い年代がずらりと並んでいたのだ。

 この冊子を作るにあたって若手研究者らは古参の先輩研究者らからかなりの抵抗を受けた。ある博多にある大学の研究者は「そんなもの作る必要はない」と彼らを怒鳴りあげたという。古代史の世界も狭い社会だ。うっかり先輩と違う意見を言うと離れ座敷に放られる。しかし当時の「若手の研究者」はそれ以上に「事実」を求めたのだった。

 しかし、筆者がそれをもとに新資料を公表した後も「古参研究者」の抵抗は続いている。九州の考古学界を牛耳っているある九州大学の元教授は、これまで何回か書いたように「定説にふれそうな遺跡にコンクリートでふたをしてやった」と自慢そうに話したという。

 筆者も被害にあったことは拙著の「あとがき」に記した。

もし本当に「九州倭政権」の継体天皇が始めたという「九州年号」が実施されていたなら、太宰府出土の木簡にそれが記されているはずだ、と考え、何回も公表するように迫った。が、「そんなものはない」「すでに公表している物しかない。あとは削りカスだけだ」と強弁して見せようとしない。

 最後に返ってきたのは「定説にふれる物は公表しない」という答えであった。でたらめな通説を「定説」などと言いつくろってそれを守ろうとしている。これを聞いて、ここではすでに「九州年号」を記した木簡が確実に見つかっているという確信をもった。

 木簡は一度使ったものを削って字を消し、何回も再利用する。「削りカス」が大事なのだ。最後の答えは、この木簡の保管機関の長も歴任した例の九州大学元教授の裁定だと聞く。まったくとんでもない人だ。自分の職務を何と思っているのだろうか。国民に対する裏切り行為を犯していることを認識しているのだろうか。

 ブログNO.47「九州倭(ヰ)政権実在のデータ」などでも述べたが、最初に太宰府の都を造り始めたのは邪馬壹国の女王・卑弥呼であるらしい。太宰府を守る防衛施設のひとつ水城(みずき)の下部に、基礎を固めるための敷ソダ工法が用いられている。

 土を叩きしめた上に生木の枝を敷き、その上に土を盛って叩きしめる。これを何層にも繰り返して基礎を固めている。太宰府の水城ではこれが11層見つかっている。

筆者は、使われたこれらソダ(木の小枝)は放射性炭素(⒕C)による年代測定の格好の資料と思った。水城は太宰府の都城とほぼ同時に建設されたことは言うまでもない。

 そこで発掘調査を担当している九州歴史資料館にその測定を提案した。担当者は『日本書紀』の記載(664年建設)に間違いはない、と信じていたから、自分たちの考えが正しいことを証明できる「格好の提案だ」と思ったのであろう、すぐに対応した。2002年のことだ。

筆者はそれまでにこれも太宰府とほぼ同時に建設されたという外交施設・鴻臚館(こうろかん)のトイレの底にへばりついていた尻穴ふき用の「注木」の測定値が「430年±」であったことや、水城の下部に設けられている排水用の「木樋」の測定値がやはり同じく「430年±」であったという情報を入手していたから、太宰府は5世紀中ごろには完成していたという認識を持っていた。

そこで担当者と冗談めかしく「どっちが正しいか賭けをしよう。負けた方はコーヒーを一杯おごることにしような」と約束を交わした。

数か月後、担当者が電話してきた「えらく古い測定値が出てるんです」と困惑した声だった。筆者は「それみろ、そうだろう。どういう発表をするのかな」と得意満面だ。

それからまた数か月して「正式に結果が出た。発表します」という。発表場所には西日本新聞と読売新聞の記者もいた。担当者は「敷ソダの測定値は最上段が660年±、中層が430年±、最下部は240年±でした。660年±は我々の認識通り水城は白村江の戦い(663年)のあと建設されたことを立証する測定値です。430年±、240年±に行われた工事は水城とは関係のない別の工事であると考えています」という。

いつの間にか数か月前の電話とは違う「660年±」が新たに加わっている。渡された資料も「変な資料」であった。通例ではこの手の資料は「測定場所」「資料名」「測定結果」「注意書き」などを簡潔に記したものだ。

が、この「資料」には「水城は『日本書紀』に664年に建設されたものである」など測定とはまったく関係のない〝余計なこと〟がいっぱい書いてあった。

本当に敷ソダから「660年±」の測定値が出たのか今でも疑問をもっている。そして「資料」は測定会社パリノサーベイ社が独自に作製したものでないことは確実だ。この会社が当初作った「資料」に九州歴史資料館が手を加えたことは間違いないと思われる。

さらに「430年」「240年」ごろに水城とは関係のないどんな工事が行われたのかまったくその根拠は示しえなかった。「苦しいウソ」であろう。測定以前にそんな話は聞いたことはない。

それ以前の発掘調査で水城は、3回にわたって工事が行われたことが確認されている。最初は元来の工事、二度目はその上に強固なものを付け加えた工事、三度目のは修復程度の工事であったという。九州歴史資料館が確認し、発表している。

