うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログ 「ご挨拶」


 このブログも140回を超えました。古代史に関わるさまざまな疑問に挑戦し、本当の古代史はどんなものかを探って来ました。そのなかで浮かび上がってきたのは、古代史家らが日本の「正史」と考えてきた『日本書紀』のいかがわしさでした。分かってはいましたが、探っていくと「ここまでうそを並べたか」とびっくりするほど事実を捻じ曲げていて、ひどい内容であることがわかりました。

 消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で『書紀』の執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと各所に“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

 〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。古代史像から導かれる国のアイデンティティはとても重要です。嘘八百の古代史は市民を直撃して地獄に落とすでしょう。

 第二次世界大戦の経緯をみれば明らかでしょう。教育界は今とさして変わらぬ「嘘の古代史」を平然と市民に教え込み、軍の首脳は銃をちらつかせて政治を乗っ取り、東京の「大本営」でマスコミに嘘情報を垂れ流し、マスコミは嘘情報に尾ひれをつけて紙面を飾りました。

 何十万人もの市民が焼夷弾で焼かれ、苦しみのあまり断末魔の叫びをあげながら川に飛び込み、原爆でも目玉まで飛び出さされ、全身焼けただれた姿で苦しみながら焼き尽くされた町をさ迷いました。南方の森の中では支援もなく空爆にさらされて逃げまどい、カエルや蛇を食い尽くし、死んだ仲間の肉まで食べて挙句の果て死にました。

 国史学者らは軍部にへつらい、財閥だけは世間を謳歌しました。若者たちは「国の為、天皇陛下のために死ね」と言われて将来の夢や人生を捨て、爆弾を抱えて死地に赴きました。「国の為」などは全くの嘘で、実は戦争を起こした軍部・参謀たちの命と面子を守るためでした。

敗戦が決まるとマスコミと教育界は「一億国民総ざんげ」などと言って戦争の責任を市民に転嫁しました。まったくとんでもない事です。

 彼らが一日も早く良心を取り戻し、市民全てが本当の歴史を知るようになって欲しいものです。その一助になれば幸いです。ぼちぼちですがこれからも頑張るつもりですのでよろしく。

  どんな事を探って来たのか。テーマ別に主なものをまとめてみました。ぜひ読んで下さい。ご批判大歓迎です。

()内はブログのナンバーです。

九州倭(いぃ)政権実在のデータ47

九州年号とは6135698134135

九州の遺跡の年代は間違いだらけ5122139

九州にいた古代の天皇 
神武(131141142他)景行11684他)継体1314138139)、安閑1556)、神功皇后697579)、成務80)、天のタリシヒコ(1617)、斉明(120123)天智959899101102
前方後円墳は「大和政権の墓」ではない。

紀(姫・木・基・記・貴)氏が造り始め、やがて九州倭政権の墳形に7978127

卑弥呼の鏡262937548389

大国主・大己貴は山陰の出雲でなく九州にいた737496

九州政権の一翼を担っていた熊襲234131548599395138139

「東海紀(貴)氏国」を造り君臨した紀氏240819199)。

「倭」を「わ」と読むのは間違いだ11144

・古代史年表(14312

・偽られた聖徳太子像(161966102104137

・このほか山陰、丹波、岡山、埼玉、熊本、薩南などで古代史を探っています。「うっちゃん先生」こと九州古代史研究会主宰 内倉武久

東京で古代史に関して革新的な議論を展開してきた「多元の会」が、最近怪しくなってきた。そこで一言申し上げたいと思い、一文を弄した。今年一月のことである。「多元の会」の会員だけでなく、広く知ってもらったほうがよいかな、と、一文に若干の加筆をしたものを当ブログでも公開することにした。中国の史書『隋書』の倭国伝に関してである。


『隋書』の「俀」は「倭」の間違い

  「多利思孤」も正しくは「孤」


筆者は昨年まで多元の会員であったが、「多元」に掲載される多くの論があまりにも古田武彦説に固執しすぎ、古田説を巡る「堂々巡り」に陥っていることなどに違和感を覚え、今年春、会員から一応身を引いた。

一部の新しい会員らが、古田氏が生涯をかけて切り開いた「九州倭(ヰ=注1)政権」の内容を深めたり、正す努力も怠り、さらに先進的な研究に対して非難と無視をもっぱらにするなどはなはだ情けない「論」を展開しているような気がした。最近の「多元」に掲載された多くの「論」を読むと「守旧派」の圧力に屈するような半知、反証の論も目立つと思える。

古田氏の援護に多くの紙面を割いてきた「多元」である。「これではちょっと困る」と思い、改めて物申すことにした。とりあえず先の「多元NO.178」に掲載された論について異論などを申しあげたい。



1)「」国とはどこの国

まず第一に「『隋書』の読み」についてである。「継体紀 その二」で、筆者の黒澤正延氏は「倭王・多利思比孤(ヰおう・たりしひこ」の読みを相変わらず、「たいおう・たりしほ(く)こ」と読んでおられるよう
00 だ。これは過ちであると考えられる。氏は大変な勉強家であるようで、多くの論を「多元」に発表している。ちょっともったいないと思ったので一言申し上げよう。

確かに『隋書』倭国伝には国名を「俀」、(写真)「倭王」の名も「多利思北孤」になっている。だが、前後の中國正史や朝鮮の史書のどこを探してもこのような読みは存在しない。また、過去の国名表示を「倭」から 「俀」に変えたとの表示や注釈も存在しない。

これは古田武彦氏が、「邪馬壹国」の読みに関して『魏志』に忠実に読むように主張し、「中国史書はまず一字一句大事にし、忠実に読むべきである」と言う主張に沿って、『隋書』でもその「論」を貫き通したことに起因している。

