お龍、土佐和食(わじき)へ(5) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[龍馬と交流したキリシタン牢番人]

塩屋餅店南東向かいから舗装小径(だったと思う)の生活路に入り、南下。両側に二軒過ぎると二方向が車道の十字路に出るが、尚も南下する。更に左手に二軒過ぎると車道の十字路に出る。


 

その十字路北西角の砂利の駐車場は、な国境近くの松山街道 ぜか案内板が建っていないが、自治体発行のウォーキングマップに記載されている初代の赤岡警察署跡である。明治10年代に設置されたのだが、警察署が建つ前は西浜獄舎だった。ここに明治21223日、長崎の浦上キリシタンの男性信徒25名が投獄された。


 

豊臣時代から徳川時代、ご存知のようにキリシタンは迫害されていたが、藩政時代半ば、長崎の浦上村(現、長崎市浦上地区)に隠れキリシタンが数万人いることが発覚し、寛政2(1790)から 慶応3(1867)にかけて4度、長崎奉行所はキリシタンを検挙した。慶応3年時のもキリシタン楼東から のは、浦上村全村のキリシタンが総崩れになったことから「浦上四番崩れ」と呼ばれる。


 

が、その後、この件がフランス等との外交問題に発展したせいで、キリシタンは一旦解放された。

しかしそれも束の間、新政府は日本を政治的・思想的に統一するため、天皇を神格化しようと神道を国教と定め、それ以外の宗教を邪教として弾圧した。その代表的なものが廃仏毀釈だが、キリシタンも再び取り締まられることになったのである。

 

そして慶応45月、再び浦上信徒3,434名が捕らえられ、指導者と一般信徒に分けキリシタン楼西から られた後、全国10万石以上の藩に振り分けられ、その地で投獄されることになった。土佐藩改め「高知藩」には120人が護送された。


 

彼らは二回に分けて土佐に送られたが、いずれも松山の三津浜に上陸後、松山街道(ジョン万次郎帰国道)を通って土佐に入った。先発組は戸主等の男性信徒25名で、明治2124日、長崎を出発し、赤岡村へと向かった。後発組は女子供・老人たち95名で、翌年1月初旬、土佐に入り、平井収二郎らが切腹させられた山田橋番所の獄舎に繋がれた。山田橋獄舎では人間扱いされず正福寺手水鉢 、三畳の間に18人、八畳に41人もが詰め込まれ、横になることもできなかったという。


 

それに比べ、赤岡の西浜獄舎は六畳一間と四畳二間で、改宗を迫る拷問や強引な尋問はなかった。これは坂本龍馬ら土佐勤王党員と交流していた正福寺(廃仏毀釈で廃寺に)の元住職・須藤楠吉が自ら進んで牢番になっていたからである。

 

自分も寺を奪われ、無理やり還俗させられた身であり、また赤岡村は明治以降も賤民部落として差別され続けたため、浦上信徒の辛苦が痛いほど分かったのだろう。
拷問や尋問がないのは信徒にとってはいい旧菊水楼 が、日々退屈でたまらない。そこで楠吉は信徒に紙細工を勧め、傘袋や弁当入れを製作させ、気を紛らわせるようにさせた。


 

しかし全く信徒に改宗を説諭しないようでは、香我美郡奉行所が黙ってはいない。そこで信徒は一人ずつ与楽寺聖天堂に呼ばれた。聖天は男女和合の仏である。堂内には以前触れた遊郭・菊水楼の遊女がおり、胸を大きくはだけ、太腿を露わにし、妖しい笑みを浮かべながら信徒に酒をすすめるのだった。

姦淫の罪を犯させることによって改宗させようとしたのだが、誰一人破戒するものはいなかった。


 

一方、明治4年、政府は欧米諸国との不平等条約改正のため、岩倉具視を大使にした使節団を派遣したが、行く先々の国でキリシタン迫害を非難された。使節団が帰国後、このままでは条約改正がままならないと判断した政府は明治63月、信徒を故郷へ帰す決断をしたのである。


 

その間、信徒と赤岡村の人々の間では交流もあった。その信徒が蒔いた「種」は昭和7年になって芽吹くことになるのだが、それは次回以降に。

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