最上層の「660年±」の測定値は、仮にあったとしても三度目の修復工事の時のものであることは容易に考えられる。

九州歴史資料館は福岡県が設立している公的機関である。発表に関しては担当者の意見だけでは発表しない。機関として議論を重ね、まとまった見解を出す。だから信頼度が高くなるのである。

当時、福岡県の「埋蔵文化財指導委員」を担当していたのは例の大阪出身の、いかがわしい九州大学元教授であった。「資料」の作製にこの男が関わっていることは想像に難くない。またしても「定説」を守るためいかがわしい行為に走っているのだ。

結局、西日本新聞と読売新聞にもこの発表記事は掲載されなかったと記憶している。「定説通りで間違いない」という発表だからニュース価値はない、と受け止められたのだろうか。

筆者は当時、朝日新聞の記者であった。定年直前の最後の御奉公、と、この記事で仕事を納めることにしていた。ところがとんでもないことが起きた。

社の「文化財担当編集委員」某らが記事を掲載することに猛反対を繰り広げてきたのだ。それまでにも理化学的年代測定に関する記事への抵抗を続けていたバカ編集委員らである。記事の重要性について話し合おう、と言っても出てこない。もっぱら「裏工作」に専念している。

例の九州大学元教授の「ダチである」ことを吹聴し、そのくせ「文化財」への確かな知識はほとんどない連中だった。「元教授」もだましやすかったであろう。

バカ「デスク」を巻き込んでついに筆者の「最後の御奉公記事」を没にすることに成功してしまった!!。おまけに筆者の机の引き出しに保管しておいた例の「資料」が盗まれていた。朝日新聞の「読者に資する紙面」に反する腐った一面が出た‶事件〟であった。

   

次回は「240年±」の測定値が意味する古代史上重大な「証言」について記そう。(20171月)

 
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

ブログNO.48

東アジアに広範な犬祖伝説


「お稲荷さん」の狐も元来は犬?


 これまで何回も南九州から全国へ展開した熊曾於(熊襲)族が犬祖伝説を持っていた、と書いた。これまでの古代史の通説では一般にまったく知らされていないことだ。いかがわしい古代史を説く国史学者らは、無知、あるいは知っていながら素知らぬ顔で口を拭っている。詳しくは拙著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルヴァ書房 2013年)を見てほしいが、新たなデータも加えて解説しよう。

 この考え、というか信仰は、東アジアの多くの民族に共通する信仰でもあった。なぜなら狩猟と焼畑が主力だった人々にとって、犬は生活に欠かせない生き物であったからだ。特に狩猟に於いては彼らなしには生活が成り立たないほどだった。

 しかも人懐っこさ、忠実さは他の動物と比べて抜群に秀でている。家族同様、あるいは家族以上の存在であった。であるから、多くの民族で「人間の女性と結婚し、その子孫が民族の元になった」という伝説が生まれたのだ。

犬祖伝説については田中勝也氏が著した『東アジア古伝承と日本原住民』(新泉社 1990年)に詳しい。この信仰を持っていた民族には、今中国で少数民族として生きている苗(みゃお)族、瑶(やお)族、黎(り)族、シェ族のほか、周の国を滅ぼした犬戎(けんじゅう)、モンゴル人、インドシナのジャライ族、チベット系吐蕃(とばん)、氐(てい)、さらにキルギス人、フン族、シベリアのチャクチー族、コリヤーク族、エスキモーなど実に広範囲に存在していたことを実証的に解明している。。

 実は筆者が「熊襲」の研究を始めて第一次原稿を書き終えるまで、田中氏の研究成果を知らなかった。知らなかったために「熊襲」が犬祖伝説を持っていて、これらの民族と強い関係をもっていたことを突き止めるまで23年もかかった。校正刷りの途中で気が付き、大慌てで田中氏についての追加書入れをした。不勉強がもたらした無駄な時間であった。

 だが、何事にも「無駄」は大切だ。知らなかったおかげで中国・山東省や江蘇省に「熊襲の地下式横穴墓」と同じものが数多く発見されつつあることなど多くの知見を得られたのだ。漢民族の容赦ない攻撃に押され、「犬祖族」は日本列島などに新天地を求めたことは間違いない。

 田中氏は「熊襲」の実体を突き止めていたものの、「熊襲」が日本列島全域にその足跡を残していて、九州倭(ヰ)政権の中核を占めていたことまでには研究が及ばなかった。考古学の成果などがまだ発達段階であった時期であるからしかたがない。

 関西に誕生した大和政権は長年、「熊襲」を主体にした九州倭政権に押さえつけられていたから、その史書『日本書紀』に「熊襲」をあたかも蛮族であったかのように記して意趣返しをしている。国史学者らはずっとそのことに気が付かなかった。

