宇和島市の坂本龍馬と幕末史跡大回遊探訪(1) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

龍馬、土居通夫と御船手組役宅で時勢を語らう

今年の元旦に巡った宇和島城下の龍馬の伝承地については、以前、滞在所の町会所跡を紹介したが、龍馬や龍馬と近しい関係にあった人物と交流のあった宇和島藩の者及び、その探訪コース沿いにある藩政期の史跡その他を紹介したい。この回遊コースは一日がかりとなる。



宇和島中心街には観光客用の無料駐車 場がないため、私は宇和島駅南方の宇和島グランドホテルに宿泊した。尚、宇和島市街地にはネット予約できる安宿が殆どない。このビジネスホテルもシングル料金が4,000円をかなり上回る。



まずは龍馬が宇和島城下を訪れた文久元松村彦兵衛と保太郎 年初頭時の土居通夫の居住地跡周辺を訪れる。但し、その居住地は藩関係の宿舎だったため、かなり大まかな場所しか分からない。

通夫は天保8421日、足軽の大塚南平祐紀(なんぺいすけのり)の六男として生を受け、幼名を万之助と言った。5歳の頃、松村彦兵衛の養子となり、保太郎と改名する。17歳時元服して彦六と改名。



が、24歳時、理由は不明だが、松村家を去り、一旦実家に戻った後、船奉行配下の御船手組、中村茂兵衛の娘・安子と結婚、婿養子となり、中村彦六となる。龍馬と交流したのはこの中村彦六と名乗ってい た頃である。



私はホテルを発つと、裁判所西沿いの道路を北進した。これは昼に食べる弁当をコンビニで買うため。この道路が旧道の方の国道56号と交差する箇所にある、宇和島オリエンタルホテル一階がローソンになっている。和霊公園の機関車



国道を北に横断すると右折し、すぐ左手に現れる和霊公園内の機関車展示所に寄った。1940年、日立製作所笠戸工場で製造されたC12259である。同車は同年9月より196812月まで、国鉄宇和島線で走っていた「宇和島の顔」。引退後、すぐ永久保存が決定されている。



機関車見学後は公園北側の宇和島空襲死 没者追悼平和記念碑を見学して、公園の北西角辺りから道路に出て、須賀川沿いを西進した。

須賀川は護岸工事等で当時の面影はあまりないが、柳の木が一本残っており、そこだけは趣がある。


御船手役宅跡西端

最初に現れる橋、須賀橋を渡って須賀川北岸に移り、西進を続ける。すぐ右手に水路が現れるが、そこからバイパスの方の国道56号までの「須賀通」が全て御船手役宅跡である。いづみモータープール西方のY字路に挟まれた細長い住宅地は字名が須賀通ではないため、近代以降に形成された住宅地である。



龍馬は宇和島城下に滞在中、毎日のように彦六宅を訪ねた という。「土居通夫君伝」によると「日夕往来して国事を談じ、堅く将来の提携を約したり」とある。役宅跡俯瞰

龍馬が宇和島を訪れたのは宇和島藩主・伊達宗城公が尊攘派であり、山内容堂公と共に「幕末の四賢侯」と称されていたことが影響しているものと思われる。



「将来の提携」とは、その後結成される土佐勤王党が土佐藩の実権を握ってからのことであることは言うまでもない。文久元年10月の丸亀藩訪問時と同様、勤王党が藩の実権を握った後、すぐに近隣の各藩と協力・連携できるよう、地固めをしていたのだろう。



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