≪坂本龍馬の想い人を奪った豪商≫
千砂子波止の袂まで戻ると北の住吉神社境内に入ります。この周辺もももへの 手紙や旅の贈りものには何度も登場しましたが、この神社、坂本龍馬と間接的に関係があります。
以前、龍馬からの結婚の申し込みを断ったお徳の晩年の住居跡について投稿
したことがありましたが、お徳はその後、山内容堂公の御殿女中をし、それから大坂に渡り、豪商・鴻池善右衛門の妾となっていました。住吉神社の社殿を造営したのは善右衛門なのです。
善右衛門は広島藩の御用商人でもあったのですが、文政11年(1828)秋、広島藩の勘定奉行が大坂で、御手洗の町の拡張に伴う埋め立てと港の整備を行うに際して、守り神として住吉神社を勧請したい旨の話を善右衛門にしたところ、善右衛門が社殿の寄付を申し出たのです。
善右衛門は大坂の住吉神社の2分の1のサイズで木取りを
行い、文政13年、名代として弥四郎が大工を連れ、御手洗を訪れ、社殿を建立しました。神社の石垣には1446個もの切石を使用し、社地埋め立て作業は千人役にも上りました。これを機に今日の住吉町の町並みが出来て行ったのです。
余談ですが、お徳は善右衛門の死後、帰
国。明治期、元水戸藩士の警官・野村氏と結婚。夫の死後は郷里の中村に帰り、97歳で天寿を全うしました。
神社の東側には長大な雁木・住吉雁木が築かれていますが、旅の贈りものでは、回り燈籠を載せたミニチュアの北前船を流すシーンが撮影されました。ももへの手紙での藁舟を流すシーンに通じるものがあります。
神社参道入口に架かる石造の太鼓橋も、元は鴻池市兵衛が寄進した木造橋でした。
その南袂から伸びる短い波止が、ももが飛び込みの練習をしていた際、イワに突き落とされた場所で、ブルーレイ&DVD発売宣伝ポスターにも描かれていた波止です。しかしそれらでは若干、実際
とは異なって描かれています。映画では波止の上面も切石が敷き詰められていましたが、実際、上面はコンクリートで固められています。但し、監督等スタッフが御手洗を訪れたのは7年以上も前のため、当時は切石のままだったのかも知れません。
太鼓橋北袂に建つ大きな石造高燈籠も両映画では印象的でしたが、幕末の庄屋で豪商の三笠屋・金子忠左衛門が天保3年
(1832)に寄進したもの。そう、この金子邸こそ、以前投稿したように、龍馬がいろは丸沈没後、鞆の浦から下関に向かう途次、滞在した屋敷なのです。
高燈籠西の明治初期の町家・寺本家住宅南側に町歩きに便利な立体絵図板が設置されていますが、この図はホームページ(豊町観光協会か何かの)にも公開されています。
ここからは御手洗の町が一望できる場所へと上がって行きます。
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