[龍馬と交流したキリシタン牢番人]
塩屋餅店南東向かいから舗装小径(だったと思う)の生活路に入り、南下。両側に二軒過ぎると二方向が車道の十字路に出るが、尚も南下する。更に左手に二軒過ぎると車道の十字路に出る。
その十字路北西角の砂利の駐車場は、な ぜか案内板が建っていないが、自治体発行のウォーキングマップに記載されている初代の赤岡警察署跡である。明治10年代に設置されたのだが、警察署が建つ前は西浜獄舎だった。ここに明治2年12月23日、長崎の浦上キリシタンの男性信徒25名が投獄された。
豊臣時代から徳川時代、ご存知のようにキリシタンは迫害されていたが、藩政時代半ば、長崎の浦上村(現、長崎市浦上地区)に隠れキリシタンが数万人いることが発覚し、寛政2年(1790)から 慶応3年(1867)にかけて4度、長崎奉行所はキリシタンを検挙した。慶応3年時のも のは、浦上村全村のキリシタンが総崩れになったことから「浦上四番崩れ」と呼ばれる。
が、その後、この件がフランス等との外交問題に発展したせいで、キリシタンは一旦解放された。
しかしそれも束の間、新政府は日本を政治的・思想的に統一するため、天皇を神格化しようと神道を国教と定め、それ以外の宗教を邪教として弾圧した。その代表的なものが廃仏毀釈だが、キリシタンも再び取り締まられることになったのである。
そして慶応4年5月、再び浦上信徒3,434名が捕らえられ、指導者と一般信徒に分け られた後、全国10万石以上の藩に振り分けられ、その地で投獄されることになった。土佐藩改め「高知藩」には120人が護送された。
彼らは二回に分けて土佐に送られたが、いずれも松山の三津浜に上陸後、松山街道(ジョン万次郎帰国道)を通って土佐に入った。先発組は戸主等の男性信徒25名で、明治2年12月4日、長崎を出発し、赤岡村へと向かった。後発組は女子供・老人たち95名で、翌年1月初旬、土佐に入り、平井収二郎らが切腹させられた山田橋番所の獄舎に繋がれた。山田橋獄舎では人間扱いされず 、三畳の間に18人、八畳に41人もが詰め込まれ、横になることもできなかったという。
それに比べ、赤岡の西浜獄舎は六畳一間と四畳二間で、改宗を迫る拷問や強引な尋問はなかった。これは坂本龍馬ら土佐勤王党員と交流していた正福寺(廃仏毀釈で廃寺に)の元住職・須藤楠吉が自ら進んで牢番になっていたからである。
自分も寺を奪われ、無理やり還俗させられた身であり、また赤岡村は明治以降も賤民部落として差別され続けたため、浦上信徒の辛苦が痛いほど分かったのだろう。
拷問や尋問がないのは信徒にとってはいい が、日々退屈でたまらない。そこで楠吉は信徒に紙細工を勧め、傘袋や弁当入れを製作させ、気を紛らわせるようにさせた。
しかし全く信徒に改宗を説諭しないようでは、香我美郡奉行所が黙ってはいない。そこで信徒は一人ずつ与楽寺聖天堂に呼ばれた。聖天は男女和合の仏である。堂内には以前触れた遊郭・菊水楼の遊女がおり、胸を大きくはだけ、太腿を露わにし、妖しい笑みを浮かべながら信徒に酒をすすめるのだった。
姦淫の罪を犯させることによって改宗させようとしたのだが、誰一人破戒するものはいなかった。
一方、明治4年、政府は欧米諸国との不平等条約改正のため、岩倉具視を大使にした使節団を派遣したが、行く先々の国でキリシタン迫害を非難された。使節団が帰国後、このままでは条約改正がままならないと判断した政府は明治6年3月、信徒を故郷へ帰す決断をしたのである。
その間、信徒と赤岡村の人々の間では交流もあった。その信徒が蒔いた「種」は昭和7年になって芽吹くことになるのだが、それは次回以降に。