「邪馬壹国」の「壹」はその主張通り、中国語の漢音読みで「イッ」である。これは卑弥呼がもらったという金印の「親魏倭王」の「倭(ヰ→日本語では「いぃ」と発音か)」と矛盾しない。正解だった。

一方古来、古文書の解読については「魯魚の誤り」とされるように、原典にある文字が写本を重ねるたびに間違いに代わる。そしてその数は増える。これは古典を読む人々の「常識」でもある。

中国正史の「原典」は他の正史と同様、きっちりとした「隷書体」で書かれたていたとみるべきだろう。そしてその複雑な文字を、時間と手間の節約をするために、多くの場合複数の人で「草書体」で写したことが考えられる。

この時に誤りが生じる。書写する人は、原典を書いた人の知識に及ばないことは往々あろう。そして「記録された草書体」を「楷書体」に直す際に、間違いがそのまま通ってしまった。
01 「邪馬壹国」で使った「論」が『隋書』で使えるかどうかは別問題であり、それぞれに検討しなければならない。

古代中国の文典で直接原典に触れられるのは現在、皆無と言っても良かろう。もちろん『隋書』もそうである。「検討」してみよう。まず「俀」である。

先ほど申しあげたように「国名を変えた」という話はない。「変えた」という「理由」を後でいろいろ考えても、その「理由」がまともなものであるかどうかはわからない。

『隋書』巻三・煬帝紀、大業四年三月の項には「百済、倭、赤土、迦羅舎国、ならびに使いを派遣して方物を貢す」とある。「百済」や「倭」、「赤土」、「迦羅舎」はいずれも国名である。ここでは九州政権を表す「倭国」は、間違いなく「倭」になっている「」ではない。(写真=江蘇省立国学図書館蔵『隋書』)。

そして同じ本の「倭国伝」では「俀国」になっている。さらに倭人伝の三行目には「安帝の時、また遣使朝貢。これを俀奴国という」と記録している(上写真=同)。

この「俀奴国」とは『魏志』や『後漢書』、さらに後の『旧唐書』でも明らかなように「倭奴(イト=『魏志』にいう伊都)国」のことである。もちろん、この国が過去にさかのぼって名前を変えた、などありえないことだろう。
02 もちろん、朝鮮の史書『三国史記』も九州政権のことを「倭」と書く。隋からの使者が「倭国」に向か
うために「隋の文林郎裵清、使いして倭国に奉ずるに、我が国の南路を経たり」ときちんと国名は「倭」としている。

以前の「倭国」が名前を変えたのだろう、という古田氏の想定は成り立たないと思われる。

「倭」と「俀」の隷書体と草書体の違いを見てみよう。明らかによく似ている(写真=書家の井上悦文氏提供。左側が「倭」の草書体。右は「俀」の草書体)。何人かで分担して書写したが、倭国伝などを担当した書写人は経験が浅く、かつ異国についての知識に乏しい人であったのだろう。判断がつかず、間違ってしまった可能性が高い。校閲者も最終巻に近い「倭人伝」とあって見逃してしまったと考えられる。


2)「多利思北孤」は正しい表記か

次に「多利思比孤」の問題である。古田氏は先ほどの論「中国史書に誤りはない」という立場に立ち、さらに「北孤」は日本の伝統的武器である「矛(ほこ)」であり、その伝統を背負った名前であろう、との趣旨を述べておられた。

だが、倭(ヰ)人伝には「多利思比孤」は、「其の風俗を使者が言うに、俀王は天を以って兄とし、日を以って弟と為す」、「天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して座り、日出るにすなわち理務を停して、云ひて我が弟に委ねん、と」と記録されている。そこにはもちろん、「矛」は出てこない。

文面から察すれば、「多利思比孤」は自らを「太陽の子」、すなわち「日子」であると任じていたのである。日本の数多くの「王」が宣言していた「日の御子=卑弥呼(ひみこ)」を踏襲した王であったろう。従って名前は「ほ(く)こ」でなく「日子=彦」であろうと察しがつこう。

さらに後世の『新唐書』日本伝では「用明天皇は目多利思比孤」、すなわち「多利思比孤王朝の長官、あるいは代官」であった、と正しく「比孤」と記録している。

ついでに言えば「多利思比孤王朝」の皇太子であるという「利歌彌多弗利」の最初の字「利」は、「若」云々の「和」である疑いが濃い。当時の多くの皇太子が「若云々」と称していたことが『記紀』に記録されているからである。書写を繰り返すうちに「禾へんに口」がつぶれて「口」が「リ」に見えたのではないかと思われる。


3)「継体天皇」は渡来人の子孫である

もう一つ、重要な指摘をしておこう。『古事記』によれば「継体天皇」の名は「袁本杼」であるという。『日本書紀』はこの天皇を越前に住んでいた「応神天皇の五世の孫」で名前は「男大迹」という、としている。もちろん別人である。

『日本書紀』という書物は「日本における権力は古来、大和政権しかなかった」といういかがわしい、というか大嘘の歴史を綴った「史書」である。このことは古田氏が生涯をかけて明らかにした「事実」でもある。

古田説に沿って筆者が探索した結果、「本当の継体天皇」は現在の福岡県朝倉市に都を置いていた熊曾於族の一員らしいとわかった。このことはすでに「多元NO.162、163」などでも皆さんにお知らせ済みのことだ。

詳しいことはそれを見ていただくとして、大まかに言うとその理由は次のようになる。

①「継体天皇」は、『記紀』以外の多くの史書では、「九州年号」を建て始めた天皇として知られている。その都は「三嶋の藍」、すなわち「筑紫国の三嶋の会(あい)」、現在の朝倉市の「三嶋の会」にあった。

