元旦に坂本龍馬とその関連の志士や幕末史跡について、宇和島市中心街を丸一日かけて回遊して巡ったことは以前述べた。龍馬が文久元年初頭、宇和島城下を訪れた際の滞在所は町会所の二階であり、そこは高野長英も家老・桜田佐渡の別邸を借り受けるまでの間、滞在していた場所でもある。
龍馬の宇和島短期脱藩説については、これまで何度も記事を投稿しているため、当ブログを開設当初からご覧の方は、その詳細を把握しているものと思うが、再度、その概要を解説する。
まず、龍馬が文久元年、宇和島城下を訪れ、土居通夫や児島惟謙と剣道の試合をし、国の行く末について語り合った、ということは、明治以降に出版された殆どの通夫の伝記や小説に記載されている他、惟謙の一部の伝記にも記述されている。
後者の伝記には、龍馬は土佐の御庭番である「一水亭御出入方」という諜報機関の首級として訪れた旨、記述されている が、土佐藩の記録にはこういう役職は記載されていない。これは龍馬の自称なのか否か、定かではない。この時、才谷梅太郎と名乗っていたという。恐らく、龍馬は武市瑞山の意向を受け、勤王藩である宇和島藩の動向を探っていたものと思われる。
各文献には龍馬が訪れた時期を「文久元年」、或いは「文久元年秋」と記載しているが、後者は龍馬が藩の許可を得て、丸亀の矢野道場へ行った時のことと解釈したものであり、事実ではない。なぜなら龍馬は矢野道場へ行った後、長門の萩と大坂を二度も往復していることが「維新土佐勤皇史」で述べられていることから、矢野道場から宇和島城下へ文久元年秋以降に訪れることは、物理的に不可能だからである。
では文久元年のいつ頃なのか、ということは’10年時に述べたように、龍馬が慶応3年9月に帰国した際、日根野道場師範代・土居保とその孫、木岡一に語った内容から推察できる。龍馬は二人に対して、佐川山を雪
の中、才谷梅太郎と変名して、隠れながら山道を登っていたことを話している。
変名するということは脱藩を意味し、国境の佐川山を越えた先には、宇和島城下 へと到る往還が走っている。その往還は鬼北町を通っているが、町では昔から龍馬は脱藩して宇和島へ行ったことが言い伝えられている。
このことから、龍馬が宇和島へと短期脱藩した時期が文久元年1月ないし2月と推察できるのである。3月3日は土佐で永福寺事件が起こり、龍馬も事件に関わったことが「汗血千里駒」に描写されている。
龍馬が宇和島城下の町会所に滞在していたことを知っている龍馬研究家や歴史研究家は何人もいる。しかし彼らは町会所跡の比定はできていない。それは相当な読図力を要するからである。町会所は藩政期の宇和島城下の町割り図に記載されているが、その周囲に、現在の地図と比較・比定できる、目印になるようなものが極めて少ないのである。その中で比定できるものは城の外堀と吟味役所である。
外堀は現在、国道56号(旧道)となっており、吟味役 所跡には4軒の民家が建っている。そこでそれらと町会所の位置関係を何時間もかけて徹底的に調べ上げ、遂に番地レベルまで比定することができたのである。この
ような根気を要す作業を行う根性のある研究家が今までいなかった、ということである。
そこは現在の住居表示で言うと本町追手2丁目3-21、M氏宅である。この家と南隣の民家は、周囲の現代的な住居とは異なり、商家風の古い建物。実は藩政期の絵図では表記が見えづらいものの、町会所の南隣には、何らかの藩の建物が記載されている。前述の高野長英の隠れ家跡や大村益次郎邸跡に比較的近い佐伯番所跡の建物も、幕末のものとは違うが、皆、近代の古い家屋である。これは家の所有者が往時を偲んで敢えて建て替えないのか、それとも偶然のことなのかは分からない。
公共交通機関で訪れる際は、追手通り前バス停東の十字路を南下したすぐ右手。バス停から徒歩数十秒。車で訪れる場合は無料駐
車場がないから困る。少し遠いが道の駅みなとオアシス宇和島なら利用可。但し、休日は満車になっていることが多い。
町会所跡以外の龍馬の立寄り先跡や交流した志士の居宅跡、墓所等はいずれ「坂本龍馬の宇和島城下史跡大回遊(仮称)」シリーズの記事で。
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