そして多くの場合、稲も彼らが神様からもらってきたという伝説も生まれた。「稲荷(いなり)」である。


人々は「天の神様」が持っていた稲モミがどうしても欲しい、と犬を使者に立ててお願いに行ったが、断られた。犬は干してある稲モミの中をわざと転がりまわり、体中に稲モミをつけて地上に帰ってきた。が、途中、天の川を渡っている時にほとんど流されてしまった。幸い尻尾についていた一粒が地上の稲作の基になった(江西、貴州省説話など)。


という話である。

中国奥地のハニ族やイ族、そして熊襲(熊曾於)族の間では「新米を収穫したらはまず床の間に座らせた飼い犬に食べてもらい、そのあと家族一同が食べる」という風習があった。

今、「お稲荷さん」の守り神は「狐である」ということにされているが、元来は犬だろう。犬祖伝説を持たない、あるいは忘れてしまった一派が奈良時代以後、日本列島の支配権を確立したため、「犬ではまずい」、と格好がよく似た狐だということにしたと思われる。

「お稲荷さん」で有名な京都の伏見稲荷などの故事を調べてみると、稲荷神がそもそも何者なのかはっきりしない。秦氏が奉祀したらしいことは文献にある。が、「狐」はもともと稲作との関係は元来なにもないし、人をだましたり、仇(あだ)をなしたりするといってあまり良いイメージとは言えない。

修験道などでは「狐」の元祖「天狐」は「天狗」と同体であるとされる。時代が下がってからそうなった、と言われているがどうだろうか。逆ではないかと思われる。

故上田正昭(京都大)は『イチから知りたい日本の神様―2 稲荷大神』(戎光出版 2009年)に「稲荷神はどこから来たか」という一文を寄せているが、この人らしく結論も滅茶苦茶だ。

まず「秦氏」の出自をおよそ学問とはかけ離れた低級な語呂合わせを用いて「新羅系渡来人」としている。諸氏の出自を知るうえで貴重な資料である平安時代の『新撰姓氏録』は、秦氏の諸氏はすべて「秦の始皇帝の子孫」で中国からの渡来人であると認定している

秦氏が果たして「始皇帝の子孫」であるかどうかは別として、彼らを「朝鮮からの渡来人」とすることで「稲荷神は朝鮮から来た」と結論している。一方で『新撰姓氏録』を自説の重要な根拠としていながらでたらめな操作をしている。

また、これは致し方ないことかもしれないが、『山背国風土記が』逸文は京都府の「山城」のことではなく、秦氏が多く住んでいた豊前の「山背」であるというのが筆者らの新見解である。

どこの「お稲荷さん」でも鳥居全体を真っ赤に塗っているのも、犬祖伝説を持つ多くの民族が「塗赭(としゃ)」、すなわち赤色を幸せの色、僻邪(へきじゃ)の色として尊重し、建物や顔、身体にも塗っていた(下写真=鹿児島県南九州市川辺町の飯倉神社で)。

48-1

このことからきている。以前当ブログ(NO.40)でも紹介した鹿児島の「前玉(さきたま)神社」(上写真)や「戸柱神社」なども鳥居や本殿はすべて深紅に塗られているのを思い出してほしい。

 モンゴルでも元来は民俗の象徴は犬であったが、いつのころからか「オオカミ」に変わった事例もある。

 また、よく神社の祭壇の両脇などに「天狗」の面が飾ってあるのをみかける。(写真下=福岡県筑前町 松峡(まつお)八幡宮で

48-2

「天狗」の字をよく見てほしい。「天の犬(狗)」である。強いうえに人間の能力をはるかに超えた神通力の持ち主だ。守り神としてふさわしい。

  「犬祖伝説」はさまざまな話が加えられているが、基本は「女性と犬が結婚し、その子供たちが民族の祖先となった」という話だ。民族の中には犬のかぶり物や頭飾りでそのことを示すことも行われていた。


 これまでに何回か述べたが、房総の「里見八犬伝」はヤオ族やシェ族の伝説の同工異曲である。シェ族は毎年一回、下図のような「祖図」(『シェ族研究論文集』上海出版社)から)を掲げてお祝いをし、民族の団結を確かめあっているという。

48-3

飼い犬の「槃瓠(ばんこ)」が敵将の首を取ってきて約束通り王女と結婚したことを表す。(「シェ」は人かんむりの下に示、その下に田。焼畑を意味する漢字)。

 豊前・京都(みやこ)郡に都をおいていた(当ブログNO.16参照)倭王・タリシヒコを、隋の使節団が訪ねたことを記した『隋書』倭国伝によると、「(人々が)結婚する時、花嫁は犬を跨(また)いでから婿の家に入る」と記録されている。これは「槃瓠が王女と結婚した時、王女を背中に乗せて山奥の洞窟に行った」という犬祖伝説の話をちょっと変えた形で表した所作であろうと思われる。今「〔犬〕は〔火〕の間違いだろう」などと解釈されているが、それこそ間違いだろう。

20171月)

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。