②「袁」氏の名前は古代から広く中国で見いだせる。彼の地の名家の一つである。近世ではあるが、例を挙げると中華民国初代大統領は「袁世凱」である。

③「袁氏」の名は、中国・紹興博物館の「鏡の銘文集」の中にも見いだせる。(「袁氏作鏡」)「袁」氏の一人が元来、中国南部で「鏡作りの技術者」であったことがわかる。

④「袁氏作鏡」と銘した鏡は日本で四面発見されている(東京国立博物館の証言)。奈良県広陵町の黒石山古墳群、群馬県藤岡市の三本木古墳などからの出土である。いずれも三世紀代のものという。「袁氏」が日本に渡来して鏡を作ったことは間違いないと思われる

 ⑤大分県日田市では熊曾於族の墳墓と見られる「横穴墓」群の中の古墳から「鉄製の特異な鏡・金銀錯嵌珠龍紋(きんぎんさくがん しゅりゅうもん)鉄鏡」が発見され、現在「国宝」にされている。この種の鏡は「魏の初代天子」に擬されている「曹操(武帝)」の墓(中国・河南省)からも発見されていて、極めて貴重な鏡であるという。「袁氏」との関係が想像される。

 ⑥『記紀』によれば、「継体天皇」の後を継いで天皇になったとされる「安閑天皇」は豊前一帯に多くの「屯倉(みやけ)」をおいて防御や備えを固めていた

 ⑦安閑天皇の都は、「屯倉の集中地域」、すなわち継体陵から北へ山ひとつ越した福岡県田川(高羽)郡香春町「勾金(まがりかね)」の「浦松遺跡」近辺にあったらしい

 ⑧『日本書紀』によれば、「安閑天皇」は生前、「国ごとに犬養部を置くよう」指示したという。熊曾於族は自らのアイデンティティとして中国の少数民族と同様の「犬祖伝説」を持っていた。このことを具体化した施策であったろう。ということは父親の「継体天皇」も熊曾於族の一員として活動していた可能性が高い

 ➈「安閑天皇の屯倉」のひとつが鹿児島県肝付町宮下に伝えられている。列島での出身地というかルーツの地であるからそうした施設を造らせたのではないか。

 ⑩「継体天皇」を担いでいたのは「三嶋宿祢」であった。『新撰姓氏録』に「よれば、「三嶋宿祢」一統は「建日別の裔」、すなわち『古事記』国土生成の項にいう熊襲(熊曾於)族であった。朝倉市や隣接の日田市なども熊曾於族関係と見られる遺跡だらけである。

 ⑪世界中の考古学界で最も確実な年代測定方法であるとされる放射性炭素(14C)による年代測定では、現在、福岡県教委が「七世紀代の斉明天皇の行宮である」と言っている朝倉市の「橘の広庭宮」跡や周辺で発見されている「建築群」の年代は「AD410年+-から550年+-の期間に使われていた」ものと分かっている(建築群遺構の真上にあった火葬墓群と「建築群」を造るために破壊された住居跡の年代を測定)。これはまさしく「継体天皇(467~531)」の磐余の玉穂の宮」と一致する年代である。同じく「袁」氏の名を負う前代の顕宗天皇や仁賢天皇もここにいた可能性がある。


4)「継体天皇」の死亡年、3年のずれは何を意味するか

前項3)で「継体天皇」の時代を(467~531年)とした。が、もちろんこれは『日本書紀』の記述をもとに推定したいかがわしい年代設定であって、近いけれど事実ではなかろう。 黒澤氏もこの問題について一論を設けている。

『日本書紀』の継体紀は『百済本記』によって時間軸としている。「添え書き」によれば「継体天皇はその二五年(531年)に皇太子らとともに崩薨した」という。そしてすぐさま安閑天皇が即位したことになっている。

 氏はどうやら古田氏の論に賛同し、「二五年に討たれたのは継体天皇ではなく、継体に討たれた「磐井」である。『九州政権の継体天皇』が死んだのは二八年が正しい」と考えておられるようだ。

 要は「『百済本記』、すなわち百済国人は日本の天皇が誰であったかが分からなかった」と言いたいのであろうか。そんなことがあり得るだろうか。百済国は日本に人質を差し出し、官吏にも倭国人が大勢いたことが『日本書紀』や『三国史記』などに見える。

関係は極めて緊密な国であった。であるから、倭国の動静には極めて高い関心を抱いていただろう。「支配者である天皇を取り違える」、そのようなことはまず考えられないのではないか。

 この件に関して筆者は新しい資料を発見し、皆さんに提供した。鹿児島県入来町(現・薩摩川内市)の入来院家文書『日本帝皇年代記』の記述である(注2)。

 それによれば「安閑天皇」は継体天皇が死んですぐに天皇位に付いたのではなく、二年間の「空位」があった、とはっきり記録している。「安閑天皇」が即位するまで、天皇位を巡る厳しい戦いが繰り広げられていたらしいのである。

 確かに『記紀』によれば、「安閑天皇」は継体天皇の本妻の子ではない。母は「尾張の連らの祖で、凡(おおし=太氏か)の連の妹・目子郎女(めこのいらつめ)」という極めて勢力の強い氏族の出身であるという。

本妻・大后の「手白髪姫」の子である「欽明天皇」が即位したのは、安閑と同じく本妻の子ではない「宣化天皇」が亡くなってからであったという。

 継体天皇には数多くの皇子がいたが、『古事記』によれば、筆頭であったのは「大郎子(おおのいらつこ)」という人である。だが、この人については何の注釈もなく、名前だけ残して「消息不明」状態になっている。

 となると、天皇位を狙っていた「安閑天皇・凡連」勢力が継体天皇と筆頭の太子であった「大郎子」らを何らかの方法で殺害した疑いが持ち上がる。しかも、下手人が分からないような方法を使ったのではないか。毒殺とか。犯人が特定されれば、その勢力が天皇位に登ることはまず不可能であろうから。

岩波書店刊『日本書紀』の頭注によれば、『(上宮聖徳)法王帝説』という本には「志帰嶋(しきしま=欽明)天皇、知天下四二年」という表現もあるという。欽明は五七一年まで天皇位に就いていたらしいからその治世が始まったのは五二九年ごろからということになり、安閑、宣化の両天皇が帝位についたという『日本書紀』の記述はうそ、ということになる。

欽明は筆者らの探索では、継体の都に近い福岡県福智町金田町周辺に都したらしい。今も「敷島」とか「大宮神社」の地名などが残っている。もちろん関西にいた天皇ではない。

 そうであれば、「崩薨」の用字が生き生きと分かる。決して「乱による(壮絶な)戦死」ではないだろう。「眠るがごとく亡くなった(崩薨)」のだ。『百済本記』の筆者らは事情をよく知っていたことが推察される。

 だが「安閑天皇」は母親の氏族の期待にも関わらず、天皇位を二年間しか務められずに亡くなった。高齢であったことは事実だろうが、その死はまだ謎に包まれている。『記紀』はその辺の事情にいっさい口を閉ざしている。

 『日本書紀』は、九州倭(いぃ)政権が自らの天皇につけた諡(おくりな)をすべてパクリ、自分ら「大和の王」に付け替えているようだ。しかし、「九州倭(いぃ)政権」と「大和政権」のはざまで歴史事態そのものが間違われた、とは考えにくい。

しかし、だからと言って古田氏のすごい業績に疑問が湧く、などということはいっさいない。圧倒的な「守旧派」の無視と戦いながら、筆者らが考察を深めるあらゆるベースに古田氏は言及し、考察を明らかにしているからだ。

このことは、古田氏は晩年、不幸にも「水頭症」に冒されたことと関係があるのかもしれない。あれほどすごい頭脳を持った人がそうたやすく間違った推測をするはずはない、と考えるのは「考えすぎ」になるのだろうか。


注1  後漢時代に原典ができた『説文解字』による。「ワ」という読みは呉音であり。漢音地域で記録された「正史」の読みとしては間違いである。また日本では「倭」は「ヰ」ではなく、「いぃ」と言っていたと考えられる。北部九州に多い「井」氏や「飯(塚)」など一字姓や地名は「いぃ」と発音しているからである

注2  小生のブログ「うっちゃん先生の『古代史はおもろいで』」NO.56参照。地頭として下向した渋谷氏の一支流「入来院家」が、江戸時代初期までに書き綴った古文書。時間軸に九州年号四十六個で使い、神武天皇から始まる歴代の天皇について記述している

邪馬壹国ってどこにあった?

正しい邪馬台国への理解の為に

はじめに

 筆者はここ数年、鹿児島県大隅半島の歴史季刊誌「大隅」(大隅史談会発刊)に論考を掲載させていただいている。このところブログの執筆をさぼっていたので、この5月に発刊されたお「大隅」に掲載された「卑弥呼」「邪馬壹国」に関する論考を二回に分けて読者に届けたい。特に新しいことは書いていないが、まとまった形なので参考になれば幸いだ。

             ×             ×            ×

相変わらず古代史フアンの間では「邪馬台国と女王・卑弥呼」についての関心が高いようだ。外国の史書だけに記され、『日本書紀』(以下『書紀』)では偽られている「謎の女王」だから、当然と言えば当然だろう。みんな、ロマンと古代史に関して何がしかの知識を持ちたいと思う心のうちはよくわかる。

これまでにも全国組織のグループがいくつも結成されていて、小生の知人の何人かもそれぞれの地域の「地域長」を務めている。

知人らはそれぞれ自分で研究し、勉強をしているのだが、なかなか発表の機会に恵まれない。勉強の結果をみんなに知らせたがっている。そんな人たちに機会を与えようというのも会の目的のひとつだろう。

もちろん、なかには「ロマンだから七面倒くさい『事実や証拠』などどうでもよい」と思っている人もいるだろう。が、多くの人はとても真剣だ。

でもこうした人々に共通して言えるのは、さまざまな〝専門家〟の著書などをベースにしてそれぞれの地域の伝承やデータを判断しようとしているのだが、えてして地域にこだわりすぎ、冷静な判断ができなくなり、ひいき倒しになってしまっているケースが多いことだ。

問題になるのは、判断のベースとした「専門家の知識、意見」がどこまで信頼していいのかということだ。これが実にあやしい。なぜならそこには純粋に学問的な追及が行われておらず、先生や同僚、仲間への「配慮」が先行するという日本人的な風土が学界や大学の中で支配的であるからだ。

「先生」に気に入ってもらえるよう、「多くの必要な事実」に目をつぶり、見て見ぬふりをして論文や意見の発表をまとめようとする。先生が作った枠(わく)から絶対に大きくはみ出さないように配慮を重ねる。

枠を外れた意見を公表したら大変だ。研究者として一生冷や飯を食わされる。優秀な研究者がそんな憂き目に会っているのを多く目にしてきた。

「邪馬台国の卑弥呼」が九州や関西、そして四国などあちこちに飛んでしまい、未だに収拾がつかない原因はそこにある。逆に「素人(しろうと)」が大活躍する素地もそこにあろう。しかし小生は、「ロマンは事実をもとにわからないことに思いをはせるものであって、事実を離れた妄想ではしかたがない」という意見である。

 今回は多くの「邪馬台国論争」(注1)から欠如していると思われるいくつかの事実やデータをお知らせしたい。論議や考察の一助になれば幸いだ。


①「隠されてきた」の認識が大事


一般に言う「邪馬台国」は、日本の古代史をつづったという『古事記』や『書紀』には記録されていない。
himiko-01 『書紀』には「神功皇后」紀のなかに、中国の史書『三国志・魏書』(魏志)倭人伝に記録された「女王。卑弥呼」について、割注を設けて写真の様に書いている(写真 新潮社刊『日本書紀』)。

「『書紀』の割注を読めば、読者は、邪馬壹国の女王・卑弥呼」は『魏志』にいう二世紀から世紀に生きていた人でなく、四世紀後半の人であろう「神功皇后」のことだと勘違いするように仕立て上げられているのだ。


しかし、『書紀』が記された八世紀の人や、少しでも勉強している現在の人ならば、百年以上も違う時代に生きた人が同じ人だなどと思う人はいないだろう。

 それもあって『書紀』はおそらく、わざとであろう、『魏志』の記述を変えて紹介している。

まず十九年の「景初二(二三八)年」を景初三(二九)年己未」に「卑弥呼の使者難升米?を難米」に「帯方郡太守の劉夏」の名を「夏」に四十年の項も「正始元(二四〇」年、太守弓遵、建中校尉梯儁を遣わし」を「正始元年、建中校尉梯携を遣わし」と太守の名を削除したり、建中校尉の名前も違わせている。四十三年の項も大夫の名を違わせるなど「誤引」だらけだ。

しかし、『書紀』の筆者はそこらあたりの素人ではない。筆者であるとみられる「紀の清人」や「三宅の藤麻呂」らも当代きっての学者、歴史家であろう(注2)。これほど間違った誤引を連発することは一〇〇%考えられない。

『日本書紀』で「九州倭(い)政権」や「卑弥呼」の存在を削除するように命じた藤原不比等への物言わぬ反抗だろう。わざと間違えてみせ、読者が疑問を抱くように仕立てていると考えられる。「本当はそうじゃないんです。わかってください」というわけだ。『書紀』のいろんな場所に散りばめられている「事実解明への暗号」のひとつだろう。

不比等は邪馬壹国や九州倭政権の存在を隠して「大和政権こそ古来日本列島を支配してきた唯一の政権である」という虚構を読者や世間に認めさせようとしているようだ。『書紀』はとんでもない歴史の偽書と言えよう。当時の世相から見れば編纂を命じたのは彼しかいない。合わせて自分の一族を権力の中枢に据えようと考えたのであろう。

 「大和政権」は開元の初め(七一三)年に派遣した中国・唐への使節団に「なるべく多くの中国史書を買ってこい」と命じたらしい。中国は『(旧)唐書』日本伝に、「日本の使者らは(我々の天子が送った有難い)品々をことごとく金に換え、市場で大量の文籍を買い込み、海に浮かんで帰った。」と、「まったく失礼な連中だ」と言わんばかりの記録を残している。

 買って帰った「文籍」のなかに『魏志』があったことは間違いなかろう。『書紀』のなかの割注や天皇の言葉、歴史上の人物の発言のほとんどが、中国史書のなかの文言をそのまま、あるいは脚色して使われている秘密がここにある。


②中国の「正史」を呉音で読むのは間違い

文部科学省は、小、中、高校の教科書のすべてにこの「倭」に「わ」とルビをふるよう「指導」していて、一般の人は「ぎしわじんでん」が正しい読み方だと思い込み、定説化している。多くの古代史フアンの頭もこの読みに占領されている。文字通り「三つ子の魂百までも」状態だ。
homiko-02 しかし、この読みは誤りであり、「倭」は正しくは「ヰ(い)」と読むべき漢字である。
従って「魏志倭人伝」は「ぎしいじんでん」と読むべきである。また「奴」も「ナ」でなく「ト」の音しかない。

「倭奴」を正しく「ゐ(い)ど」と読まなくては我が国の古代史の解明は不可能、あるいは錯誤に陥ってしまうことになる。

この件は拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年ミネルヴァ書房)や、小生のブログでも扱った。煩雑だが骨格だけでも再録しよう。

福岡県教委などが、『魏志』に記録された「奴国」は博多湾岸の「那(な)の津」を指すなどと言っているが、これは大嘘、といえる。「ナ国」という国は存在しない。

一度でも中国に行き、中国人と話をした事がある人なら、自分が勉強した中国語がほとんど通じない場面に遭遇したことがあるだろう。上手、下手は別として、南方と北方とでは同じ漢字でもまったく発音が違うからだ。

現在どうなっているかは知らないが、小生が中国に通っていた二十年ほど前までは、テレビドラマの下部には役者のセリフを全部漢字にしてテロップで流していた。そうでもしなかったら、出演者が何をしゃべっているのかわからない人がたくさんいたのだ。

北方の長安や洛陽地域の音を「漢音」、南方の音を「呉、音」という。「呉音」は中国南部の「呉」や「越」の地域一帯、すなわち江蘇省南部、浙江省、福建省、広東省などで使われていた読みである。「倭」は呉音では「uwa:(わ)」と発音されていた(注3)。お互い外国語のようだ。古代には特に顕著だったろう。だから日本の漢字辞典も必ず「漢音」と「呉音」をきちんと区別して記している。

『魏志』倭人伝など中国の「正史」はすべて「漢音」地域で書かれ、読まれたものである。『三国志』のなかの≪魏志≫が著述されたのは三世紀末、場所は中国西北部、西晋の都であった洛陽である。編者は西晋の著作郎であった陳寿(二三三~二九七年)だ。

陳寿らが使っていた字音は「正音」、すなわち「漢音」であり、読者である西晋の天子や官僚たちはもちろん「漢音」を使っていた。疑問の余地はない。漢を引き継いだ魏、晋朝は、天子と官僚のトップが代わっただけで、官僚たちは漢時代と同じ人たちだったからだ。

しかし、言葉は時代によって変遷していく。従ってより正確に言うと『三国志』(魏志倭人伝など)は「三世紀末、洛陽で使われた漢音」で読まなければ正確な情報は得られない。

『魏志』は、正始八(二四七)年、「邪馬壹国」を訪れた帯方太守・王頎一行や、十六年もの長い間、軍事顧問として「邪馬壹国」に滞在したという張政らが、倭(い)の人から聞き取った国名や官職名、人名を、音がよく似た「三世紀末、洛陽で使われた漢字、特に卑字」を使って表記したのである。

だから理解しようと思ったらきちんと「漢音」で読まなくてはならない。そうしなければ、書かれている国々とか人の名前はわかりっこないのだ。

しかし、中国大陸から九州に漂着してきて全国に展開していった人々の大半は、「呉音」を使っていた南方の人が圧倒的に多い。熊曾於族しかり、紀氏しかり、ニニギの天族しかりだ。

だから日本語の漢字の読みは、初めから「呉音」なのだ。決して何十年かに一回、日本の使節団が中国に行って習ってきたからではなかろう。もちろん「倭人伝」は漢音で読まなくてはならない。

ところが、国史学者をはじめ、古代史の世界ではこのことにまったく無頓着だ。自分らが日常使っていた「呉音」で読んでしまうから勢い、でたらめ状態になってしまう。

国史学者らは『日本書紀』に頼って日本の古代を知ろうとするから、その辺のことがまったくわからない。かつ市民に寄り添うより、権力に尻尾を振ろうと努めるケースが多いから、勢い「大和政権一元論」に立ってものを言ったり書いたりする。


③『説文解字』が明かす日本の古代国家名

では「三世紀末に使われた漢音」が如何なるものであったか。その資料としては最も適当と考えられるのは、西晋の前代である後漢の長安で著述された『説文解字』であろう注4

許慎が著した『説文解字』の原典は失われているが、宋代から清に至るまで多くの研究者によってその復元研究が続けられてきた。清の段玉裁の『説文解字注』などはその到達点との評価がされる。
himiko-03 しかし、はっきりと『魏志』を『説文解字』で読むべきだとする研究者は今のところ、岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝』和訳を担当した石原道博以外多くはない。最も適当な「字典」だと考えられるのだが、どうしたことだろうか。この「字典」を持ち出せば、自説に都合が悪い、と考えて避けているのであろう。国史学界のいい加減さ、恐ろしさが感じられる。

「倭」と「奴」のそれぞれの字音について、段玉裁の『説文解字注』(図1,2)はこう記す。

倭は形(つくり=委)に従う。倭と委の意味はほぼ同じである。委は従うの意。『広韻』は慎む形に作る。人に従う。委声。於為の(反)切(owi音はすなわち烏(wu)と何(he)の切に転じた。詩に「周の道は曲がりくねり、遅々として進まない

と記す。()内、 。、は筆者

すなわち、オと発音する口の形をしてウイと言いなさい、と言う。日本語では「ヰ」に相当する。「委員」の委だ。「委や倭遅(ヰジ)」の「ヰ」であり、後に「we」に転じたとする( 『説文解字注』」の「倭」と「奴」の記述。『許慎撰 清 段玉裁注』 (上海古籍出版社)より。大意と発音の部分のみ掲載。用例部分はカットした)


「奴」の読みについてはこうだ。

奴は奴婢にして皆、古の罪人。『周礼』には奴男子は辠(官営の牢)に入り、隷(身分の卑しい)女はつきワラつき役にされる。駑馬はのろまな(馬)なり。その字皆、奴に作る。皆(駑)から引伸ばした意味である。乃(dai)と都(do)の(反)切(do)である


とし、「奴」は「駑馬(ドバ)」の「駑」の音(do)であるとする。

「奴隷」のド、「匈奴」のドである。ただ、北方の音には本来濁音はない。息を激しく吐く有気音と息をださない無気音だけだ。「do」は日本語では「ト」に近い音である

現在『魏志倭人伝』に記す「奴国」を「ナ」と呼んで、福岡市中央区の「奴(ナ)ノ津」に当てる説が定説化している。もちろんこれは誤りである。「ナ」と読む読みは「切韻」による「呉音」であり、「倭奴国」は正しくは、「ヰド国→『魏志』の伊都国」と読まなければならない。「ワのナ国」などという読みは『魏志倭人伝』など中国史書の読み方としては有りえない読みである。

一方、「呉音」というのは「いわゆる呉の地域独自の読みではなく、東晋(AD三一七~四一九年)の首都であった建康(現在の南京)で使われた読みをいうのだ」と、奇妙なことを主張する研究者もいる(注5)。だが、この主張ははっきりと誤りであると思われる。

なぜなら東晋は、さまざまな失政や北方の匈奴の侵入によって首都・洛陽を追われた西晋(AD二六五~三一六年)の天子や官僚たちが南に逃げ、建康を首都とした経緯がある。

しかも西晋の滅亡によって多くの人々が南に逃げたという。その数九十万人。世界史的に見ても稀に見る「民族大移動」であったという(注6)。

「呉音」地帯に「漢音」地域の人々がなだれこみ、「呉音」「漢音」は双方とも大きな影響を受けたことは間違いなかろう。が、東晋政府が使っていた漢字の読みは決して「呉音」ではなかっただろう。

いきなり「漢音」とは全く違う「呉音」を使うことは不可能であるからだ。東京で育った人が東北や鹿児島に移り住んでもその地域の言葉が全く使えないのと同じである。

 この主張は国史学者らに媚び、通説を正当化しようとするいかがわしい意見とのひとつと考えられる。


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④「奴国」は二カ所あった

『魏志倭人伝』には「奴(ト)国」が二つあったと記されている。ひとつは「伊都国から東南陸行百里の奴国」、もう一つは「邪馬壹国の境界が尽きるところ」で「南には狗奴(コード)国がある所にある奴国」である。大方の古代史家がこのことに気づかず、あるいは気づかないふりをして勝手な論陣を張っている。現在定説化している「ナ国」の推定地は福岡市中央区や春日市周辺一帯の一ヵ所しかない。『魏志倭人伝』の記載と合わず、場所的にも疑問がある。拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』(2007年)で詳述した。

『倭人伝』のふたつの「奴国」に該当すると思われる地域のひとつは、福岡市の早良区と西区の境界を流れる室見川(むろみがわ)周辺。「山門(やまと)」という場所だ(注7)。もうひとつは有明海に流れ込む筑後川河口付近だ。ここは旧福岡県山門(やまと)郡(現みやま市)である。いずれも『倭名類聚抄』に「里」「郷」として記載されており、現在も地名として使われている。

室見川付近の「山門」は、中世の荘園文書には「山戸(やまど)」と記載される例がある。室見川の中流域には弥生時代前、中期の著名な遺跡「吉武高木遺跡」などがある。前漢鏡や銅戈、矛、玉など「三種の神器」を納めた甕棺の密集地帯であり、国の正殿を彷彿とさせる堂々とした建物が発見されている(写真 福岡市西区吉武で)。

もう一方の「山門」、筑後川は人も知る北部九州随一の大河川である。流域は筑後から筑紫、そして大分県日田を貫流して熊本県の山国にまで及ぶ。河口一帯を「国への口」と呼ぶにふさわしい。
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いずれの「山門」もそれぞれ玄界灘と有明海側から内陸部(山)に入る「戸口」「門口」という意味であろう。『魏志』の筆者である陳寿は「戸の国」を卑字を使って「奴(ト)国」と表現したのだ。

この「山」が「倭人伝」にいう「邪馬壹国」を意味している可能性は高いと思われる。「同じ国名の重出」とみる説もあるが、『魏志』が指し示す場所は全然違う( 伊都(倭奴)国と二つの奴国想定位置図)。通説がいう福岡市中央区の「奴(な)国」の地は邪馬壹国そのものを勘違い、あるいは「関西説」を補強するために強引な解釈をしていると思われる。

「伊都」は現在は「イト」と清んで発音される場合が多いが、元来は「イド」である。この地は旧福岡県怡土(いど)郡であるからでもある。「怡土」とは「喜びの地」という意味である。ニニギら天族が初めて列島を代表する自分たちの国家を誕生させた「喜ばしい伊都(倭奴)国の地」という意味であろうか。

「倭」を「ワ」と読むか「ヰ」と読むかは、江戸時代に福岡県の志賀島で「漢委奴国王」と刻した金印が発見されて(注8)以来、「漢のワのナの国王」と「漢のイト国王」と読む両説がある(注9)。しかし、多くは現在のように考古学的成果が発見される以前の説であり、中国の印制とも合致しない。

中国の印制では金印が与えられるのは皇后、皇太子、丞相、大将軍御史大夫、諸候王、列候のみ。以下は位に応じて銀印、銅印が与えられる(梶山勝 大谷光男編『金印研究論文集成』所載「金印と東アジア世界」)新人物往来社 1994年など)

この「伊都(倭奴)国」に金印が与えられたのは当然だろう。「奴国」は名前を並べられた約三十ヶ国のなかの二つにすぎない。人口は多いが、日本を代表する国とは記されていない。その位置についても。考古学研究者の不断の努力によって明らかにされた成果をもとに新しく判断し直さなくてはならない。


⑤『魏志』の「一里」は七十六m前後だ
05 『魏志倭人伝』は「末蘆国(唐津)→伊都国(糸島市前原)」間を「五百里」と記している。ここを車で走って距離を測ると約三十八㎞前後ある。

と言うことは『魏志倭人伝』の「一里」は、三万八千m÷五百里=七十六m。すなわち百mに満たない距離を「一里」と言っているらしい。通説の「四百六十㍍前後」とは全然違う。約六分の一だ。この距離記載を「短里」と呼び、通説を「長里」と呼んでいる。

また、「朝鮮半島(金海)―対馬」「対馬―壱岐」「壱岐―末蘆(唐津)」間(それぞれ約六十~四十㎞)をそれぞれ「千里」と記している。

「朝鮮半島―唐津」間は流れが急で大荒れする対馬海流を横切らなくてはならない。海流に逆らって航海しなければならないから、西に向かって進み、かなり大回りする必要があった。歩いて測ることもできない。それで地図上より長い「千里=七十六㌔」という表現になったと考えられる。

また『魏志』韓伝は、韓の地域を「方四千里」と記録している。半島から北方の帯方郡、南方の倭地の除いた場所が「韓」地(一辺の距離約三百キロ)だというから、やはり短里の「一里=七十六m前後」で記録している。

帯方郡から「女王の都するところ、すなわち邪馬壹国首都」間は「一万二千里余り」だという。晋の前後の国である漢や唐代の距離記載、すなわち通説の「一里=四百六十m」で計算すると「五千五百二十キロ」となる。日本列島をはるかに超えてしまう。「短里」だと約九百十二キロで、九州の西側が範囲に収まる(図)

この件についても通説派は、邪馬壹国近畿説に都合が悪いので、頬かむりを続けている。

「伊都国→奴(ト)国」間は「百里」(七・六㎞前後)と記録されている。伊都(倭奴)国、すなわち糸島市前原からいったん南東に向かい、「日向(ひなた)峠」を越えて、少し東へ行けば吉武高木遺跡がある。実に正確だ。歩いた歩数で計算しているのであろう。通説の「那の津」は伊都(倭奴)国(前原)から二十五キロ以上離れている。「長里」では「約四十六㎞前後」となる。通説でもぜんぜん合わない。


⑥漢音に「ワ」が登場する理由は?

十一世紀完成の字典『集韻』で「ヰ」の音に「ワ」が加わった事情については、『旧唐書』『新唐書』の記述と関係があるのではないかと考えられる。

『旧唐書』(九四五年完成)は日本について「倭国」と「日本」という二本立てで記載していて、「は古(いにしえ)の倭奴国である」「日本は倭の別種」である」と記載している。

「倭伝」の記事を通説は「はいにしえののナ国である」などと読んでいる。が、これでは「ワ」が重複していて文章になっていない。徹底的に簡素化した表現を目指している史書としては考えられない読みである。明らかにごまかしだ。

要するに『旧唐書』は、中国の歴代王朝がこれまで付き合ってきた、あるいは六六二年(『日本書紀』では六六三年)の「白村江の戦い」を戦った相手は「倭国」であり「日本」ではない。「日本」との付き合いが始まったのは「長安三(七〇三)年」(使者は粟田真人)からであると記載しているのだ。もちろん、「九州年号」の消滅、大和政権の年号(大宝)の開始(七〇一年)とぴたりと合っている。

一方、『旧唐書』に遅れること約百年後の一〇六〇年に完成した『新唐書』では、「倭国」の文字は消え、「大和政権(日本)の言い分」をほぼ全面的に取り入れて記録している。「日本はもともと倭国と言っていたのであり、名前を変えただけだ。倭国は我々の政権そのものであった」という大和政権側の主張(『旧唐書』に「疑わしい」と記載)をそのまま受け取って記録したと考えられる。

この時期は日本の平安時代に当たり、大和政権が全国の支配権を確固たるものにした時期である。中国側の担当者も代わり、それを認めてしまったのではなかろうか。通説派は『旧唐書』の記載も自説に都合が悪いので、もっぱら百年後に書かれた『新唐書』を用いている。まったくあきれた連中ではある。
06 「大和政権」の「大和」は漢字の音としては決して「ヤマト」とは読めない漢字である。「だいわ」だ。「大」を美称とみると奈良県一帯は当時「和(わ)」と呼ばれていた地域である可能性がある。奈良盆地を象徴する「三輪山」も、本来「美しいの山=美和山」という字義であったと考えれば納得もできよう。

要するに、『集韻』で「ヰ」の読みに呉音系統、すなわち日本語の読みである「ワ」が加わったのは日本列島の支配権を確立した近畿(大)和政権の主張によるものと考えられる。

次回「邪馬壹国 その2」に続く(2023年8月)

ブログNO.179
ウクライナが危ない
 欧米の支援も息切れ、滅亡してしまうのか 

  ウクライナ情勢が怪しくなっている。長期戦の様相を深め、米や欧州各国の援助疲れが見え、ロシアとの国力の差が深刻になっているようだ。ウクライナは生き残れるのか、プーチンが主導する「独裁体制」に飲み込まれてしまうのだろうか。

前回のこの件(当ブログ171)で、ロシア国内の反プーチンの動きが顕著化してウクライナへの侵略行為が出来にくくなり、いずれ停戦とか休戦に追い込まれることを期待した。

 だが、プーチン一派の反プーチン派への弾圧や大量のフェイクニュースの垂れ流しが効いているのだろう、侵略行為へのロシア国内の反対への動きが報じられることは少ない。

 米国やウクライナ当局の発表によれば、ロシアはこれまでにウクライナへ派遣した兵力31万人の大半、約30万人を失ったという。もちろんこの数字の中には「ワグネル」民間の軍事会社や監獄にいた受刑者数千人が兵士に仕立て上げられているようだから、正規のロシア兵がどの程度いるのかはわからない。

それでもかなりの数の正規兵もいるだろう。プーチンは、これらの正規兵も首都から離れた田舎の出身者を選んでいるらしいから、首都近辺で反政府の動きが頻発する危険を回避しているのだろう。まったくどこまで悪賢いのか底の見えない男だ。

一方ではやはり、ウクライナの反撃にあってロシアの弾薬不足が顕著になった。そこで同じ反米を掲げる北朝鮮や中国から弾薬数万発を購入したり、イラクから数千発の無人機を買い入れて急場をしのいでいるらしい。

現状では、今年6月ごろからウクライナの反撃が始まったとされた。だがこれもロシア側の塹壕や堅い守り、地雷の敷設などによって計画通りには進まなかったと見られている。今は、欧米からの支援も期待するほど進まず。ウクライナ側の弾薬不足が顕著になっているという。

おまけに侵略前、青息吐息状態だったロシア国内の兵器産業も息を吹き返しているという。確かに「侵略戦争」の負担はきついが、この8月以降、国のGDPは黒字に転換しているとか。何といってもロシアはウクライナの10倍以上の土地と人口を持つ大国だ。本気で戦争に突入したらウクライナ単独では勝負にならないのは分かり切っている。

米国戦争研究所の発表では、この戦争でウクライナが勝利するためには米国の支援は天文学的なものになる、との悲観的な話もある。仮に米国がウクライナの求めに応じてF16戦闘機とか長距離射程のGLSDBなどを提供することになれば、それこそ米国とロシアのガチの対決となり、それこそ世界大戦にまで発展する恐れもある。

戦いを有利に進められなかったゼレンスキー大統領の支持率も20%ほど落ちているとか。

最大の支援国アメリカのバイデン大統領がうまく選挙を乗り切れるか。そして今後どう出るか。EUの支援がどこまで続くのか。イスラエル・ガザ地区の一斉殺戮をどう納めるかなど不確定要素が多くて予断を許さない状況が続いている。この世はまさしく地獄の様相を深めているようだ。

                             (202312月)